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17歳だった私はタイにいた。そして、36歳の私もタイにいる。

今、36歳の私はタイにいる。夫と小さな我が子と共に。

私と会ったことがある人はみな、私のことを「タイが大好きな日本人」と思うだろう。だが、17歳の私は違った。「もう二度とタイには住みたくない」と心に誓い帰国したあの日を、今でもはっきり覚えている。そしてとある人に言われた「あなたはまた必ずタイに戻って来る。自分でも信じられないくらい、タイが好きになっているはず」という言葉も。


タイ人ファミリーと暮らし、タイで高校生をしていた17歳

高校の制服に身を包み、バイクタクシーに「市場まで」と告げる。
朝の市場は活気にあふれ、魚や野菜の匂いが鼻をくすぐる。張り巡らされた細い道を抜け、向こう岸の学校へ渡るための船乗り場が見えてきた。

当時撮った、市場の船乗り場の写真

学生料金の2バーツを払い、渡し船でチャオプラヤ川を渡ると、学校の船着き場に着く。
校門にあるサーンプラプーム(タイの祠)の前に整列し手を合わせ、続けて、先生方に合掌しながら『サワディーカー』とお辞儀をする。
今日も交換留学生の "タイの高校生" が始まった。

当時撮った、チャオプラヤ川沿いの学校

毎朝の屋外で行われる全校朝礼はとにかく暑い。
国旗掲揚、国歌斉唱、そして「アラハンサムマー…」と始まるお経。その後は長々と続く先生のお話タイムだ。生徒指導の先生が声を荒らげている様子を横目に、「なんだか日本と同じだな」と心の中でクスッとしたのを、今でも覚えている。

常識が通用しない世界、友達に救われる

タイで過ごした1年は、日本の地方都市、片田舎で生きてきた「私の常識」が全く通用しない世界だった。食事中に通話するタイ人、時間通りに進まない予定、突然響く爆音ミュージック、やたらと近いパーソナルスペース ―― 今でこそ、それらが「異文化」だと理解できる。

でも、当時の私は異文化を「目に見える違い」だけだと思い込んでいた。伝統服や舞踊、言葉、食べ物といった物質的なものが異文化そのものだと信じて疑わなかった。そのせいで、違いを受け入れるまでに多くの時間を費やし、ホームシックの状態が長く続いた。

当時撮った、チャオプラヤ川

そんな日々の中で、友達の存在は救いだった。本当に、彼女たちは優しかった。もし彼女たちがいなかったら、私は帰国後に「タイはもういい」と本気で思っていただろう。
つい先日バンコクの街中でばったり友達に会い、改めてこう感じた。彼女たちがいたからこそ、タイを嫌いにならずに済んだのだ、と。

帰国後、自分の意思で人生を歩みだす

田舎暮らしは村社会そのもので、世間体がすべてのように感じた。「普通高校に行き、大学に進学してほしい」「大学は家から通える国立」という親からのプレッシャー。さらに、祖母からは「いい大学を出て、いい会社に就職し、いい人と結婚」と、小さいころから繰り返し聞かされてきた。

留学から戻り、自分の意思がよりハッキリした私は国際色豊かな私立大学に進学する。それも家から通えない場所にある。

在学3年目、AFSのチラシを手にした瞬間、感慨深く感じ撮った1枚。
(※AFSは高校交換留学の非営利組織)

キャンパスでは日本語とヘンテコな英語を駆使しながら、毎日勉強に励んだ。全国から集まった日本人、そして世界各国からの留学生たちと日々は刺激的であり、居心地の良い空間だった。これまでの田舎特有の閉鎖感と世間体を気にした空気とは異なり、ここでのびのびと過ごした4年間は一生の財産だと思う。

さて、ここにはもちろんタイ人の留学生もいた。彼らが話すタイ語を耳にすると、なぜか心が温かくなる。それと同時に、自分のタイ語力の低さに恥ずかしくなることも多かった。

開放的な環境で色んなことを考える、そんな当時に撮った写真。

改めて1人で考える時間が増えたことで様々な感情が引き金となり、私の中でタイへの思いが再燃する。
「タイにもう一度行きたい」「タイ語を勉強したい」「もっとタイのことを知りたい」「タイ語でタイの歴史を学びたい」――次々とやりたいことが浮かび上がった。

人生とは不思議なものだ。
大学3年目、私は休学し、2度目のタイ留学に飛び立つ。

タイではなく、インドネシア?

日本で2社勤めた。どちらもタイとの関わりが深い会社で、2社目ではタイ出張の機会も得た。そしてタイ駐在の話も出ていたそうだが、私は突然会社を辞めてしまう。

振り返ると、人生を大きく変えたのは、人との出会いだったと気づく。ならば、少しでもいい1mmでもいい。誰かの可能性を広げたい、と思い、日本語パートナーズに応募することに決めた。そして派遣先は、タイではなくインドネシアだった。

ある日どうしようもなく大渋滞。乗り合いの車を降りて歩いて通勤した。

タイとは異なる東南アジア、イスラム教、インドネシア語・・・最初は戸惑うことが多かったが、現地の同僚や学生たちと関わる中で、少しずつ自分の世界が広がっていった。

乗り合いの車に乗って通勤し、屋台の食べ物を楽しみ、時には熱を出してお腹を壊す。タイに駐在していたら出会えなかった世界だ。

片言のインドネシア語でも仲良くしてくれた、大好きな同僚たち。

そして、タイのことを知っているからこそ見えてくるインド文化圏の名残。イスラム以前の外来語・サンスクリット語がそのままインドネシア語に残っていることに気づき、タイ語と照らし合わせてひとりでニヤリとすることもあった。

自力で来たわけではない、現在のタイ生活

これまで自力でタイやインドネシアに行った。しかし夫と結婚してからは、夫についてマレーシア、ベトナム、そしてタイと、異なる国々に住むことになる。

「あなたはまた必ずタイに戻って来る」―その通りになった。しかもあの帰国から2度目のタイ滞在。加えて、今、タイが大好きだ。

これまで一度もタイ衣装を着たことがなかった。あまり興味がなかったからだ。
今回三度目のタイで初めて「着たい」と思い、すぐにトライした。

人生は予想できない。しかしそれが人生の面白さでもある。

今の私はタイ語を話し、タイ語を読み、タイ語を書く。子供が生まれる直前までタイ語の勉強を欠かさずに行い、いつかタイ語でエッセイを書きたいと思っていたほどだ。

それだけではない。
タイの歴史や文化、タイ人と呼ばれるタイに住む人々の暮らしにも強い興味があり、時には難解な論文やタイ語の文章を読むことさえある。育児の合間に街歩きをし、歴史的な建造物を見学することもざらだ。

古い貴族の邸宅を見学させていただいた日に撮った写真

何より、温かいタイの人々に助けられながら小さな我が子と過ごしていると「タイで子育てができて幸せだ」と心の奥底から実感する。

そう、17歳の私には到底想像できなかった未来を、今、私は歩んでいる。

せっかくなのでタイの衣装でロイクラトンに参加した我が子。

この先、大好きになったタイを離れる日は必ず来るわけで、その時はきっと「大好きなタイ、また必ず戻って来るよ」と心に誓うに違いない。


#想像していなかった未来

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