エッセンシャル・ワーカーは世界を変えられない
真の意味で民主主義を実現していくためには、すべての人がケアに参加し、ケア活動を通じてケアを民主化していく必要がある。
ケアの民主化が必要であるのは、すべての人がケアに参加しないからだ。これは同義語反復(トートロジー)であるから、問いの立て方を変えよう。
なぜ、すべての人がケアに参加しないのであろうか?
不可視化されるケア
フェミニズム政治理論を専門とするジョアン・C・トロントは、約30年も前から次のように問い続けてきた。
なぜわたしたちの社会では、ケアすることという、人間にとって不可欠な活動が、これほどまでに受け止められず、理論化もされず、支援も受けられず、そして敬意を払われてこなかったのだろうか
トロントの問いに集約されているのは、ケアは歴史的に不可視化されてきたという問題である。
不可視化されたケアには非対称性があり、それがそのままケアの不平等へとつながる。
ケア活動の社会的評価が低いワケ
トロントの舌鋒鋭い指摘に耳を傾けよう。
ケア活動に対するある者たちのニーズは、他の者たちのニーズよりもずっと完全に充たされている。そして、この格差パターンは、社会における権力配分にしたがっている。いったいどうすれば、相対的に権力ある者たちが、自分たちのニーズを最も重要なものとして定義し、より生活に困っているひとびとの関心を軽視し続けることを止めることができるのだろうか
ぼくたちの社会は、相対的に権力のある者の無責任さのつけを、ケア活動を担わされる〈誰か〉が支払うことによって維持されている。
昨今は、新自由主義的な経済市場の価値観に基づいた自己責任が喧伝されている。にもかかわらず、ケア活動については、その責任を逃れる特権者がいる。ケア活動は社会生活において不可欠な活動であるにもかかわらず、である。
とすれば、特権者が逃れたケア活動を担わされているのはいったい誰なのか?
それは社会の中心から排除されたものであり、特権者から遠い場所で暮らす人びとに他ならない。
そのことは、看護や介護をはじめ生活に欠かせないいわゆるエッセンシャル・ワークと呼ばれる仕事を、移民労働者に肩代わりさせようとする政策が傍証している。
ここにケア活動への差別や抑圧、蔑視が透けて見える。
差別や抑圧は、権力や富を収奪する・集中させるための手段として大きな力を発揮する。
ケア活動は、社会への貢献度が低いから社会的評価が低いワケではない。社会への貢献度が高いにもかかわらず、社会的評価を下げておかなければならないのだ。
そうしなければ、権力や富を収奪し、集中させることができない。
言い換えよう。
特権者がその力を最大限に発揮し続けるためには、ケア活動は差別され、抑圧されなければならないのである。
エッセンシャル・ワーカーは世界を変えられない
それならば、ケア活動に携わる人びとが反逆すれば事態は好転するのだろうか?
残念ながら答えはNOだ。
人類学者のデヴィッド・グレーバーは、エッセンシャル・ワーカーが担う仕事をシット・ジョブと呼んだ。
シット・ジョブは、社会の利益になるにもかかわらず、報酬や処遇が低く評価されている仕事であり、不必要にもかかわらず高給取りのブルシット・ジョブの対概念として使われている。
グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ』を翻訳した酒井隆史は、シット・ジョブの担い手であるエッセンシャル・ワーカーについて、次のように述べている。
エッセンシャル・ワーカーはいま、さかんにもてはやされている。しかし、かれらの劣悪な労働条件は変わらないだろうし、今後も同じであろう。理由のひとつは、かれらがその力を行使して、みずからの待遇の改善を求めるべくストライキをおこなってしまえば、世界そのものが維持できなくなるからだ。ブルシットな高給取りはいくらでも休もうがなんの変化もないわけだが。
エッセンシャル・ワーカーは、担っている仕事がエッセンシャルであるがゆえに、長期的な職務放棄ができない。労働者の権利とされる団体行動権(ストライキ権)に事実上制限が加えられているのである。
悲しいかな、社会システム上、エッセンシャルなケア活動に携わる人びとの反逆というのは、その力を高めていくことが極めて困難な運命にあるのだ。
ケア活動の放棄は、権力者に対して大きなダメージを与えることはできる。だが、その前にケアを必要とする人びとの犠牲を避けて通ることができないのだ。
こうしてエッセンシャル・ワーカーの行動と感情はトレードオフの関係におかれ、引き裂かれてしまう。つまり、彼らは社会的に抑圧されているのである。
だからエッセンシャル・ワーカーが声をあげたところで、残念ながら世界を変えることはできない。
いや、彼らだけが声をあげたところで、世界を変えることはできないのである。
エッセンシャル・ワーカーに呼応し、ケアに参加する
ケア活動に持続可能性を持たせるためには、エッセンシャル・ワーカーの声に社会の構成員の一人ひとりが呼応しなければならない。
とは言うものの、それは、個々人の自己の意識変革だけを求めるだけでは不十分だ。特権的な無責任さを許容しないための制度設計という変革が必要である。
その上でなお、岡野八代の次の主張には耳を傾けなければならない。
民主主義をケアに満ちたものへと変革するためには、繰り返しになるが、ケア実践をなによりも私的なもの、家族で賄うことが原則とするわたしたちの強い信念を変えることから取り組まなければならない。
未来とは、過去において〈そうすべきだったのに、なさなかったこと〉の集積でもあるともいえる。その当時には、未だ到来しなかったよりよい対処やケアのあり方が、現在から過去を省みることで、未来にむけた備えとして現在にようやくもたらされる。
ケアの私事化ではなく、ケアの社会化を考えてみる。
自分自身が関わっているケアを洗い出し、その中で意識的にであれ無意識的にであれ、特権的に回避できているケアについて、意識的に考えてみる。
そして、避けてきたケア活動に実際に参加する。
その中で、ケアを必要としている人びとからの視点で、社会や政治、そして他者との関係がどうあるべきかを問い直す。
ケア活動への参加という一歩を踏み出すか否かが、自己責任論の溢れた生きづらい社会と、配慮に満ちた生きやすい社会との転轍機になっているとすれば、この一歩の責任は重く、しかしだからこそ、その意義は大きいと言えるのだ。