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ひとはなぜ走るのか【2024年10月】


10/13(日)『80歳、まだ走れる』に出会う。

 本屋に行くと手当たり次第に数冊も買い込んでしまうのが、20代の頃の喜びだった。経済観念が無かったともいえるが、それだけ知に対する欲求があったのかもしれない。しかし、50代になった今は違う。一冊買うにも「コレ、ホントに読むか?」と自問し、他に欲しい本があればそれと比較して、当座のじぶんに有益かどうかを図ってから、場合によっては、いちど本屋をあとにし、欲望を「寝かせて」から、ようやく目当ての一冊を買う―、なんてこともある。
 
 良いことなのだと思う。が、一方で、そのために買いそびれてしまった本と、その本がもたらしたであろう可能性のことも考えてしまう。
 年齢を重ね、じぶんの関心とその方向性が固まることで「照準」は定まるが、そのためにこぼれおちてしまう残滓とそのための「つまづき」。ふりかえると、そんな「つまづき」ばかりだったような気もする。
 そして、それこそが「若さ」ということかもしれない、と。

 であるからには「若さ」を取り戻すべく、いや「若さ」から学ぶべく、きょうは書店を物色。鷲田清一『所有論』か、パオロ・コニェッテイの山岳小説『帰れない山』か、自民党についての手軽な新書か、どれかを読んでやろうと意気込んでみる。いずれも興味はなくはないが、現況ちょっと遠くにある。ハイブローでもある。

 そんなじぶんの目に飛び込んできたのは、新聞の書評欄に取り上げられた本が整然と鎮座する「特設コーナー」。
 おおっ!あるではないか!
 リチャード・アスクウィズ『80歳、まだ走れる』。

リチャード・アスクウィズ『80歳、まだ走れる』

 手に取り、ページをめくってみる。第一章のタイトルに掲げられているのは、実に「ガレ場の下り」だ。80歳でガレ場を下るの !?
 即決!
    50代なりの自問もない。欲望を「寝かせ」もせずに。
 「若さ」を取り戻すはずのハイブローで「つまづく」のは、次回からだ。

 キンモクセイが香る、透き通るような秋空のもと、購入した本を棚に置き、走りに出る。
 老いとか、若さとか、きょうのところはどうでもいい。

<きょうのRUN>
・9.78km ジョグ(キロ5分14秒)
・8.00km Mペース走(キロ4分10秒)
・1.82km ダウン走
⇒計19.6km

10/14 (月・祝)「いまという瞬間をつかめるかどうか」

 きょうは、近所の中学校の駅伝部の練習に入れてもらった。
 8:30からほぼ午前中いっぱい。「若い力」との落差を実感した。しかし、その落胆と相反するように、いや、表裏一体と呼んだほうがいいかもしれないが、喜びもある。
 「落胆」と「喜び」のフシギな同居。
    なぜだろう?と思う。

 その答えは、帰宅後に読み始めた『80歳、まだ走れる』とも通じあう何かでありそうなのだ。
 まだ3章までしか読んでいないが、ここには何か「知りたいこと」が埋まっていそうな予感がしている。
 著者は、60代前半のイギリス人、リチャード・アスクウィズ。25年もトレイルランニング(本書では「フェルランニング」)を楽しんできたランナーだが、自らの老いを嘆く序章から始まる。 
 その彼が、尊敬と興味をもって記すのが、3章で登場する「パークラン」について。
 パークランとは、2004年にイギリスで始まったジョギングのイベント。毎週土曜日の朝に5キロだけ走る。今では、世界23ヶ国に広がり、およそ700万人が登録しているという。つまり、この曜日、この時間に合わせ、世界各地で一斉に5キロのジョギングを楽しもう、というイベント。
 驚くべきは、その参加者の年齢層である。著者が直接取材した日だけでも、80歳以上のランナーが42人も完走を果たしている。

 パークランは、タイムを争うのではない。レースではない。
 それでは、何を出場の目的にしているのか。
 元整体師のリチャード・ピトケイン・ノウルズ (87)のひと言が刺さる。
彼は、40代の時にロンドンマラソンを見て、「なにがなんでも、これをやらなきゃ」と発起し、それから走り始めたというが、走るうえで大切なのは「いまという瞬間をつかめるかどうか」だと言う。
 英語でどう述べているのか分からないものの、「いまという瞬間をつかむ」とはどういうことか?

 それを考えると、ちょっと横道に逸れるようだが、じぶんにも、思い至ることがある。
 すでに 30年も前のことだが、ぼんやりしながらはっと気づいたことである。「大学生ってつまんねえな。高校生の頃は良かったな。でも、待てよ。高校生の時にそう思っていたか? いや、中学生のほうが楽しかったと思っていた。では、その中学生の時は? 小学生に戻りてえ、とか思っていた気がする・・・。ということは、楽しいのは過去ばっかじゃん!」
 これは、我ながら、ヒマ人なりの発見であった。「過去」を美化している。それでいて「未来」はいいことがあるはずと思い込んでいる。少なくとも期待したいとは思っている。で、結局「いま」をないがしろにしているではないか!と。いちばん生きているはずの「いま」を生きてない、ってことにならないか? これはマズイと思ったものだ。

 実際の話、「いま」とは、退屈で、過酷で、逃げたい現実ばかりなのだ。
 うはうは笑って生きている人間なんて、信用できない。
 そうだとしても、ないがしろにしていいはずはない。 
 
 「いま」とは、どの年齢にも存在する。その時々の状況に応じて、上昇気運もあれば、下行機運もある。もう失ってしまい、戻らないかもしれないものもある。それを嘆いていては、50代の「いま」を生きていないことになりはしないか。

 きょうは、野鹿のように俊敏な中学生と、クロスカントリーコースを疾走した。坂道なら、自信があった。しかし、心拍数の差は明らかだ。スピードを出せば、彼らにはかなわないのだ。
 動きが鈍くなった両脚は悲しいが、それが50代の「いま」である。
 その悲しさを、嚙み締めるべきなのだ。「落胆」ではあるが、その開き直りに小さな希望を見出したい。「喜び」らしきものの正体は、それだろう。
 あらがうも、受け入れるも、「いま」を嚙み締めることから始まる。

<きょうのRUN>
・1000m (クロスカントリー; 上り32m下り32m) キロ4分00秒
・4000m (クロスカントリー; 上り130m下り130m)キロ4分55秒
・250m坂道ダッシュ×4本
・ダウン走1000m
⇒合計7キロ

10/15(火)「ランニング依存」試論

 走ってなくても、心の中では「走っている」ということがある。カッコつけるな!という声が聞こえてきそうだが、カッコつけてるのではない。むしろその反対(の要素のほうが多い)。
 正確には、走っていない時にもランニングのことを第一に考え、私生活の隅々までランニングに生かそうとする姿勢である。食事や睡眠は言うに及ばず、座るときに足を組むのを控えたり、左右のバランスを崩さないよう右手ばっかり使わないようにしたり。きっと周りの人から見たらクレイジー。
 日々のすべての行いの頂点に「走ること」を据え、その他は頂点に帰属する。ランニング・ヒエラルキーである。

 白状すれば、じぶんにも当てはまるのだ。
 家族や友人が眉をひそめるほどひどくはないつもりだが、例えると、イスに腰掛ける際には背もたれに寄りかからず背骨がまっすぐになるよう心掛けるなどは序の口で、風呂でも背中を洗うに際しては、長細いタオルやスポンジをたすき掛けにして上下にごしごし動かすその動作において大概はその人なりのクセがあり右手か左手のどちらかを起点にしているものだと想像するのだが、じぶんの場合には、必ず左右の腕まわしが平等になるよう、交互に持ち手を変えている。これも「走り」を意識するためである。

 後者の例えは、変人の部類に入るか入らないかギリギリの線上かもしれないが、ランニングを第一に据えることで、整序された自己管理が手に入るというメリットがあるのは確かだ。
 それだけに、厄介なのかもしれない。
 第一に、ランニング・ヒエラルキーを無反省にふりまわしたりすると、周りの人たちの価値観を押しつぶしてしまう恐れが生じやしまいか。多くの人にとって、食事をすることや、会話をすることや、背中を洗うことは、ランニングとは関係がないのだから。「へえ、すごいね」という感想はあっても、もっと別の角度から楽しんだり、遂行したいであろう。
 第二点目はじぶんにとっての問題だが、ランニング依存症という懸念である。「それがなくてはいられない」という意味では、ランニングに依存する側面を否定できない。だが、その他の悪名高き各種の依存症と比較した場合、「やめたくてもやめられない」という切羽詰まった状況ではない。なにより人生設計が危機に瀕する恐れは(いまのところ)無い。にもかかわらず、もっと奥底にある「何か」から逃避する手段としてランニングに没頭しているとしたら・・・。たまたまギャンブルやアルコールではなく、ランニングを選んだのだとしたら・・・。手放しで喜んでいてはいけないのかもしれない(この点を覗き込むにはエネルギーが要りそうだ)。

 ひとはなぜ走るのか? 
 この答えには、ポジティヴなものばかりではない可能性も視野に入れるべきであろう。
 ランニングは、体育会系やアウトドア派の独壇場ではない。
 メンタル的な必要から取り組んでいる人たちも(もちろんそうした人たちを救っている面があるのは間違いないが)随分いるはずなのである。保留。

<きょうのRUN>
アクティヴ・レストのつもりで登山。
子持山(1296m)を、およそ5時間歩きとおす。
全く走ってはいないが、心の中では「走っていた」。

子持山でカモシカに出会う。堂々としたもので逃げる気配なし

10/16 (水)「ランニング以後」という人生

 今朝の朝日新聞は読み応えのある記事やコラムが多かった。
 衆院選公示を経て、「各党公約 実現性は」という記事が3面に展開されているが、各党の考え方と足りない点がまとめられていて、すこぶる便利。
 「ひと」欄の續木美和子(つづき・みわこ)さんは、高崎市で絵本の原画展を30回も続けてきたグループの代表。お会いしたこともある。好きなことを社会の課題と結び付けて成果を上げたという意味で、ひとつの理想だ。
 17面の特集「インタビュー」は、アメリカの法倫理学者ニタ・ファラハニーさん。ニューロテクノロジー(神経技術)をめぐる倫理についての刺激的な内容。脳の電気信号を読み取れば、その人の考えていることが分かってしまう、というだけで驚きだが、そのプロセスを反転させることも可能だという指摘にはコトバがない。つまり、意図的に電気信号を操作すると、人の考えを誘導できてしまう(らしい)。この方の翻訳が本年中には出版されるようなので、これは読んでみたい。

 こうしたなかで、実は、いきなりパンチを浴びせられたのは、1面の「折々のことば」であった。石牟礼道子さんである。「滅んでいいんですよ。言葉は、討ち死にして、のたれ死にしていいんですよ。」ときた。
 どういう文脈で語られたのかは(鷲田清一さんが字数に制限があるなかで細やかに説明してくれているが)正確には分からないので、だいぶ想像するしかない。ぱっとイメージした図式がある。
 「ことば以前」⇒「ことば全盛期」⇒「ことば以後」。
 同時に頭をよぎったのは、「ことば」が無くても、ひとは存在する、という大きな見通しである。暗いようでいて、そうでもないのではないか。

 さて、ランニングである。
 石牟礼道子さんが説くことばにならって考えると、
 「ランニング以前」⇒「ランニング全盛期」⇒「ランニング以後」
という図式を気ままに描いてみた(個人でとらえてもいいし、人類という巨視的な流れでとらえてもいいかもしれない)。この図式が暗示するのは、ランニングが無くてもじぶんは存在するという、あたりまえのこと。
 ただ、こうも思うのである。「ランニング以後」は、「ランニング以前」とは全く違う姿になっているはずだ、と。
 そして「ランニング全盛期」を経験するのとしないのとでは、ひとの本質的などこかにふれるほど、大きな違いがあるような気がすること。個人的な趣味や志向の問題ではなく、かなり一般化して考えているつもりである。
 こういう事象は、他にはどんなものがあるのだろうか。きょうも保留。

<きょうのRUN>
軽く太ももに筋肉痛があるので、無理しない。
公園でドリルを45分ほど。 

10/17(木) 中学生とクロスカントリー

 きょうから4日間のトレーニングは、ワン・セッションの予定。
 ・初日のきょうは「ならし」。
 ・あす 18(金)は、(マラソンペースを含め)軽くスピード練習。
 ・明後日 19(土)は、Quality Session (中学生とクロスカントリー)。
 ・明々後日 20(日)も、Quality Session (中学生とクロスカントリー)。
  
 かくして・・・ 

<きょうのRUN>
・ジョグ 20km (キロ5分43秒)
 そのうち、8kmは芝生にて。
・WS 150m×1本

この1年間、ジョグはほぼ「アシックス EvoRide SPEED」 

10/18(金) ぼろぼろの「adizero Boston 12」

 きのうから4日間のトレーニングセッション。
 きょう2日目のテーマは「軽めのスピード練習」。
 ことし2024年のテンポ走(や、レース)は、「アディダス Boston 12」ひとつに頼ってやってきた。

「WIDE」を好むじぶんにも、「アディダス Boston 12」は対応している

 

傷み具合を見ればクセが分かる。が、それにしても使い過ぎか?

<きょうのRUN>
・7.66km ジョグ(キロ5分09秒)
・7.00km Mペース走(キロ4分09秒)
・WS 130m×2本

 マラソンペース走のつもりでいたが、「軽くスピードを出す」ことをイメージしていたばかりに、少し速く走ってしまった。
 まだ焦る必要はないと思う。(土)(日)を終えたら、やや落とすくらいの気分で、まずは、しっかりサブスリーペースを刻めるようにしたい。

10/19(土)刑務所に入ってきた

 「シャバはガマンの連続ですが『空は広いち』言いますよ」—。世間は世間なりにツライことばかりだが、刑務所に比べれば、見上げる空は広い。映画「すばらしき世界」の名セリフである。正確ではないが、確かこんなニュアンスだったと記憶している。
 きょう、刑務所に入ってきた。内部を公開する「矯正展」があったので足を運んだのである。運動場もあった。いちにち30分の運動の時間が決められていて、ジョギングもするという。トラックではなく、直角三角形のかたちをした空き地のようなスペースで、一周が120~130メートルほどしかとれない。確かに、空は「広くはない」。

 受刑者はどんな気持ちで走るのだろう。
 「やらされ気分」でだらだらと走るのだろうか。
 それとも、うれしくて意気揚々と走るのだろうか。
 やっぱり、いろいろなタイプの人が入り混じっているのだろうか。

 じぶんだったら、どんな気持ちで走っただろう、と思うのである。「走り」に集中することなどできない気がする。塀の向こうに、山々が連なるのが見えるのである。高層の建物の屋上もかすかに見えるのである。黄土色の地面を見つめていてもすぐに一周過ぎてしまう状況を、前向きにとらえられそうにない。
 一方で、ふだん走ることが禁じられていて、常に誰かに見張られていて、(刑務所といえど)上下関係に縛られている身であることを踏まえれば、そうした「縛り」から解き放たれる瞬間は、どれほど崇高なときであろうかと思うのである。
 禁止された状況であればこそ、四肢を自由に動かす喜びもあるのかもしれず、走る「しあわせ」とはそのときに感じるものなのか。あくまで想像の産物。詩的なひらめきとして、許せ。

<きょうのRUN>
中学生の練習に入れてもらう。初日。
・1000m アップ (クロスカントリー ; キロ6分42秒)
・1830m (クロスカントリー ; キロ5分24秒)
・1880m (クロスカントリー ; キロ5分14秒)
・3000m (クロスカントリー ; キロ4分41秒)
・坂道ダッシュ×3本
⇒合計7.7km

10/20(日) 中学生に教えて、学ぶ

 きょうは、17(木)から始めた4日間のトレーニングセッションの最終日。
 昨日に続き、中学生と一緒に練習。
 練習の手助けになろうと動画を撮りながら走ったため、距離もスピードも「場当たり的」で、じぶんにとってはトレーニングにはなっていない。
 それでも、中学生に少しでもアドバイスできるよう、彼らのフォームをじっくり観察していると、学ぶことはある。至らない点が分かり、無意識にそれを矯正した姿をイメージし、じぶんもそう走ろうと心掛けてしまうため、しっかり勉強になるのだ。
 かくして・・・

<きょうのRUN>
・900mアップ(キロ6分26秒)
・540m(クロスカントリー ; キロ4分35秒)
・1000m(クロスカントリー ; キロ4分秒27秒)
・480m(クロスカントリー ; キロ5分31秒)
・2780m(クロスカントリー ; キロ5分35秒)
・坂道ダッシュ×3本
・600mダウン走
⇒合計6.3km

10/21(月) 退職してまで「走り」を選ぶわけ

 好きなことだけをやろう、と、職場を早期退職してから、まもなく一年と二ヶ月になる。好きなことのほぼ半分を占めるのは「走ること」なのである。では、空いた時間を、思う存分にそれに充ててきたかというと、そうでもない。所詮、一日のうち多くても数時間しか走れない。それ以上走ったら故障のリスクが高くなる。
 退職して得られたメリットは、「走ること」に戦略的に取り組めるとともに、無理したトレーニングをしないで済むことにあるといえそうだ。仕事をしていると、すき間時間にランニングを詰め込んでケガをしたり、中途半端なジョギングばかりしか出来ず、成果も上がりにくい。

 では、退職してまで「走ること」を選ぶ理由は、どこにあるのだろうか?
 50代も後半になり、これから五輪に出場するわけでもなければ、プロになるのも現実的ではない(が、そういうことを初めから無理だと決めつけたくないのも事実だ)。そして、とくにマスターズで結果を出すことをねらっているわけでもないのだ(こういうことは、本気でねらっていかないと達成など出来ないだろう)。

 きのう、中学生の次男を助手席に乗せて、クルマのハンドルを握っていた。西の空が茜色に染まる夕方である。クロスカントリーの練習を終え、ほどよい充実感を胸に、指導者である若いコーチが選手みんなに伝えた内容は決して目新しいものではないものの深くうなづきたくなるものであり、息子と、再びそれを話題にした。
「ケガはしないように、ね。コーチが言ってたけど、まずは食事。そしてよく眠ること。オレがいつも意識してやってることと同じだろ?」
「うん」と、息子。
「ちゃんと『走る』ためにも食事と睡眠はぜったい必要だけど、そもそもそのふたつとも『走り」とはカンケーなく、それだけで『楽しい』っていうか、わくわくするというか、そういう嬉しいことだよね」
「んん? ああ、生き物だからね。」
「そう。それだよ。『走ること』と『食べること』と『眠ること』は、おんなじ輪っかのなかにある。ええと・・・、それは・・・」
 と言いかけたが、運転に不慣れなじぶんは、運転中あんまり複雑なことは考えたくなかった。幸いなことに便利にして適切なコトバがふいに口に出た。そして、それは、最もマトを射ていることに、しゃべってから気が付いた。
「走ることは、人生そのものなんだよ」

 会話はそれで尽きたのだが、じぶんのなかでは、そのあともコトバの意味が響いていた。それは息子も同じだったような気がする。
 とくにことしは、一緒にUTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)のTDS (という148kmのレースカテゴリー)で、じぶんがゴールした様を見ているから。それを思い出していたのかもしれない。
 コトバでくっきり言い表せるほど、ぜんぶがぴたっとつながったとは思わないのだが、遠くまで探しにゆかなくても、ぜんぶが一緒くたになって「こちら側」にあるものなのだ。

 早期退職して間違っていなかったと(いまは)思っている。

<きょうのRUN>
完全休養(筋トレはする)。

10/22(火)中高年がランニングに夢中になるのは?

 中高年を迎えた人のなかでランニングに夢中になる者がいるのは、なぜか? Richard Askwith『80歳、まだ走れる』を毎日少しずつ読んでいるが、いろんな箇所に、その仮説が出てくる。

 「(幼少期や思春期に比べ)ある年齢に達すると、日常生活での活動量が   
   減り、生きていることを強烈に実感する瞬間が減っていく。よってス
   ポーツが、そうした凡庸な生活における命綱になるのだ」(p.266)

 まったく否定できない。じぶんにも当てはまる部分がある。
 少なくとも、走り始めるきっかけとしては大きい。
 じぶんの場合、13年ほど前、40代も半ばに近づき、仕事への情熱が冷めかけ始めた頃に、ランニングに引き込まれるようになった。バーンアウト(燃え尽き症候群)の代償としてすっぽりハマったようなところがある。
 走り始めた当初は「ゆっくりのペースでもいつかはマラソンに挑むのもいいかな」と、気楽な趣味くらいに考えていたのだが、その反面、こころの底のほうで、消えかけていた残り火が赤くたぎるのを見過ごしてはいなかった。
 きょうは「この橋まで」、あしたは「その先の橋まで」、その次の日は「さらにその先の橋まで」といった具合に、努力すればしただけ、走る距離を伸ばすことができた。こどもに戻ったみたいに楽しくて、うれしかった。

 いまでは、すでに別のフェイズに入っている。が、「生きていることを強烈に実感する瞬間」を求めているのは変わらない。

<きょうのRUN>
・3.5km アップ(キロ5分27秒)
・15km ペース走(キロ4分25秒)
・0.8kmダウン走
⇒合計19.3km

10/23(水)走りながら考える考えはいつか消えてしまう

 英語に ”Thinking out loud”というフレーズがある
 頭の中だけで済まさずに
 口に出して考える 
 そういう意味らしい

 そうすると
 脳みそは
 口と協力して考えるのか
 口だけで考えているとは思えないので
 
 書きながら考える
 そういうこともある
 脳みそは
 手と協力して考えるのか
 手だけで考えているとは思えないので
 
 走りながら考える
 そういうこともある
 この場合
 脳みそはカラダのどこと協力して考えるのか
 脈打つ鼓動はありありと胸のところにあるが
 それはむしろ
 脳みそのじゃまをする

 カラダは脳みその好きにさせない
 そんなときの考えは
 夢のなかで考えるように
 いつかカラダのすみずみに消えてしまう

<きょうのRUN>
・3.43kmアップ(キロ5分34秒)
・5.00km閾値走(キロ3分55秒)
・5.00km閾値走(キロ4分03秒)
・3.00kmダウン(キロ6分39秒)
⇒合計16.43km

10/24(木)「時間栄養学」とランニング

 大ジョッキで祝杯をあげるときほどサイコーな気分はないものだが、例外もある。以前、70kmくらいのミドルレースにゴールしたときのことだ。しこたま飲んでやろうと勇んでみたものの、ビールを口に運んだ瞬間に「んん? まずい!」と思い、結局、牛乳に切り替えたのを覚えている。そして、牛乳なら1リットルパックで2本分、つまり2リットルは飲んだのである。
 つまり、カラダが疲弊しきったときには、滋養のあるものをこそ「旨い!」と思うようだが、うけつけないものもある。ビールだって十分に栄養はあるはずだが、アルコール分をカラダが嫌がったのであろう。
 そして、この逸話には、食欲に関するエッセンスが詰まっている。
 
 食欲には、2つのカテゴリーがあると思う。
 ひとつは「カラダが欲する食欲」。
 もうひとつは「脳が欲する食欲」というカテゴリーである。
 決して科学的な根拠があるわけではないものの、「脳が欲する食欲」は、多くの人が納得できるのではないだろうか。CMから影響を受けたり、特定の食べ物を中毒のように食べたくなったり、空腹でもないのに手持ち無沙汰にまかせて食べてしまったり。アルコールも、多分に脳が飲みたがっていたと言えよう。
 「脳が欲する食欲」の存在に気がつくと、食欲について自覚的になり、健全な食事を摂るきっかけになる。「ああ、いま食べたいと思っているのはただ『脳が食べたい』と思っているだけだなあ」と、正体を見破ることができる。そのおかげで、余計なものを食べることが少なくなる。つまり「脳が欲する食欲」に惑わされなくなる。
 もちろん「カラダが欲する食欲」に従ってファストフードをどっさり食べたら健康ではない。が、まずは、食欲を制御する「ものさし」を持つことが、健全な食事への近道だと思う。

 ランニングを継続することで得られる食に関するメリットは、他にもある。
 結局、じぶんは晩酌を(ほぼ)やめた。次の日にベストコンディションで走りたいからである。すると、つまみが要らないので、夕食の分量が少なくなる。その結果、翌朝空腹になり、朝ごはんをたらふく食べるようになった。
 ちなみに、今朝の朝ごはんは、
①バナナ
②ヨーグルト
③乾燥いちじく
④チーズ
⑤自家製ドライカレー(たまねぎ、にんじん、鶏肉、しょうが、MCT油)
⑥雑穀米
⑦牛乳
で、ある。
 しかも、ドライカレーを料理しながら、①から順番に食べたので(手間をかけずに食べたいものから選んでいるのだが)、結果的に、低GI にも配慮した格好になっている
 こうして振り返ると、きょうは大豆食品を食べていないことに気付くが、通常は納豆も欠かせない。さらにリンゴかキウイを加える。中高生の息子たちより、じぶんのほうが食べるほどである。
 つまり、結果的にではあるが、ランニングを活動の軸にすることで、朝食の比重が増した。すなわち、活動のスタートに力点を置くようになった。
 実は、時間栄養学の成果とも合致している。単に、栄養価の高いものを摂取すればいいのではなく、いつ、どの時間帯にどれを摂ればいいのか、あるいは摂らないほうがいいのか、それを教えてくれるのが時間栄養学だ。
 
 以上は、知識や情報を得てから始めた食生活ではなく、いちばんベストなコンディションを探りながら、試行錯誤するうちに定着してきたものだ。
 カラダが喜ぶ食事が、とどのつまりは、旨い!
 
<きょうのRUN>
 完全休養。
 年齢を重ねてきて、いま、新たに変えようとしていることは「休養の位置付け」だ。疲労を感じる前に、休むことにした。惰性のようなジョグをするくらいならば、いっそのこと休んで、回復に充てたほうがいいのかもしれない。その分、普段は、負荷をかければいい。

10/25(金)きょうから「adizero SL2」

 きょうから、新シューズ。
 アディダス adizero SL2。インターバル走からロング走まで、欲張って使ってみたいと思っている。
 じぶんの場合、つま先が窮屈になる傾向があるため「WIDE」があればそれを好むが、原則、どんなシューズでも文句はない。所詮は慣れてしまうから。

中高生が部活に取り組む気分でやろう!と、「白」を選ぶ

 また、良いことなのか悪いことなのかは分からないが、シューズにより走り方が変わってしまうことも受け止めている。
 adizero SL2は、あまり経験したことのない履き心地である。
 ゆっくりとしたジョグを始めたときは、クッション性というよりも、べちゃべちゃとした粘着的な感覚があったが、その後、ペース走に入り、キロ4分15秒ぐらいに上げたときに、タンタンとはねるような反発を感じた。
 特徴的なミッドソールのためであろう。3層になっているらしい。「LIGHTSTRIKE PRO」という材質の層を中間に置き、「LIGHTSTRIKE 2.0」という層でサンドイッチする構造のようだ。

外側から「LIGHTSTRIKE PRO」が見える

 かかとを固定し足裏全体で着地するよう心がけているため、そのフォームには対応しているような気がする。
 秋から冬にかけてのハーフマラソンは、この靴でいいだろう。 

 うすぎたなくまるまで、一緒に走る覚悟である。

<きょうのRUN>
・3.5kmアップ(キロ5分26秒)
・15kmペース走(キロ4分23秒)
・0.1kmWS×2本
・0.8kmダウン走
⇒合計19.5km 

10/26(土) なぜ「ひとはなぜ走るのか」なのか?

 「ひとはなぜ走るのか」とは、大仰にして、不遜なテーマである。
 誰もが(とりわけランニングをしない皆さんは)、これほど思い上がった決めつけはない、と思うであろう。
 ましてや、走ってみたいと望んでも、叶わないひともいる。すべてのひとが当然のように「走るものだ」という前提に立つのだとしたら不遜だというしかない。
 しかし、じぶんは次のように考えたのである。「生存のための欲求ではない『不要な行為』であるにもかかわらず、走ることに夢中になるひとがいるのは、なぜであろう?」と。

 たとえば、次のような問いと並べて比較できないか、と、思ったのだ。
 ひとはなぜ歌うのか。
 ひとはなぜ踊るのか。
 ひとはなぜうそをつくのか。
 ひとはなぜ遊ぶのか。などなど。
 いずれもなんだか、「生存」とは無縁だ、などとは言い切れない深みがある。「走ること」も、(狩猟民族の名残りと説明しているのを読んだことがあるが)人間・ヒトの属性を知るうえで参考になるような気がするのだ。

 さらにいえば、すでにひと波もふた波も越え、定着した感のあるランニング・ブームという現象もふまえ、「現代人のなかにかくもランニングに夢中になるひとがいるのは、どうしてなのか?」という含みもある。

 しかし、どうやってアプローチしたらいいのか分からないので、思いついたことをメモする要領で記しているのだ。

<きょうのRUN>
中学生とクロスカントリーの練習。
・3000mアップ クロカンとトラック
・3000mジョグ クロカン
・500m クロカン
・1400m×2本 クロカン
・3000m クロカン
⇒合計 12.3km

10/27(日)じぶんでじぶんのコーチになる

 「試合の前でも、いいえ、試合の前だからこそ、食べたいものは食べておきたいの」―。ある著名なスケート選手から、直接聞いたエピソードである。その選手は、オリンピックでメダルがかかる重要な日の前日に、大好きなジェラートを存分に食べたという。
 普通なら、体重の増加を気にしてガマンしそうなものである。しかしその選手は、「食べずに、心残りがあるままでは逆に集中できない。それはイヤなの」と語っていた。「こころを整える」ことの重要性を示唆するエピソードとして、忘れられない。

 昨夜は久しぶりにビールを飲んだ。2日連続で心肺に負荷をかけたので、翌日、つまりきょうは、走らないことに決めていた。従来であれば、2日程度でランニングを休止することはなかった。しかし大事なのは、目標から目を外さないこと。ゆっくりでも、しかし確実に目標に近づけるよう、気持ちのほうは常に適度にゆるめることが重要なのかもしれない。それが、長続きのコツだと信じる。
 
 今期は「ピーキング peeking」を意識してみる。
 目標は、フルマラソンのサブスリーである。
 2018年から挑んできたものの、コロナ禍をはさんで、毎年、失敗してきた。具体的には故障である。故障を避けるうえでも、ピーキングを重要視している。
 もちろん、ピーキングをするうえで、確実に実力を高める道筋を冷静に考えておかなくてはならない(走力がアップしなければ意味がない)。にもかかわらず、いま、必要なのは「じぶんが、じぶんのコーチになる」つもりで、「場当たり」的なトレーニングを控えることであろう。

 選手は「感情の生き物」である。手綱を引く者が必要だ。
 プロの選手ではないじぶんの場合、じぶんがコーチになって手綱を引かなければならない。
 現在10月末の段階で、20kmくらいは、サブスリーペース(キロ4分15秒)でこなすことは出来そうだ。だから、ここで焦らない。そして、欲張らないことが重要だ。肝心なのは、目標をきちんと見据えて、日々なにを優先すればいいのか、納得しながら実行することだろう。

 息抜きも、目標のために必要だといえる。
 そう、ダイエットにも、あえて糖質摂取をする「チート・デイ cheat day」という方法があるように(食事を制限することで代謝が落ちてきたカラダに、あえて栄養を与えることで「脳をだまし」、再び代謝を上げるモードにすること。ダイエットの効果があまり出なくなりかけた頃に、このチート・デイをはさむといいという。一方で、チート・デイをうまく使えれば、メンタル的にもよいであろう)。

<きょうのRUN>
休養。
脚の動きは維持したいので、ドリルだけ行う。

10/28(月)トレイルランニング画像にはだまされるな ~イメージトレーニング~

 「きょう『よい走り』が出来たと感じている人に、わたしからオススメしたいのはイメージトレーニングです」
 円陣を組んだ七~八人の中学生を前にそう語りかけた。クロスカントリーコースでのトレーニングを終え、生徒たちの顔は紅潮している。
「イメージトレーニングってどんなふうにやるのか分かりますか? ええと・・・、寝る前などに、たとえば、走ったコースやそのときの気持ち・・・、さらには『こう走ってみたい!』という、理想とする『走り』を頭の中に思い浮かべること・・・。それだけでも結果につながることがありますよ」
 そうアドバイスしながら、頭の中ではなにか違和感を感じていた。近所の中学校の先生から、駅伝部のコーチを依頼されてから、そろそろ二週間ほど経つ。3000mくらいの短い距離ではすでにじぶんよりスピードのある生徒たちに、じぶんにも役立つことができるとすれば、それは経験である。

 イメージトレーニングという方法も、そのひとつ。イメージは単なる空想ではなく、運動神経を介してカラダの動きに好影響を及ぼす。経験的には、これで万全とは言えないまでも、不思議と腑に落ちる。
 しかしながら、イメージトレーニングをめぐり胸に去来した違和感とは何だろう? 生徒と別れ、数時間してから、その正体が見えてきた。
 
 イメージトレーニングには、悪い側面もある。
 なにをイメージするのか、は、結構重要である。
 とりわけトレイルランニングにおいては、注意が必要だと思うのだ。
 というのも、岩場などを大きなステップで飛び跳ねている画像を、宣伝写真などでよく目にするが、登りにしても、下りにしても、両脚を地面から離して走るスタイルは(そういう瞬間もあるかもしれないが)、あまりオススメできないのではないだろうか。少なくとも、平時にそのような走り方はできないはずである。かっこよく切り取られた画像の功罪である。実際には、ロングレースになればなるほど、大きな歩幅で走ることはリスキーだ。スカイランニングやヒルクライムの画像と一緒にはできないだろう。
 
 理想の走りとは何か。かっこよさに結びつけてしまうと、思わぬ落とし穴がありそうだ。
 イメージトレーニングにも「じぶんの視点でイメージする方法」と、「第三者の視点から客観的にイメージする方法」があるらしいが、後者については、踏み込んだノウハウが必要なのかもしれない。
 中学生には、丁寧に説明するべきであった。

<きょうのRUN>
中学生とクロスカントリー。
・820m トラックジョグ
・3000m easy run
・1130m 閾値走
・300m 閾値走
・900m 閾値走
・1200m easy run
・1200m easy run
・140m WS 
・140m 坂道ダッシュ×1本
⇒合計8.8km

10/29(火) 11月に向けて距離とペースを考える

<きょうのRUN>
・4.76km jogg (キロ5分31秒)
・20.00km ペース走(キロ4分23秒)
・120m WS×2本
⇒合計 25km

 きょうは、ペース走を20kmまで伸ばしてみた。
 最近1ヶ月ほどは15kmを単位にしていたが、来月からはサブスリーペース(4分15秒)を、意識のうえで基本スピードにしていきたいので、まずは、試しに、ペースは上げないで距離だけ伸ばしてみた。
 キロ4分23秒ペースでは、息は苦しくない。
 しかし、後半にフォームがぎこちなくなってきたのを感じた。走っている最中には、逆風のためカラダが浮いたようになり「泳ぐ」ようになっているな、と、思ったものだが、それだけでもなさそうだ。実際(足裏全体で着地するよう意識したつもりだが)少しだけふくらはぎが張っている。
 まだ早めのスピードに脚がついていっていない可能性がある。
 まずは、キロ4分45秒くらいのペースで、25~30kmをしっかりこなしていこう。

 一方、スピード練習をするときは、無理をせず5kmを単位にしっかり走ろう。1本だけなら、キロ3分45秒くらい。2本なら、キロ3分50秒~4分00秒ぐらい。
 ペース走は、サブスリーペースで、距離は12~15kmでいこう。

 あすは、起きたときのふくらはぎの状況をみて、どうするか考えよう。

10/30(水)「シーシュポス」というランナー

 アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を、ランニングのロールモデルにしているという人がいるという。リチャード・アスクウィズ『80歳、まだ走れる』の24章に出てくる、ジョン・カーグ(1979- )というアメリカの哲学者だ。
 そもそもシーシュポスとは、ギリシア神話に出てくる神話上の人物である。ランナーではないし、ランナーと同じ範疇で語られるようなタイプではない。

以前読んだが全く理解できていない。『異邦人』のほうがまだ分かる。でも妙に「現代的」。

 シーシュポスは神々の怒りをかい、ある罰を受けることになった。大岩を転がし、山の頂上まで運び上げるというもの。休むことは許されない。何度、頂まで運び上げても、そのたびに大岩はふもとまで転がり落ちてしまう。その繰り返し。無益で希望のない労働である。
 つまり「シーシュポス」とは不条理の象徴。
 わたしたちはとかく「人生には意味があるはずだ」と信じたいが、所詮、世の中は(世界も、宇宙も)、そんなこととは無関係にあるのであって、その相容れない状況こそを「不条理」と、カミュは説いた。まさにシーシュポスの置かれた状況であるが、よく考えると、それは当たり前のことでもある。にもかかわらず、当たり前だと片付けられないのは、わたしたちは、ついその「不条理」から目を背けてしまうのだ。正確には、他人のことなら「見える」のだが、じぶんのこととなると「見えなくなってしまう」こと。そして、じぶんの殻のなかで、しっかと希望を仕立てあげてしまう。不条理など無いかのごとくー。
 でも「それは欺瞞だ」と、カミュは言うのだ。

 いったい、それのどこが、ランナーのロールモデルなんだろうか。
 それを解くカギは、つい抱えてしまう希望にこそある。

 希望とは、これまた難しいコトバだ。
 結論をいえば、そもそも「走ること」に希望はないのだ、という。
 なぜなら、わたしたちは永遠にタイムを上げ続けることはできないのだから。老いて死にゆく定めの全てのランナーに「敗者」となる運命がプログラムされているのだ。常に果敢にトレーニングしたい身であればあるほど、見たくはない現実との間に鋭い裂け目が生じ、不条理となって姿を現す。
 そうであれば、「希望を抱く」という欺瞞を捨て、不条理を受け入れるのが本当の姿勢なのかもしれない。

 それではあまりに寂しいではないか、という気もする。 
 「走ること」は、所詮、無価値なのだろうか、と。
 しかし、そうではない、と、いう。敗者を生きることが、残されている。
 そして、もがき、苦しむランナーの息遣いそのものに「敗者を生きる」姿が濃縮されているからである。
 希望を捨てて生きよ、とは、朽ちゆくランナーそのものではないか。
 シーシュポスというランナーそのものではないか。

<きょうのRUN>
完全休養。

10/31(木) 走りながらどんな音楽を聴く?

 音楽を聴きながら走ると、まれに信じられないほどの高揚感を得ることができる。

 いまでもはっきり覚えているのは、冬の寒い朝、埼玉県 戸田市にある彩湖までの往復20kmを走ったときのこと。スタート時はまだ真っ暗なのでヘッドライトを点灯しながら、寒風のなかキツネになった気分で、荒川沿いを北上する。湖に到着する頃にようやく朝日が昇り始める。湖畔がオレンジ色に染まる。高木正勝のピアノ曲。まさに風景と混じり合う。ついでに、じぶんも溶け合う。白い息も、朝霧に交じるようだ。耳から入るメロディーも、カラダに流れこむ水か何かのようだった。

 対照的な音楽ではあるが、やっぱり忘れられないのは、イギー・ポップの「American Caesar」。これはキケンであった。とくに「Louie Louie」。アドレナリン全開になるのだ。スピードを自制できない。確か、20kmぐらいの練習会であった。どんどん周りを追い越す。それがさらに拍車をかける。「こりゃ、もたないゾ」と思っても、じぶんでじぶんを止められない。はたして、やっぱり自滅。でも、その前半戦だけでも、異様に鮮明なのだ。

 音楽を聴きながら走るのは、至上のしあわせである。
 でも、ジャンルが限られてしまうと思うのは、じぶんだけであろうか。
第一に、クラシックは聴けない。細やかな楽器編成が耳に入ってこないのだ。第二に、レゲエも聴けない。スピーカーから流すとゴキゲンなレゲエのような音楽は、どうやらランニングにはマッチしないようだ。第三に、Bob Dylanも聴けない。もともとBGMにはなりにくい(したくない?)楽曲が多いが、走りと調和できないというよりも、どちらかというと走る気分にならない。無理して走ると、楽曲のほうが離れていってしまう。
 こうして整理してみると、ひとつの特徴が浮かび上がる。配信音楽が主流になりイヤフォンで聴くようになり、音楽は空間に流れるものというよりも、個人がじぶんの趣味や美意識に埋没するために聴くようになったが、ランニングのときに聴く音楽はまさにその延長線上にある。クラシックやレゲエや Bob Dylan などは、「人と人との間」に流れる古き良き音楽の特徴が強く、きっとランニングには不向きなのだろう。

 実際、この一年間ほどは、走りながら音楽を聴くことはない。
 走りに集中するためにも、音楽を自分好みに聴くうえでも、それがよいであろう。

<きょうのRUN>
・4.86km アップ(キロ5分30秒)
・25km ロング走(キロ4分41秒)
⇒合計29.86km

今月の月間走行距離は、360km。

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