全員を大事にしようとすると、誰も大事に出来ない
真面目な人、正義感が強すぎる人は、全てを完璧にこなそうとして、失敗することが多い。
それは対人関係においてもそうだ。
「誰とでも仲良くしよう」、「みんなを大切にしよう」、「みんなを幸せにしよう」
などと、崇高な目標を立てている人もいるかもしれないし、それを美徳としている人もいると思う。
過去の俺も、人類皆平等に、みんな自分の人生を真剣に生きて、幸せになればよいみたいな理想像を掲げていた。
そして、プライベートでも、関わる人全員を引き上げていこうと。
今考えると、青いなーって思う笑
人間関係でも失敗しまくってきた。
若気の至りといえば、そうだけど現実が見えてなかったなと思う。
変わる気がない人もいるし、そんなのただのお節介に過ぎなかったのだ。
そもそも俺の良かれと思った方向に変えようとしたり、必要以上に大切にしようとする事は、相手の立場にも立てていない。
正義感に取り憑かれ過ぎて、現実が見えていなかった。
勿論、今でもそういう気持ちが全くないと言う訳ではない。
心の奥底では、思っている節もあるのだが、今は
「皆、それぞれの道があり、どんな結果になろうがそれで良い」
という考えになっている。
別に全員が、一生懸命頑張る必要もないし、幸せを追求する必要もないし(そもそも幸せってなんだという難問にも答えられない)
世界が平等になる必要もないよなって思う。
世界平和とか、皆一生懸命生きて、幸せになるって世界線は、ただの俺の妄想でありエゴの押し付けにすぎなかったということ。
皆自由意志の元生きている。
どんな生き方をしようが、各々の自由なのだ。
究極を言えば、犯罪を犯そうが、犯罪者は罰せられるという法律があって、その法治国家で生きている以上、犯罪を犯すのも本人の自由意志によるものだ。
(決して犯罪を肯定しているわけではない事を明記しておく)
全員に対して責任を持つことは出来ない。
そもそもそれは、個人の能力の範疇を越える。
皆の為に必死に働きかけても、それが全員に響く事はないし、無理して自分をぞんざいに扱えば本末転倒になる。
そして、その自分が正しいという思い込みに囚われると、それは宗教になる。
自分の本当に親しい数人の事に責任を持つことも非常に大変な事なのだ。
俺も両親を見ても、自分が実際に生徒を持ったり教育に携わるとそれが身に染みる。
全員を自分の思う様にコントロールすることなど出来ない。
自分のことですら難しいわけだから。
ならば、全ての人を自分の理想に近づけようとする事自体が、おこがましいし、その資格も技量もない。
ならば、我々に出来ることは何か。
それは、先ずは自分の事を最大限、大切にして生きるということだ。
それは別に甘やさせとかという意味ではない。
先ずは自分なりに己の為に生きてみてはどうかという事。
他人の事をあれこれ言う前に、先ずは自分の足元を固めることからだ。
そして、自分の人生を生きる。
そうして、自分の周囲に集まってきて、自分が大切にしたいなと思う人を大切にしてみても良いんじゃないか。
教育の場ではそう言うわけではないが、特にプライベートではそうだ。
俺もプライベートでは、自分が好きな人としか基本絡まない。
全ての人に責任を持つことはできないし、それは現実的でもない。
自分が好きな者を受け入れる。
そして、去る者は追わない。
大切に出来るのが少数の人でもすごい事だと思う。
全員を大切に出来ると思わなくて良い。
そして、その資格もない。
その姿勢は破綻する。
ならば、本当に自分が大切にしたと思う家族や取引先、友人、そして自分自身に自分のエネルギーを注力しよう。
それもとっても覚悟のいる事だし、決して簡単なことではない。
無理して風呂敷を広げるより、身内を大事にしよう。
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