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🔶私の奜きな奈良癜毫寺 高台で閻魔倧王を祀る倩智系䞇葉歌人ゆかりの寺

タむトル写真は、春、桜が咲き怿が散る季節に撮圱した、奈良垂にある癜毫寺びゃくごうじの山門です。

癜毫寺は、奈良垂街地の東南、高円山たかたどやた西山麓の高台に䜍眮し、癟段䜙りの石段を登るず境内から奈良垂街が䞀望できたす。

境内から奈良盆地が䞀望できる

寺の名前にある「癜毫」ずは、仏劂来の眉間のやや䞊に生えおいる長さ4.5もある枊巻き状の癜い毛のこずです。仏像では癜い枊巻きずしお描かれたり、氎晶などの光り物が突起物ずしお付けられたりしお衚珟され、仏の慈悲の光を衚し、光明を攟っお䞖界を照らすずされおいたす。

倩智倩皇の皇子、志貎皇子しきのみこの山荘跡に建おられたず䌝えられ、叡尊の匟子・道照が䞭囜から䞀切経を持ち垰っおからは「䞀切経寺」ずも呌ばれたこの癜毫寺は、倚くの重芁文化財ずなる仏像、萩や五色怿でも有名です。

今回は癜毫寺の魅力に぀いお芋おいきたしょう。

創建ず歎史

癜毫寺ずいう寺号は、宇治垂の山城興聖寺に残る1220幎の経巻あずがきに「癜毫寺䞀切経之内」ずあるのが史料に確認できる初芋ずされおいたす。寺の草創に぀いおは明確ではありたせん。

䌝承によれば、この地には奈良時代の和銅幎間708幎 - 715幎に志貎皇子の山荘があったずされたす。菅家本「諞寺瞁起集」によるず、もずもずは空海の垫にも圓たるずされる僧・勀操ごんそうが高円山麓に建立した岩淵寺の子院であったずされたす。

癜毫寺は西倧寺の叡尊えいそん興正菩薩によっお䞭興され真蚀埋宗の寺院ずなりたした。その埌、䞭興第二祖である叡尊の匟子道照が1261幎に䞭囜から䞀切経を持ち垰り、翌幎経蔵を建おおこれを収めたこずから「䞀切経寺」ず呌ばれるようになりたした。

1497幎には、叀垂氏ず筒井氏の兵火で本堂、閻魔堂、倚宝塔、䞀切経蔵などの堂宇をこずごずく焌倱したした。安眮されおいた鎌倉時代の仏像も損傷したしたが、持ち出されお珟存しおいたす。1520幎にも再び叀垂氏ず筒井氏の兵火に巻き蟌たれた蚘録がありたす。

江戞時代の寛氞幎間1624幎 - 1645幎に興犏寺の孊僧である空慶が埩興、幕府からの扶持もあり繁栄したものの、1757幎にも倱火で焌倱。明治の廃仏毀釈などもあっおしばらく荒れたしたが、人々の尜力で埐々に敎備され、1983幎には仏像を収蔵するための宝蔵が建おられたした。

宝蔵巊ず、空慶を祀る埡圱堂右

志貎皇子

䞇葉集の歌
「采女の 袖吹きかぞす 明日銙颚 郜を遠み いたづらに吹く」
をご存じでしょうか。

釆女うねめの袖を揺らしおいた明日銙の颚も、郜を遠くにしお空しく吹いおいる、ずいう歌で、明日銙宮あすかのみやから藀原宮に遷った埌に志貎皇子が詠んだ歌です。
䜕ずも優矎な歌ですね。

癜毫寺の地に別荘のあった志貎皇子は、枅柄で自然鑑賞に優れた歌人ずしお䞇葉集に6銖の和歌を残しおいたす。

・石ばしる 垂氎の䞊の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
・神なびの 石瀬の杜もりの ほずずぎす 毛無ならしの岡に い぀か来鳎かむ
・倧原の このいち柎の い぀しかず 我が思ふ効に 今倜逢ぞるかも
・むささびは 朚末求むず あしひきの 山の猟垫に 逢ひにけるかも
・葊蟺ゆく 鎚の矜亀はがひに 霜降りお 寒き倕ぞは 倧和し思ほゆ

どれも繊现な矎しさに満ちた名歌ですね。

倩歊倩皇が、倩智・倩歊䞡倩皇の諞皇子を集めお皇䜍継承の争いを起こすこずのないよう結束を誓った「吉野の盟玄」の際のメンバヌ草壁皇子・倧接皇子・高垂皇子・忍壁皇子・河島皇子・志貎皇子ですが、皇統が倩歊倩皇系に移ったこずから、倩智系であった志貎皇子は皇䜍継承ずは無瞁でした。

叙䜍や芁職ぞの任官蚘録がなく、持統倩皇の匟でありながら䞍遇な状況にあったずも蚀えたすが、政治よりも和歌などの文化の道に生きた生涯は、歌人ずしお優れた感性を持っおいた志貎皇子にずっおは、华っお幞せだったのかも知れたせん。

倩智系倩皇ず「田原たはら」の地

境内の南東の隅あたりに、犬逊孝氏揮毫の䞇葉歌碑がありたす。

笠金村の䞇葉歌碑

「高円の 野蟺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 芋る人なしに」
高円の野蟺の秋萩は、今はむなしく咲いおは散っおいくのだろうか、愛でるご䞻人もいなくお、ずの意です。

715幎9月、志貎皇子逝去の際の挜歌に察する笠金村かさのかなむらの反歌です。
笠金村は奈良時代䞭期の圹人越前守で、䞇葉集に45銖を残すなど歌人ずしお掻躍したした。

石碑の暪には朚補の説明板が立っおおり、歌碑に向かっお盎線䞊、玄3㎞の圌方、高円山の裏偎に志貎皇子のお墓田原西陵があるず曞かれおいたす。
田原ずいうのは、奈良垂東郚の地名で、癜毫寺のある奈良垂街東の高円山の裏偎さらに東に䜍眮したす。

志貎皇子の子、第49代・光仁倩皇は、皇倪子の桓歊倩皇に譲䜍した盎埌に亡くなり、広岡山陵平城京の東北に葬られたしたが、桓歊倩皇は即䜍埌すぐにその陵を田原東陵ぞ改葬するよう指瀺したした。

聖歊倩皇、光明皇后、元明倩皇、元正倩皇は倩歊倩皇系の血統で、その陵は平城宮の東北にある䞘陵地に集たっおいたす。
䞀方で、倩智系の倩皇の陵はこれより少し東に離れた田原の地に集められおいるように芋えたす。

光仁倩皇は、壬申の乱のあず倩歊系の倩皇が続いおいた䞭、久しぶりの倩智系の倩皇でした。光仁倩皇の父である志貎芪王はのちに倩皇号を远尊され、春日宮倩皇ずなり、墓も陵みささぎず呌ばれる様になりたした。

珟圚の皇宀は、志貎皇子の男系子孫にあたりたす。

桓歊倩皇が行った改葬の目的は、陵墓を敎理するこずで倩智系・倩歊系ず目に芋えるように区別するこずであった可胜性があり、桓歊倩皇の皇統意識の珟れかも知れたせん。

本堂

17䞖玀前半、癜毫寺再興時の建立ず芋られ、奈良時代以来の䞉間四面の圢匏を匕き継ぐ埩叀的様匏です。

本堂に収められおいるのは阿匥陀䞉尊阿匥陀劂来坐像、芳音菩薩・勢至菩薩阿匥陀劂来の脇䟍、聖埳倪子二歳像、䞍動明王ず、もう䞀䜓の阿匥陀劂来坐像です。

重芁文化財指定を受けた八䜓の仏像は、埌述の宝蔵に収められおいたす。

本堂

宝蔵 閻魔倧王ず眷属けんぞく

昭和に建おられた耐火構造の宝蔵には、本尊の阿匥陀劂来坐像、地蔵菩薩立像、䌝・文殊菩薩坐像、閻魔王坐像、倪山王たいざんおう坐像、叞呜・叞録’しめい・しろく像、興正菩薩叡尊坐像の重芁文化財が保管されおいたす。

本尊は阿匥陀劂来で、平安から鎌倉時代の䜜ず考えられたす。
桧材の寄朚造で挆箔を斜されおおり、䌏し目の物静かな枩顔ず穏やかな肉取りの䜓郚など、「品よく仕䞊げられた」寺のパンフレット仏様です。

䞡脇には文殊菩薩座像ず地蔵菩薩立像が䞊びたす。いずれも朚造です。
前者はもずもずは倚宝塔今は跡のみの本尊で、平安時代初期の特城を備え癜毫寺最叀の仏像です。埌者は鎌倉時代の䜜ずされたす。

この癜毫寺の仏像矀のなかで特に目を惹くのは、閻魔王坐像ず、眷属の倪山王坐像叞呜半跏像・叞録半跏像すべお鎌倉時代・朚造です。

閻魔倧王を祀る癜毫寺の様な寺は珍しく、これらはか぀おあった「閻魔堂」に安眮されおいたした。今でもこの寺では1月16日ず7月16日には無病息灜ず長寿を祈願する「閻魔もうで」が行われおいたす。

本尊の閻魔王ず倪山王は共に冥界の十王です。いずれも坐像も鎌倉時代の䜜で、倪山王坐像の䞭に残された墚曞により運慶の孫・康円の䜜ず刀明しおいたす。
叞呜半跏像・叞録半跏像も閻魔王の眷属で、康円䞀掟の䜜です。

地獄を支配するこれら䞀族、蚀わば「閻魔ファミリヌ」は、地獄においお亡者の審刀を行う裁刀官で、いずれの像も職掌に盞応しい憀怒の衚情を浮かべおいたす。

恵心僧郜源信の「埀生芁集」などに詳现が蚘されおいたすが、生前に十王を祀れば、死しお埌の眪を軜枛しおもらえるずいう信仰もあり、今なお畏怖・信仰の察象ずなっおいたす。

ほかに、癜毫寺を䞭興した興正菩薩・叡尊の肖像圫刻も重芁文化財ずしお宝蔵に安眮されおいたす。

癜毫寺の花 萩ず五色怿

癜毫寺は「花の寺」ずしお知られ、関西花の寺二十五ヵ所の第十八番にも遞ばれおいたす。

䟋幎、9月䞋旬から10月初旬にかけお萩が芋頃を迎えたす。山門から続く石段の巊右に参道を芆うように赀玫や癜の萩の花が怍えられおおり、境内にも倚数の花が芋られたす。
私が蚪れたのは2024幎10月䞊旬でした。

山門に続く石段
䞡偎は花を咲かせる朚々で芆われおいる

今幎は異垞な猛暑の圱響もあっお、花の状態はあたり良くない様でしたが、石段の巊右には写真の様な萩の花を芋るこずができたした。

萩の花2024幎10月䞊旬撮圱

たた、春には暹霢400幎の「五色の怿」も有名です。

東倧寺開山堂の糊こがし、䌝銙寺の散り怿ずずもに「奈良䞉名怿」の䞀぀ずしお名高いこの怿は、寛氞幎間1624幎 - 1645幎に興犏寺の塔頭・喜倚院から移怍したものず蚀われおいたす。

五色怿2024幎4月䞊旬撮圱


奈良垂街の寺瀟からは、少し足を延ばす必芁がありたすが、䞭心郚から離れおいるだけに蚪れる人もそれほど倚くなく、眺望も抜矀です。

宝蔵では珍しい閻魔倧王䞀族の仏像をはじめ、貎重な文化財を、明るい照明のもず間近で拝芳するこずもできたす。

䞇葉の心を感じ、奈良時代の歎史にも思いを銳せながら、花の季節に蚪れおみおは劂䜕でしょうか。



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