謎の古墳時代を読み解く その1 晋書の倭国 倭人と朝鮮半島との関係
ここでは、『魏志倭人伝(三国志)』の次の時代になる『晋書』から、この時代の倭国について考察します。
□晋書について
『晋書』は、唐の時代の646年から開始し648年に完成した中国正史の書籍です。主な編纂者は唐の時代の政治家や歴史家である房玄齢、褚遂良、李延寿、許敬宗などとされています。多数の人間で短期間に一気にまとめて作られた歴史書です。
晋は、『魏志倭人伝』の三国志時代の次の時代で、265年〜420年の間に中国にあった国です。三国志のファンにとっては、三国志の英雄である曹操が起こした国の魏を、曹家に仕えていた武将の司馬懿の一家が奪う形で立ち上げた国として有名だと思います。倭人のことは、『四夷伝・倭人条』の中で記載されています。実は、倭国に関する記載内容は少なく、内容的には『魏志倭人伝』を元にした内容が非常に多いです。
420年に終わった国の歴史を、648年にまとめているため、2百年以上の長い年数が経過しています。中国では晋の時代の後は、三国志の時代同様に戦乱の時期にあたり、その後の隋や唐の時代になるまでの間は、16カ国時代や南北朝時代の国々が乱立する状態だったため、歴史書にまとめる事が出来なかったという時代背景があります。時間が経っている分だけ、失われた情報もあり、また当時を全く知らない人達がかき集めた情報を元にまとめているため、内容的には正確さを欠くという評価もあります。但し、元となる各歴史書をまとめた当時を知る事が出来る貴重な情報であることには変わりはありません。
□なぜ謎の4世紀、空白の4世紀と呼ばれるのか
『晋書』には、266年に倭国が晋(西晋)に朝貢した記録と、413年に倭国が晋(東晋)に朝貢した記録が書かれています。
この266年~413年の間の倭国に関する記録が中国側の資料には書かれていないため、空白の4世紀や、謎の4世紀と呼ばれています。
この空白の期間についても、日本側の『日本書紀(720年)』や『古事記(712年)』などには記載がありますが、書かれたのは8世紀の初頭であり、数百年以上も先となるかなり後の時代に作られた歴史書となります。
もう1つは、この4〜5世紀がヤマト政権、飛鳥時代に続く重要な期間になりますが、このヤマト政権の成立過程が不明確なため、謎の4、5世紀と呼ばれています。
実は、この後の時代にも、宋書の478年の朝貢の記録から、次の遣隋使の600年、607年の記録まで、もう1つの空白の期間が訪れます。この2つの空白期間に何が起きたのかが、日本の古代史における重要な鍵となると思います。
□倭人は太伯の末裔なのか
『晋書』には、以下の記載がある。
『魏志倭人伝』にも、以下の記載がある。こちらには、太伯の話しは出てこない。(ここでは、ご参考まで、三国志の魏志倭人伝では、著者の陳寿が、魏の司馬懿に気を使って配慮して、倭人が魏の敵国呉の先祖(太伯)をルーツに持つ国であることを隠すため、あえて太伯を大夫に書き換えたという説もあることをお伝えしておきます。)
元々、大夫とは、中国の紀元前の周の時代から春秋戦国時代に使われた領地を持った貴族の身分を表す言葉であり、その単語が倭国にも伝わっていて、自分は倭の身分のある者だ、倭国の大臣だのような意味で名乗ったものだと思われる。
太伯とは、中国の周の始まりの時代、紀元前11世紀頃の実在した人物と考えられ、呉(中国の南部に位置した国)の始祖とされている。このため、元々倭人は中国人の子孫だという意味となる。この当時で千数百年以上も前の先祖の話しであるため、当時の倭人が、代々伝承して伝わって、そのように認識していた可能性はかなり低いと思う。中国側にとって倭人のルーツは、自分達側だという内容であるため、そのまま鵜呑みには出来ないケースだと思っている。
一方で、実際に、稲作発祥の地の温暖で水が多い湿地帯域である中国の南部から稲作が日本側に伝わったのは事実である。弥生人、弥生文化が、中国や朝鮮半島から日本にやってきている以上、太伯の子孫かどうかは別にして、このような中国側から移民してきた人々も現代の日本人のルーツの1つであることは間違い無いと思う。
1つだけ気になるのは、自ら末裔と名乗った所だ。周時代の大夫と自ら名乗ったことと合わせて考えると、中国側から氏素性が分からない野蛮人の扱いを受けたり、軽く扱われないようにとの思いからわざわざ名乗った可能性はあると思う。もしかしたら、当時の朝鮮半島の国々なども類似の作戦をとっていて、それを見聞きして真似したのかもしれない。由緒あるいにしえの国である周、儒教において理想とされる周の時代からのルーツであることを演出した可能性があるとは思っている。
もう1つありそうな可能性としては、倭人は自分達は大夫の位だと名乗っただけなのを、太伯と聞き間違えたや、通訳者の理解や訳が正しく伝わらず間違えて、太伯の末裔と理解されてしまっただけなのかもしれない。案外こういった単純なコミュニケーション齟齬による誤認識だった可能性も十分あると思う。
□晋への朝貢
倭の女王卑弥呼が宣帝(魏の司馬懿仲達)が公孫氏を滅ぼした後に朝貢(238年)してきたこと、その後も朝貢が途絶えることなく続いたこと、文帝(司馬昭)が魏の相国になると朝貢してきたこと、そして、晋の泰始元年(266年、司馬炎)に朝貢してきたことが書かれている。
倭から中国に絶えず朝貢してきているのがみてとれる。国が変わったときなど重要な節目に朝貢しているため、倭人は、当時でもかなり中国側の動向や情勢に明るかった。帯方郡経由での強い情報網を持っていたと考えている。
この266年の朝貢の後、朝貢した記録はしばらく途絶え、次に記録が残っているのは、413年になる。記録には残っていないものの、これだけ頻繁に中国に朝貢していた倭国が急に中国との国交を断つとは思えないため、この間もやりとりは続いていたと考えている。
□高句麗の好太王碑文(広開土王碑)にある倭人
高句麗の第19代の王の好太王(広開土王:領土を拡大した王の意味、実名の姓は高、諱は談徳)の業績を称えて、その死後に息子の第20代の長寿王(長生きした王の意味、姓は高、諱は巨連)が414年(甲寅年)に建てた石碑が現在の中国の吉林省にて発見されている。一般的に広開土(好太)王碑と呼ばれている。好太王は、374年の生まれで、在位は391年〜412年となっている。
なぜ突然に高句麗の石碑の話題になるかというと、この石碑にも当時の倭の活動が記録されているからだ。
(補足ですが、上記の訳は一般的な日本や中国(まさに漢文の源の国)などでの一般的な解釈であり、韓国や北朝鮮ではまた異なった解釈がされているようで、「高句麗が海を渡って倭を破った」のような全く異なる訳になっているようです。様々な解釈がある例として記載しておきます。)
この2文字が判別出来る状態だったら、何事もなく解釈され、異説も生まれにくいと思うが、こういう所が、まさに歴史はミステリーだと感じる。
そして、この碑文には他にも、以下のような記録がある。
このように、4世紀末〜5世紀には、倭は活発に朝鮮半島での活動、戦争を行っていた様子が書かれている。特に、高句麗や新羅との敵対関係がみて取れる。
この碑文は、高句麗の王の跡を継いだ息子が、亡くなったすぐ後に父親の偉大さ、功績を称えるためにわざわざ作成したもので、高句麗が倭に勝った内容でもあるため、功績や偉大さを大げさに表現している可能性は十分にあるが、書かれている事自体は実際に起きた事だと思う。多少の脚色は別として、ありもしない父親の功績をでっちあげたのでは、周りにも馬鹿にされるだけと思うからだ。事実、書かれている功績の通りで、この広開土王により、高句麗の国土が過去最大になり、高句麗の最盛期を迎かえている。
息子が父の偉大さを伝えるための碑文に、これ程の倭との戦いを記載するということは、それだけ当時の倭国が強い力を持ち高句麗にとっての脅威や災いとなる存在だったのではと思う。倭国がどうでも良い存在や小さな戦の出来事ならば、わざわざ文字数にも限りがある石碑の碑文には残さないと思う。また、もし倭の侵略行為など無かったのではと仮定すると、自国の領土の最大化というこれだけの分かりやすい功績のある前王の父親に対して、起きてもいないような倭国との出来事を功績としてでっち上げるようなケチをつける恥晒しな真似もしないと思う。
実は、日本側の資料でも『日本書紀』や『古事記』などに、有名な神功皇后(3世紀か4世紀か)の朝鮮半島への出兵による三韓征伐、新羅征伐などの朝鮮半島への出兵の記述がある。また、日本の勢力が及んでいる朝鮮半島の南端の任那(加羅)も登場する。
日本では、海外への侵略行為といえば、近代の第一次、第二次の世界大戦、当時の中国の明を征服するための豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜1598年)、古代の滅亡した百済の復興を助けるための白村江の戦い(663年)が非常に有名だと思う。実際に多くの日本人はこの3つ以外には海外への出兵は無いと思っていたり、あるいは、この他に神話上の作り話としての神功皇后の三韓征伐の話しがあるくらいだと思っていると思う。
しかしながら、歴史の事実としては、少なくともこの4世紀末、5世紀初めには(古くは紀元前後あたりから)、おそらく朝鮮半島での支配力や影響力の及ぶ地域や国の拡大、あるいは同盟関係国や倭国に属する領土の拡大のために、当時の倭国から朝鮮半島に出兵していた記録が残っている。
□日本にある七支刀の銘文
奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣「七支刀」にも、百済との繋がりを示す碑文がある。
百済の王が倭の王へ送った鉄剣というのが、一般的な解釈で、年代については、肝心な年号の一字が読めないため、3世紀後半から5世紀後半までの様々な解釈がある。実は日本書紀にも「ななつさやのたち」というこの刀と思われる記載があり、「百済と倭国の同盟を記念し、神宮皇后へ「七子鏡」と「七枝刀」が献上された(推定372年頃)」という記述がある。このため、現在の日本の一般的な通説は、近い年号となる太和四年(泰和四年)の369年になっている。
当時の倭は古くから百済と仲が良く、友好関係や、同盟関係にあったと考えられる。空白のなどと呼ばれるようないにしえの時代でも、当時の日本人が朝鮮半島との交流を持ち、密接な関係を築いていたことが分かる。
これは当たっているか分からないが、年代については、奈良に由来する鉄剣となっているため、268年の年代では無いと思う。268年なら、倭国が北部九州にある時代だと思っているため、剣が見つかる場所は北部九州の倭国になるはずだ。渡航のための最重要拠点である壱岐、対馬、九州北部を倭国が抑えている以上、他国はよほどの事が起きない限り行けないはずだ。369年は、泰の字を、ふといの意味がある字だからと、太に変えており、いかにも、日本書紀で記載されていた時期に合わせて後付して解釈した気がしてしまう。そのため、鉄剣の碑文が読めるほど状態が良い事もあわせて、そんなに古い時代ではなく比較的に新しい時代の中国の泰始四年の468年か、実際は制作したときの百済の独自年号のため今では判別不能が一番自然な解釈だと思っている。また百済の滅亡は660年なので、これより前の時代に造られたのは確実である。
□倭国に思うこと
このように、当時の倭国の記録を見ると、近隣諸国の動向を把握しながら、非常に積極的に諸外国へ関与する行動を起こし、したたかな外交を行っている様がみてとれる。
何かの節目には朝貢し、遠くの大国の中華には臣下として接して自国の安泰を図りつつ、近くの朝鮮半島には進出して、味方となる百済との友好関係や足場を築きながら、敵対する高句麗や新羅との戦いを行っている。現代とは比べれないほどの外交へのタフさや素早さを感じる。そして、高句麗にはおよばなかったものの、そこへ進軍出来るほどの力を持っていた国であり、百済が頼るほどの、新羅が高句麗に助けを求めるほどの強国だった事が分かる。
おそらく、九州北部の倭国だったからこそ、隣国の朝鮮半島へこまめに行き来して、強いパイプを作れたり、情報を得たりする事が出来たと思う。朝鮮半島と日本の地図を見れば一目瞭然だか、対馬から韓国と対馬から九州では、対馬から韓国の方が近く、九州から韓国と大阪に行くのでは、九州から韓国の方が何倍も近い。物理的な移動の距離が近いからこそ素早く動け、新しい情報をすぐに得る事が出来たと思う。そして、古くから新しい技術や文化は常にこの大陸の中国や朝鮮半島からやってくる。中には、大陸側から移民して帰化した人達もいて、海の向こう側が自分達の先祖の地だった一族も多くいたと思う。だからこそ常に中国や朝鮮半島への意識しての関心であり関与だったと思う。
■次回は、宋書の倭の5王と朝鮮半島への関与について
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