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詠むための一首評の練習(13) -手すりへと寄りかかりおれば頭皮さえ放電している冬日のあわれ/行沼義朗
手すりへと寄りかかりおれば頭皮さえ放電している冬日のあわれ
生沼義朗第二歌集『関係について』(2012年・北冬舎)
作中主体は「頭皮さえ放電している」という「あわれ」を感じている、ということだが、ここの「あわれ」は「寂しさ」という意味合いと読んだ。現代語の「哀れ/憐れ」よりも古語の「あわれ-あはれ」の方が多義的で意味の広がりがあるように思うが、ここも寂しいとか悲しいとまでのはっきりした方向性がない、しみじみした気持ち、ということでも良いかもしれない。
乾燥した冬の日に、ぼんやりと手すりに寄りかかっていると静電気を感じたのだ。「頭皮さえ放電」には、電気さえ溜めておくことができない、というか、電気さえ抜けていってしまうのか、という気持ちではないか。作者の無力感や孤独感を表した表現であろう。そしてそれが「あわれ」だというのである。誰しも経験があるように、冬の静電気の放電はバチッとかジジッという一瞬のもので、その短さも「あわれ」と繋がっていく。上の句の所在無げな描写から、いかにもありそうな手すりの静電気を「頭皮さえ放電」を繋いで「あわれ」という感情に持っていく。巧みな運びという他ない。
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「日々のクオリア」の評者は、見出しに取り上げたにも関わらず、残念ながら、全くこの歌に触れていない。そのため私の読みの距離を測ることができない。「日々のクオリア」は歌評の記事と思っていたが、こういう事例にいくつか会うと、どうやら掲出歌を一つ挙げて、それをダシに何か書いてください、ということなのかな、と思った。
(練習の題材として過去に砂子屋書房のWEBサイトに掲載されている「日々のクオリア」で取り上げている短歌を使わせていただいた。日々のクオリア自体が一首評の記事だが書く前には読まぬようにしている。誰がどんな歌を詠んでいるのか、初学者にとって歌集を買うのに大変に参考になる記事である)