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ライブ配信花ざかりの昨今、名人圓生のレコーディングについて読んで色々考えた。

「こんな噺家は、もう出ませんな 落語[百年の名人論]」(講談社)
「圓生の録音室」(青蛙房)  ともに著者は京須偕光

無観客でのエンタテインメントをどう伝えるか?

 じつに、このぉ、お客さんがいないってのはつらいでゲスな。
 コロナウィルスによって客入れ興業に制限がかかり、無観客での興業を動画配信する取り組みが活発化しています。個人的には劇場が救われるのならすべて許される時期と考えるものの、良いものもあれば、流れに便乗した集金装置としか思えないものもあります。
 そんな折に伊集院光のラジオ番組で、ゲストの六代目圓楽が「無観客で録音された圓生百席を考え直してみたい」といった趣旨の発言をしたのを耳にしました。んー、確かに!と膝を打ち、上記の二冊を本棚から引っ張り出したわけです。
 「圓生百席」は名人とうたわれた六代目三遊亭圓生が、昭和49年から52年までに録音して残したレコード作品集です。当時の演芸のレコードは音楽よりも低価格で販売されていたこともあり、予算をかけた本格的なレコーディングはほとんど行われていませんでした。その時代にCBSソニーのディレクターだった京須は、名人の落語を一級品の古典芸術商品として残そうと考え、無観客の本格的なスタジオ制作で高価格のシリーズ商品を作りました。それが圓生師の作品群で、レコード、CD、そして配信となった今も人気は続いています。

耐久性のある品質の高い芸を記録することの難しさ

 「圓生百選」が伝説の録音盤と言われるのは、これだけの数の噺を高い品質で残したことがあると思います。
 当時の圓生は72歳、神田に育ち寄席通いをしていた京須は30歳。
 年端も行かぬうちから寄席に出ていながら、中年をこえるまで脚光をあびることのなかった圓生は、噺と人と芸の歴史の研究をしながらじっくりと腕を磨き続け、積みあげたものが晩年に大きく花開いた名人です。
 京須はレコード業界が熱心ではなかった人情噺のレコード制作を、円熟期を迎えていた圓生に持ち掛け、圓生自身も失われていく噺と芸の記録を残すべく引き受けます。
 このレコードが金字塔になったのは、
①演じる圓生の高い技量
②録音する京須の見識と熱意
③圓生が制作に踏み込んで録音技術を理解ながら進めたこと
 問題は③で、圓生師は「芸を”レコードで”残す」という意義を高く見て、ただ呼ばれて演じる出演者ではなく、自ら出囃子など音曲にもこだわり、強く望んで編集に参加し細かくチェックを重ね、撮り直しを厭うことなく、前のめりに力を注いだことです。
 そこから感じるのは、”一言一句ゆるがせにしない完璧なもの”というより、”どなたにお聞きいただいても恥ずかしくないもの”という芸人らしい料簡でした。

落語という生ものと練り上げた名人芸と。

ー圓生さんは、間には神経質だったが、発音に疵や不明瞭、私たちがリップノイズと呼ぶ音、つまり発音や発生にともなって出る、例えば唾液を小さく吸う音、唇の鳴りなどには、ほとんど無関心だった。(中略)流れ、言いまわし、呼吸、何よりも間が、圓生さんの関心事だった。

 音声だけのレコードでは、噺家の仕草や形様式を見せることはできません。音だけで繰り返し聞いても楽しめるモノにする必要があります。
 圓生はそれまでに収集研究した噺を「圓生全集」という文献にまとめていましたので、それを台本化したものを演じても、圓生の腕ならば整ったものにはなったことでしょう。
 しかし朗読や読み聞かせにはない寄席落語ならではの香りを、噺のなかで醸し出したかったのではないでしょうか。細部までこだわって構築しながらも、その日その時に演じた一期一会の芸として残しています。録音をチェックしてパートを取り直す時に、やるたびにセリフがちょっと変わったりしますが、そこは特に気にしない、噺と感情の流れがうまく成立していることが大切。つまり生の落語ならではの揺れを、録音のなかに注入しているのですよね。

 圓生からみた桂文楽や古今亭志ん生にもふれられていて、圓生というとカチッとした本寸法の文楽寄りの感じがします。しかし、一つの話を完璧に作り上げるぶん手持ちの噺の少ない文楽と自分は違うと考えていたようです。どことなく志ん生まではいかないものの、その人物のこころもちをしっかり作って物語に入り込めば、細かいセリフまでガチガチに決め込まず、演じるたびに変わることもあったようです。

 このレコーディングで録音を細かくなんどもプレイバックして確認する作業から、圓生師自身が落語について新たな発見をしては高座に取り入れていきます。

ー圓生さんの編集立ち合いの目的は、仕事のはじめとそのあとでは、かなり変わったようだった。立ち合いに新しい意義を発見して、圓生さんはますます意欲を持ったようだ。圓生さんにとって編集は完全主義の遂行の場だけではなく、次第に青年のような自己発見の場と化していったのかもしれない。

配信動画で名人芸が見られる日は来るのかな。

  最近は神や名人や伝説が大安売りとなっていますが、京須にとって”名人”という呼び方がしっくりくるのは、ともに仕事をした圓生、志ん朝のようです。文楽は美しい過去を照らすが後輩や後世への影響度は小さく、志ん生は面白いときはとてつもなく面白いが高座にムラがある・・・巧くて人気であっても、その魅力がかえって名人と呼ぶのを邪魔をしてしまっているようです。名人というのは王道を往くカリスマ性と総合力が独特のバランスで配合されているとでも言いましょうか・・・。

 かつて名人の芸を記録する役割を果たしてきたのはレコードや映画でした。今や名人でなくとも生の実演を、記録や放送や配信といった別なメディアを通じて残すことが当たり前となっています。
 そのなかに「圓生百席」のような時代を越えて残るものはあるのでしょうか。そのような作品を増やしていくためには、当代屈指の名人がメディアの特性や新しい技術と真摯に向き合いながら、高い品質のものを生み出しお手本を示すことが必要でしょう。youtubeなど動画プラットフォームの現状を見れば、手間をかけ高邁なことをしたとて、市場の反響は得られないという意見もあるでしょう。
 しかし山下達郎のライブ動画配信に取り組んだ姿勢などはやはり信頼に値します。現状のようなライブ動画配信のような新しいものに取り組むときにこそ、芸の本質や姿勢や矜持が見えてきたりしますね。

ーモニタールームのなかには、二人の三遊亭圓生がいた。一人は直前にテープのなかにおさまり、スピーカーを通して芸を披瀝した。もうひとりは、そのスピーカーの正面に坐って、それをじっと聴きつづけるのだった。二人の圓生はときに和合し、時に葛藤した。圓生のレコーディングは、そんな数日間でもあった。

 このレコーディングが続く間に、落語協会分裂騒動から三遊亭一門の独立があり、圓生は大騒動の渦中の人として最晩年を過ごしました。
 京須はその騒動から距離をとりながら作業をすすめ、圓生が急逝する前にすべての録音を終えています。最後の録音を終えたあとに圓生と京須のあいだでわずかに行き交う感傷の描写が胸にせまります。

 やるんなら、ちゃんとやんなきゃなぁ・・・とつくづく思います。

 





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