食べ物で遊ぶなという謎の言葉
言いたい事は解る。しかし分からん
昨今SNS上で食べ物を投げたりする動画を見かけることもしばしば。
そんな際にふと浮かび上がってくるこの言葉。
実際に私だってそれを見たら不快に思うし、やる奴の気がしれない。
しかし、その「食べ物で遊ぶな」という言葉というのはとても概念的な存在ではないだろうか。
今回はその言葉について、自分の思った解釈を述べていこうと思う。
ちなみにこれに関してはそれぞれ思う所があると思うので、皆様の異論反論は認めまする。
それではいこう。
「遊ぶ」とは????
食べ物で遊ぶ。
そもそも遊ぶとは何なのだろうか。
食べ物を投げるなというのは確かに遊んでいる。
しかし、何処までが遊んでいると認知されるのかがとっても疑問である。
そもそもこの世の中には知育菓子という摩訶不思議YouTubeコンテンツが存在する。
あれは製作者自体が「遊んで下さい!!!!(大声)」「この飴ね!!!
!!!まぜると膨らむんすよ!!!(大声)」「グミ!!釣れるんですよ!!!!!(大声)」と、大声かどうかは分からないが大々的に主張しているわけである。
確かにあれ自体を「食べ物で遊んでるからキライ」と言っていたおばあちゃんがしかめっ面をしている前で、よく無限に練っていた記憶も懐かしい。
しかしあれらがSNSで炎上どころか大人気コンテンツとされている時点で、炎上商法で食べ物を粗末にし、その後ABE○A TVで開き直っていた某配信者との違いはいったい何なのだろうか。
作り手か!?!?作り手なのか!?!?トマトまつり
そう!!
その圧倒的差、そこに存在しているのは「作り手か否か」なのではないだろうか。
というか食物なんてものはそもそもただ自然に存在していただけの動植物、あるいは化学物質でしかない。
バスボムも、ねるねるねるねも元素まで戻れば結局のところその重曹を(違ってたらごめん)を何に使っているかなだけであって、結局同じである!!!
ウシがペットな奴に対して「食べ物で遊ぶな」って言っている事と本当は本質的には同じなのではないだろうか!!!!!(最低)
しかし、大事なのはその食べ物を汗水流して作って「食べて欲しい」という気持ちでこの世に生み出した存在がいるかどうか。
不本意な作り手が存在しているのかどうかなのである。
トマトまつりだって、結局のところすごい勢いで投げられてはいるものの、その祭りが近くなったイタリアのトマト農家が
「うえーーーいwww硬くてデカいトマト作ってめっちゃ殺傷能力あげようぜwwwww」
というテンションで作っていたのなら、トマトまつりで投げられているトマトは全て計画通り、むしろ農家しめしめ案件なのである。
しかし、これは農家まで遡ったから良かっただけで、この世には料理人というさらに上流の工程の作り手もいる。
では農家が「これはブラックで美味しく飲んで欲しい」と思って作ってくれたコーヒー豆をカフェの店員がクリーム多めのインスタ映え映えラテアートにした場合。
これは叩かれるべき???
否、一応料理の一つとしてラテアートが含まれているなら、料理人は料理を下だけなので、きっと何も言われないのだろう。
このように、思想の違いはあれど、どんなに前衛的な料理であれど、
農家
↓(農家の思い)
料理人
↓(料理人の思い)
消費者(我々)
この三段階工程のうち、どれだけの思いが踏みにじられているかで、きっと我々が見ているSNS上の不快感は決まっているのではないだろうか。
また、これは余談になるが、「食べて欲しい」という思いが【結果的に】叶っていたらそれでいいのか議論もある。
例えば風呂いっぱいに牛丼を詰めるといういかにもな企画があるが、それも炎上する一方でそれを擁護する見方もある。
それは、結果的に容器が何だろうが、最終的に食っているのなら、そこに不本意かもしれないが不幸な作り手自体は存在しないからである。
閑話休題
故に、SNSで料理を吹いたり投げたりしている人々が後にオフレコ版で
「うぇーーーいw投げる為のジャガイモ作ってるぜぇ」
「うぇーーーいw投げる為のジャガイモを揚げてるぜぇ」
という動画を作れば完全100%不本意な人間がいない大変幸せなフライドポテト投げ世界選手権ができる訳である。
(油農家さんごめんなさい。)
大事なのは、ここでくれぐれも「ジャガイモが可哀想」などと言わない事。
我々は勝手に育てて勝手に利用しているだけの存在である。
それなのに異種族の感情移入、しかも摂取する側の存在が同情するのは、あまりにも身勝手極まりないではないだろうか。
そうやって!!あなたアートって言えば良いと思ってるんでしょ!!!
遊び問題は一旦これで終幕。
我々が危惧している一番のもやもやポイント。
それはそう。
Q:食べ物で遊ぶな
A:遊んでいない!!!!!アートだ!!!!!(真剣)
↑これである。
アートって何!!?!?!?!?
そういった疑問はもはやこの地球上で8兆回繰り返された問答であろう。
最早自然の摂理からは逸脱した、人間のみの娯楽の文化。
むしろ文化の象徴。
しかし、本能的なものからは一番遠い存在と言っても過言ではないのだろうか。
そんなアートというみょうちくりんな物の為ならどんなこともする人間がたまに存在してしまう。
自らの血で描いたり。
気の遠くなるような作業をしてみたり。
バナナをガムテープでくっつけてみたり。
いやバナナをガムテープでくっつけるなよ!!!!!
はい。バナナ農家の悲しみが一つ増えましたね?
しかし、そんなアート(????)が数千万で取引されているのである。
先ほどまでラテアートで云々かんぬん言っていた我々は何だったのか。
ここで私なりの結論を出そう。
アートに対しては、多分。
いや恐らくだが、一般人は芸術家に対してドン引きしていて、
もう何を言っても通じないし、まともな人間の思考していると思っていない節がある。
だから「アートだ!!!どうだ素晴らしいだろう!!(迫真)」と言われたら、先ほどまで遊ぶな躍起になっていた人たちも
「あァ…………………..うん(諦め)」
となっているのではないだろうか。
そして、その矛盾を自己解決できなかった人達が、
「いや、だから食えよ!!!!!!!!(迫真返し)」と、食い下がっている
という状況がやんわりと続き、それに追加で、前項目のエトセトラが混ざり合った結果
「食べ物で遊ぶなって言われてるけど、なんか許されてる奴もいるくね….?」
みたいな昨今の曖昧な風潮が出来てしまったのではないだろうか。
是非皆様の意見を聞きたい所存である。
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