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2020年4月8日

悪疫で最期を迎えた方の物語を報道で知ると胸が苦しくなる.

感染拡大を防ぐために、愛する家族すら患者本人に近づくことさえ許されない.液晶越しに別れを告げられればまだ良い方で,入院した後,最期まで会えぬまま,国によっては遺灰すら戻ってこないという.

私の職場でも感染拡大が日々深刻化するにつれ,「原則面会禁止」の「原則」が「鉄則」になりつつある.
そして,私の目の前では,当然のごとく普段と変わらぬひとつひとつの死がある.

この悪疫に対する考え方は,事ここに至っても個人差がかなり大きく,面会禁止だというのにコッソリ侵入しようとしたり,身近に感染者がいるかもと自覚しながら院内に立ち入ろうとする方もいる.私もそのような場面では,心を鬼にして「科学的,法的根拠はないのだが」と断ってからお引取りいただいている.これまで良い関係を築いていたはずの家族との間に隙間風が吹き始めている.

例外を認めると,次々にその例外の隙間に人々が殺到する.検問官である看護師たちは,面会者ひとりひとりの聞き取り調査,健康状態の問診など,それだけで本来の勤務が滞ってしまう.
悪疫と直接闘う場でない当病棟でさえ,スタッフの間には不穏な空気が漂い始めている.私が憐憫の情を示そうものなら,あのセリフを錦の御旗にされて,全人格を否定されるが如く糾弾される.

「院内で感染が発生したらどうするのか!」

悲鳴のようなその一喝で,皆,口を噤む.この喝に対しては,どのような建設的な意見や,科学的な提案も無力だ.
皆,自分が感染源になったら,自分が感染の契機を作り出したら・・・ということを恐れている.そうなったら,あらゆる方面から糾弾され,この地では生きてはいけないのだろう.

皆で話し合った上で?「余命が数日になったら2,3名だけの家族を呼ぶ」という方針をとらざるを得ない現場・・・

何かおかしくないか?

余命数日になる「前までの」ゆとりある時間を,家族とより良く過ごすために,苦痛を和らげているのではないか?
そもそも「数日」や「2,3名」の根拠は?
家族の中から2,3名を誰がどのように選ぶのか?

これまで「家族もホスピスケアの対象です」とドヤ顔で言ってきたのに,その家族と対峙し,本人と家族を引き離す己の任務に耐えられなくなってきた.私は,残された限られた時間を,己の生を感じながら苦痛なく,愛する人と共に穏やかに過ごすことが「このケア」の在り方だと信じてきた.
それが悪疫によっていとも簡単に崩されてしまった.

今,私にできることは,入院による家族の別離を防ぐこと.自宅に居られる方には極力自宅で過ごしてもらい,家族の面会が可能な場にいる方には,可能な限り長くそこで過ごしてもらう.家族のいない人,会わなくてもいいと思っている人を積極的に引き受けるようにせざるを得ない.もはや,症状緩和で得られるメリットよりも,家族と引き離されるデメリットの方が大きいと判断するからだ.

もうこの仕事,続けられないかもな・・・と思いながら,いつも愚痴れる畏友に愚痴メッセージを送ると,

 ”永く診てもらっている主治医は『家族同然』であり,患者さんはたとえ本当の家族に会えなくても,主治医という『家族』に見守られている安心感があると思う.そして,家族も信頼できる主治医が居てくれることに安心感を覚えるのではないだろうか. このような状況でも患者と家族の心はつながっている.誰よりもずっと生活を共にしてきたのだから”

と教えていただいた.平時ならば,われわれは家族の役割を大切にし,その領分を侵すことは決してしてこなかった.もう,この非常時にはその領分に飛び込んでもよいのではないのだろうか・・・

ほんのちっぽけなことなのかもしれないが,私の五感で捉えた患者の姿,言葉,雰囲気に加え,医学的な状況を,頻繁に担当患者の家族へ,私自身が『家族の一員』として,リストアップした電話番号へ,伝えていくこととした.家族に嫌がられるのではないか,という心配は杞憂であった.泣きながら話を聞いてくれる方もおられた.会えない家族の不安によるつらさは相当なもので,そのつらさを放置してはならないと,電話で話しながら痛感している.最前線のスタッフの苦労は想像を絶するが,それ以外の医療スタッフひとりひとりが,かなり追い詰められているのではないだろうか.

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