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愛することと許すこと

私の人生では「愛」がテーマになっている。


『愛するということ』
『自分をどう愛するか』
『愛するための哲学』

これらの本を読んでみて、私は「愛」を哲学的に考えるようになった。

『愛するということ』の本には、
愛することは、「技術」だと書かれていた。
愛とは、スポーツや音楽と同じように、技術であり、鍛錬することによって磨かれる。らしい、、、

そして、その鍛錬は、日々積み重ねることにより強固になる。らしい、、、

日々鍛錬を重ねるためには、まず、「愛そう」という意思があり、決意が前提になる。
「愛したい」という欲望も必要かな。

「愛したい」欲望が、「愛そう」の意思になり、決意を固める。
そして、「愛を育む」ことは鍛錬であり、日々行うものになる。
これが、「愛」の工程のようだ。

まあ、要は、自分から愛してみないと「愛」は分からない。
むしろ、愛した人にしか、愛の正体はつかめないのだろう。


いくら本を読んだって、、、
頭で考えたって、、、

最近、ふと思ったことがある。
それは、、、
「私は「愛とは」の答えを持っている。」だ。


だって、愛してきたからね。

もちろん親、両親、友達、好きな人など、対人関係では
紆余曲折しながらも、時間がかかりながらも、最後は「愛して、許して、そしてまた愛して」で乗り越えてきた。

いつなんどきでも、「愛を持って許す」とは難しい。
本当に大変なエネルギーが必要。
だって、自分の悪いエゴに向き合うことになるから。
だけど、「許せない!!!」との感情もまた、大変な苦しみが伴う。

そして、その苦しみから解放される方法は「愛をもって許す」ことなんだと。

そう、わたし知ってた。

さらに、自分なりに「愛」について考えているときに思ったことがある。
それは、「愛は人を強くする」ということ。

子供のためをおもえ自然と頑張れる母親がいい例だと思うけど、
愛すると、行動するエネルギーが湧いてくる

そして、時には、犠牲にだってなれちゃう。
そんなお腹からみなぎるエネルギーの素が「愛」なんだと思う。

愛する対象はなんでもいいと思う。

河原で拾った石を愛でてみてもいいし、土砂降りの空でも、疎遠になった友人でも、喧嘩別れした恋人でも

簡単に愛を選択できない時だってある
怒りや不安が募って、本来の「愛」を見失う時だってある

その時、もちろん愛することをやめたっていい。
やり直してみてもいい。

愛する自由は、誰からも邪魔はされない。

どんなものにでも、どんな時でも、「愛する」ことを選択するかしないかは己次第。

愛を選択しなかったからといって、罪人になるわけでもない。
冷酷な人間だと判断もできない。

愛を選択したからといって、何か褒美があるわけでも
天使になれるわけでもない。

どう選択しようが、その命は続いていく。

ただ私は、今日も「愛していたい」そう思う。
なぜなら、心が愛情で満たされると、体内に温かさがめぐる。
そんな温もりにぬくぬくと浸っていたいから。

誰になんと言われようが、どんなジャッチをされようが

純粋に「愛」とやらを模索し、追っかけ回して死にたい
「愛」になら翻弄されたって構わない。
そんな極論までも抱いてしまう。

愛する自由があるのに「愛」に翻弄されるなんて
素敵な人生じゃないか

これからも私の人生テーマは「愛」

愛を実践し模索したい
そんな中で、自分も他人も許していきたい

愛情で満たされるそんな人生を送りたい。


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Rammy
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