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🔶私の好きな奈良:秋篠寺 苔生す境内に残る本堂と天平仏 我が国唯一の伎芸天

奈良市の秋篠寺。
秋篠宮殿下の名称の由来となったこともあり、奈良の有名寺院の一つとして知られていますね。

一方で、静寂を重んじるこのお寺は、多人数の団体による拝観は受けつけていないため、奈良には修学旅行で来ただけという方の場合、コースには入っていなかったかも知れません。

人気のお寺ですので、既に個人的に訪れたという方は多いかと思います。
今回は、まだあまりご存じない人にもお伝えできる様、創建からの歴史や現在の姿について、書いてみたいと思います。

現在の正門である南門

創建と歴史

奈良時代末期に、光仁天皇の勅願で法相宗の僧・善珠が開いたとされますが、一説にはすでにこの地を所領としていた秋篠朝臣の氏寺に、光仁天皇が善珠を招いて勅願時に変えたとも言われ、正確にはわかっていません。

文献上の初見は「続日本紀」の記載で、宝亀11年(780年)光仁天皇が秋篠寺に食封一百戸を施入したとあります。「日本後紀」には、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌がここで行われたことが書かれており、皇室とも関連の深い寺院であった様です。

秋篠寺の南に位置する西大寺に残る「西大寺秋篠寺相論絵図」を読み解くと、平安後期からは西大寺との間にたびたび寺領をめぐる争論があったことがわかります。

1135年には、火災で講堂以外の主要伽藍を焼失しました。現存する国宝の本堂(タイトル写真)は、この講堂を鎌倉時代に再建したものです。それ以降も南大門をはじめとする復興造営が行われましたが、明治の廃仏毀釈にて十以上の建物とともに寺域の大半を失い、現在の姿に至っています。

なお宗派は、当初の法相宗から平安時代の真言宗、明治時代の浄土宗を経て、1949年以降は、既存の宗派に属さない単立寺院となっています。

境内

南門を入ると、うっそうとした木立に囲まれた参道が通じています。
門に至るまでの経路で、秋篠という地ののどかな風景で癒されていた心を、さらに別世界へと誘います。

多くの方は、この時点ですでに、秋篠寺が他のお寺とは違う、独特の魅力に包まれていることを感じると思います。

少し進んだ右側が創建時の東塔跡、左側が西塔跡になります。
写真は東塔跡に残っている礎石です。

木立の中にある東塔跡の礎石

塔跡を過ぎると、南門の北側は創建時の金堂、さらにその北は講堂があった場所になります。

前述したように、講堂は現在の本堂となっていますが、手前にある金堂の場所は何も建っておらず、写真のように苔庭となっています。自然の林に覆われて日照が遮られるため苔の生育に適しており、美しい緑の絨毯は参拝者に安らぎを与えています。

金堂跡の苔庭

金堂跡を過ぎると本堂前の開けた場所に出ます。
西側に大元堂、北側に本堂(いずれも後述)、本堂の東隣に鐘楼があります。

鐘楼

本堂と所蔵の仏像

桁行5間、梁間4間の本堂は、当初講堂として建立されましたが焼失し、鎌倉時代に大修理を受けて以後、本堂として使われてきました。事実上は鎌倉時代の建物ですが、様式的には奈良時代の伝統を生かした建築です。

本堂

堂内は土間で、本尊薬師三尊像(重要文化財)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重要文化財)、帝釈天立像(重要文化財)、伎芸天立像(重要文化財)など25体の仏像が安置されています。

帝釈天立像と伎芸天立像は鎌倉時代に修復されていますが、頭部は奈良時代、製作当時の乾漆造が残されています。

本堂の造りと立ち並ぶ仏像群から、天平の空気を感じることができる空間です。

東洋のミューズ 伎芸天(ぎけいてん)

秋篠寺の数ある仏像のなかでも特に有名なのが、古像では日本で唯一とされる伎芸天立像です。

2007年刊「日本の仏像」表紙より

伎芸天は仏教守護の天部のひとつで、インドの三大神の一人であるシヴァ神の髪の生え際から誕生したといわれる天女です。容姿端麗で器楽の技芸が抜群であったため、技芸修達、福徳円満の護法善神とされます。

この像の頭部は奈良時代の脱活乾漆法による乾漆造ですが、体部は鎌倉時代に寄木造で製作されたと伝わっており、これについては運慶の作とする説もある様です。

この伎芸天像は「東洋のミューズ」と呼ばれ讃えられていますが、最初にこう形容したのは昭和初期に活躍した作家の堀辰雄です。「ミューズ」とは、ギリシア神話でゼウスの娘である9人の姉妹神で、詩歌、音楽、哲学、天文、数学、舞踊など、人間のあらゆる知的活動を司る女神です。

現在、「ミューズ」という言葉は「芸術家や作家などの創造性にインスピレーションを与える人物や事物」を指す時にも比喩的に用いられます。

6回にわたり奈良を訪れた堀は、1943年に発表した「大和路・信濃路」で大和への思慕をつづっていますが、そのなかで秋篠寺の伎芸天像について「このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい」と絶賛しました。

伎芸天像の頭部は体に対してやや左側を向き、少し下を見下ろしています。また腰に少しひねりが加わり、左足が少しだけ前に出ています。頭部に対し体部は後の時代に造られ今に至るこの像ですが、快慶の作とも言われるこの後補部分が、当初にはなかった妖艶さを加えているのかも知れません。

大元堂と大元帥明王像

開山堂の南側にあるお堂で、本尊は「大元帥明王像」です。なお真言密教においては「帥」の字は発音せず「たいげんみょうおう」と読みます。

大元堂

本尊の大元帥明王像は鎌倉時代の作、高さ2メートルを超える寄木造で、国の重要文化財です。髪を逆立てた忿怒の表情に、筋骨隆々の体躯、6本の腕、蛇を体に巻きつけた姿は迫力があります。

大元帥明王は、もともとのインド神話では弱者を襲って食べる悪鬼神とされましたが、密教においては大日如来の功徳により善神に変わり、その大きな力は国土を護り敵や悪霊を降伏させる力を持つとされ、古くから宮中で「必勝祈願」や「国土防衛」の祈願として秘法が修められてきました。

大元帥の名が示すとおり、明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有し「全ての明王の総帥=大元帥」とも解され、軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説もある様です。

大元帥明王像が祀られている寺は多くなく、ほかに京都の東寺など数か所に限られており、多くはふだん見ることができません。
秋篠寺では毎年6月6日のみ開扉され拝観することができ、多くの人が列を作って参拝します。

会津八一らが残した歌を味わう

秋篠寺には、古くから多くの歌人が訪れています。
西行法師、高浜虚子、阿波野青畝、会津八一らの詠んだ歌が残っており、南門を入ってすぐのところには会津八一の歌碑が立っています。

会津八一の歌碑

会津八一は明治の終わりに奈良を訪れて以来、奈良の仏教美術に関心をもち、多くの歌を詠み、書家として自身の筆で歌を書き残しました。

秋篠寺を訪れた際には、新古今和歌集に西行が詠んだ、
「秋篠や外山の里やしぐるらん生駒の岳に雲のかかれる」を連想しつつ、
「秋篠のみ寺をいでてかへりみる生駒がたけに日はおちむとす」と詠んで記し、その書体のまま歌碑になっています。

金堂跡を出て南門に向かう
会津八一の歌碑は右側にある

ほかにも同様に、秋篠の里やそこから望む生駒山、伎芸天を題材にした歌などが多くの歌人によって残されています。

都会の喧騒から離れた里で、古の姿を今に残す秋篠寺。
創建以来、長い歴史を通じて、多くの人々の心を惹きつけてきたのも頷けます。


秋篠という地は奈良市の中心部からさほど離れていませんが、なぜか今でも「里」という言葉が似あう、懐かしい不思議な空気を持っています。

奈良はまだという方、奈良には何度か行ったが秋篠寺はまわっていないよという方で、古く静かなお寺や、古く美しい仏像がお好きな方、また必勝祈願をしたい方などは、是非一度訪れてみてください。

私も含め、すっかりリピーターになってしまう人も多いですよ。



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