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人気イマイチ指揮者の技と神髄 序文 『人気イマイチ指揮者が出来上がるまで Part.2』


6. 人気指揮者たちのラッキーなスパイラル

スターの人気の一因にはもちろん、レコード会社が発掘したり争奪したりした有望株を、全面的にバックアップ、宣伝したという事が当然ある。

特に日本の音楽ファンが海外のアーティストを認識するのは、ほとんどが録音媒体と雑誌類を通じてである。

そして当たり前の事だが、レコードを出せるのは各レーベルが才能とスター性を認め、契約した指揮者だけなのだ。

いったん市場にアルバムが放たれれば、批評家やリスナーが彼らの新譜をあれこれ論評する事でまた認知度も上がり、セールスが良ければ契約期間が延長され、さらに新譜が制作されるという正のスパイラルが生まれる。

先に挙げた指揮者の一人コリン・デイヴィスは、80年代辺りから顕著になってきたレコード業界の不況に言及し、「今はもう私達の頃のような、音楽辞典に載っている名曲をAからZまで片っ端から録音させてもらえる時代ではなくなった」という旨の発言をしている。

それはもちろん遺憾ではあるが、この企画で取り上げる人気イマイチ指揮者たちなんてそれどころではない。

彼らは業界がイケイケの好景気だった時代から、カタログ網羅的に名曲を録音しまくるという贅沢が与えられなかった人達なのだ。

彼らの多くがカタログ補完的なレパートリー、つまり、スター指揮者たちが興味を示さなかった、マイナーな(しかし重要な)曲目をたくさん録音している点に注目したい。

それは役割としても、演奏自体も、もしかするとスター指揮者のそれ以上に、音楽ファンにとって必要で価値のある仕事なのだが、ポピュラーな名曲でないがゆえに大きな売れ行きも期待できない。

7. 人気イマイチ指揮者は、時に実力で売れっ子たちを越える

公平に聴くならば、人気イマイチ指揮者は、スター指揮者のそれより優れた演奏もしばしば行っている。

どんな指揮者であれ、演奏の出来映えにはムラがあるから、スター指揮者にも時に冴えない演奏があるのは当然である。

しかし、人気イマイチ指揮者達のレコードの中に、時にスター指揮者の演奏を遥かに凌駕する名盤が埋もれているのは、評論家やライターがそれを発見できなかった怠慢と言う他ない。

スターのネーム・バリューで耳にバイアスがかかってしまうのも致し方ない事だが、それはアマチュアのリスナーにのみ許される事で、プロがそんなトラップに引っかかるべきではないだろう。

私はカラヤンもバーンスタインもあまり聴いてこなかった。
肌に合わなかったのだ。

私には、彼らの演奏は特に個性的にも優秀にも聴こえなかったし、他の演奏と較べて芸術性が高いとも思わなかった。
私はただ、「特に面白くはないし、そもそも音が汚いな」と感じだだけだった。

カラヤンもバーンスタインも、晩年になるほど主観の世界に没入していって、音楽のフォルムがぐだぐだに崩れてゆく。

ファンはそこに価値を見出し、神格化するのかもしれないが、そうなると作品本来の姿は失われるし、作曲家の個性もスタイルもあったものではない。
もう何の曲を演奏しても同じである。

私は、メータやブーレーズやマゼールのレコードは面白く聴いた。
ムーティやアバド、レヴァインも好きだった。

私が最初にハマッた指揮者は、颯爽とした風貌で才気溢れる若手として登場したティルソン・トーマス、セカンド・チョイスはサロネン、シャイーといったさらに若い世代と、もちろん人気イマイチ指揮者達も。

8. スター指揮者には空虚な演奏がいっぱい

今ではカラヤンやバーンスタインの音源も、レーベルごとにまとめてCDボックス化されており、下手をすると1枚あたり100円くらいに価格破壊されている。

近年は私も、
彼らを敬遠してきた自分への戒めか、
LP発売時のデザインを再現した紙ジャケットがいざなう郷愁ゆえか、
はたまたネットのセールや中古品のあまりの安さに衝動買いを促されてか、
ついこういうボックスを買ってしまい、
好きじゃなかった指揮者ばかりどっぷり聴かなくてはならぬ、謎のノルマに追われたりもする。

今、そうやってカラヤンを聴きまくり、改めて感じる印象は、かつてとデジャヴのごとく変わらない。

どれを聴いても、「特に面白くはないし、そもそも音が汚いな」である。
私が成長していないのではなく、若かりし私の耳が確かだったのだと思いたい。

大量のカラヤンをまとめて聴いてみると、その場しのぎとまでは言わないまでも、今回はこれ、次はこれと、いかにもビジネスライクに進めたような雰囲気があって、連続して聴くと疲れる。

単にCDを聴き続けて私の耳が疲れただけという噂もあるが、少なくともそこには、作品に愛情を注ぎ、楽譜を入念に研究し、情熱をもって丁寧に取り組んだ跡はほとんどみられない。

実際にカラヤンは、レコーディングする曲目を直前まで決めず、リハーサル時間もあまり取らなかったと言われている。

確かにそうでなければ、こんなに膨大な録音を残す事など不可能だっただろう。
そして彼の手兵ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、どんな曲の楽譜も初見で演奏できるほど超優秀なオケなのである。

しかしやはり、事務的になされた演奏は、ちゃんと事務的に聴こえるものなのだ。
生身の人間が演奏しているのだから、それも当然だろう。

聴いていて疲れるのは、それらがパターン(型)とテクニック(技)でなされた最大公約数的な演奏で、作品への根源的な共感が背後に感じられないからなのだと思う。

この企画に選んだ人気イマイチ指揮者に共通する美質があるとすれば、それは作品への取り組み方が常に真摯で、演奏が隅々まで丁寧だという事である。

有名な曲でこそなくても、その指揮者が個人的に共感を寄せている作品を録音させてもらえるケースが多いのも、彼らの有利な点と言えるだろう。

また、作品のプロポーションがくっきりと明快に切り出されていて、そこに生き生きと弾む敏感なリズムや尖鋭な音感、鮮やかな色彩、みずみずしくしなやかな歌が盛り込まれているという事も、私の好みに合致する。

私にはそれが、耳をつんざく汚い大音響で自我を主張するよりも、遥かに誠実で、好ましいように思われるのだ。

(序文 『人気イマイチ指揮者が出来上がるまで Part.3』へ続く)リンクは下記へ


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