謎の古墳時代を読み解く その5 隋書の倭国 後編 中国からの使者
ここでも前回に引き続き、隋書の倭国について考察します。7世紀初め頃の時代です。
前回の隋書の倭国の前編はこちらです。
□冠位十二階の制度の導入と謎
『隋書倭国伝』には、いわゆる「冠位十二階」の制度の記述がある。日本史では、聖徳太子が導入した制度で、603年に制定とされ、605から648年まで行われたとされている。原文では以下の内容だ。
「内官有十二等」というのが、倭国内には官位があり12等級に分かれているという意味で、いわゆる「冠位十二階」の制度となる。
参考までに、『隋書倭国伝』の文中でこの冠位十二階についての記載がされた文章の位置に触れておく。600年の遣隋使の記載がされた直後に書かれていて、607年の遣隋使の記載がされている箇所よりもかなり前の位置である。仮に、この600年の遣隋使が来たときに聞いて知った話を、その流れで書いていた文章の場合には、600年より前に導入されている事になり日本史とは異なることになる。
そして、隋代になって、倭国王は初めて冠の制度を定めたという記載もある。冠は、錦や模様のある布で作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしていたようだ。これを信じるとすれば、随は581年から618年の国のため、少なくともこの間に制定されたことになる。隋書の記載のされ方では、581年以降で、600年の遣隋使が来たときに既に制定されていたとしてもおかしくはない。
また、『日本書紀』では、冠位十二階は「徳、仁、礼、信、義、智」の順番で記載されており、『隋書』とは順番が異なる。実は、中国の儒教の世界では、「五徳や五常(仁、義、礼、智、信)」と呼ばれる5つの重要視する特性があり、この順番で重要性も表している。まさに『隋書』に書かれている内容の順番と同じだ。この冠位十二階は、日本が儒教の影響を受けた中国の制度を真似して導入したと考えられる。つまり、『隋書』の記載内容こそが本来の正しい順番だったと思う。ではなぜ、この制度を導入していた日本の記録が本来の正しい順番ではないのか不思議だ。この謎にも意味のある理由があると思う。
可能性としては、以下の4つが思いつく。
①日本人が自分たちの価値感に合わせて、日本風へのアレンジを行って取り入れた。
中国の儒教での順番は分かっていたが、当時の日本人にとっては、重要な価値基準の優先順位が異なっていたため、日本への導入時に自分たちの考えたに合うように順番を変えて、日本の制度として策定した。
→これは、そうだとしても全く不思議はない。まさに日本人がやりそうなという気がする。我々日本人の最も得意とするところだと思う。この際の判断ポイントは、その変更された順番が、いかにも日本人の価値基準にマッチしたものに変更されているのか、どうか次第だと思う。
そして、ここはあくまでも個人的な見解だが、『日本書紀』の「徳、仁、礼、信、義、智」と、『隋書』の「徳、仁、義、礼、智、信」で、古代日本人にはどちらが価値観として合うのかを考えた場合、義と智の価値観は高いのではと思うため、それが最後に並ぶ『日本書紀』よりも、むしろ『隋書』の方が日本人の価値観にあっている気がしている。もちろん、ここは感覚だから、人によって違うと思うし、正解かどうかは分からない。
②中国人が自分たちの儒教の知識、価値感に合わせて修正して記載した
中国人は、日本人の説明を聞いたが、日本人が伝えた順番が自分たちの儒教の順番とは間違っていたので、日本人の説明の方が間違いだと思い込み、自分達の儒教として正しい順番に直して記録した。
→この可能性も十分ある思う。中国人からしたら、日本で導入した制度の話を聞いて、倭国も五徳の思想を導入したのかとすぐに分かるはずであり、日本人が間違えていると思ったり、自分達の頭にある順番に変換して書くのも自然だと思う。
ただし、この場合だとやはり、その元の順番(つまり、日本書紀の順番)がやはり日本人の価値観にピッタリではないとおかしいと思うため、今回のケースでは違うのではないかと思っている。
③『日本書紀』を書いた人達が、実は冠位十二階の正しい制度を知らなかった。
この場合には、さらに以下の2つの理由の可能性があると思う。
③−1 時間経過により分からなくなり、知らなかった
冠位十二階が導入されていたときと、日本書紀の記載のときには、約半世紀ほどの時代のズレがある。既に648年には終了していたから当時の制度の内容が正しく伝わっていなかった。
→この可能性はかなり低いと思う。というのも、この時代には既に文字があるし、記録をみればすぐ分かる話である。大化の改新/乙巳の変の後に、648年に七色十三階冠の制度に改定されたとはいえ、当時の一流の知識人、歴史を知っている人達が編纂している『日本書紀』を書いた人たちが、この聖徳太子が策定した有名な冠位十二階を調べなかったり、知らなかったとはとても思えない。
③−2 『日本書紀』を編纂した人の国の制度では無いから、詳しく知らなかった
制度を考え導入されていた人達の国(つまり、九州倭国連合)と、『日本書紀』を書いた人達の国(つまり、畿内ヤマト政権勢力)が異なっていた。記録した人たちにとっては、他国(倭の別種、九州倭国連合)での出来事だったため、伝え聞くほどの有名な制度だったが、正確には知らなかった。あるいは、本当は知ってはいたが、そのまま自分達の国の出来事のように記載にするには忍びなかったか、あまりにも図々しいし、わざとらしかったため、若干順番を入れ替える修正を行い、自分たちの国もそうだったという感じを出すことにした。
→通説とは全く異なるが、論理的な可能性としては、十分あり得ると思う。突拍子もないと思われると思うが、この考え方ならば、実は、これまでこの連載で読み解いてきた時代の流れの考察結果とも整合性が合うのである。(もしかすると、単なる妄想やこじつけなのかもしれないわけであり、もちろん、ご判断は読者の皆様にお任せしたい。)
④単に、『日本書紀』の編纂者達が、順番を書き間違えたか、後の人たちが写本する複写のときに、書き間違えてしまった。
→これを例えるならば、太政大臣、左大臣、右大臣、中納言などの官位を表す順番を間違えて記載したということになり、位を表す制度である以上、最も肝心要な順番であり、まさか、ここを間違うとは思えない。
以上のように読み解いてみた。
もちろん、いまとなっては真相は分からないわけだが、私は、③−2の可能性が高い、あるいは①や②だと思っている。
□古代人ならではの文化
話を『随所倭国伝』の内容に戻すと、このような律令制の制度を導入した話は、現代人でも論理的に理解出来る内容だと思う。一方で、古代人ならではと思う内容も記載されている。
上記のような内容は、現代人からすると、基本的人権もなく、何の論理的根拠も無く、とても理不尽な話だと思う。しかし、忘れないようにすべきは、この当時の歴史、人々を考察するのならば、このような当時の古代人の感覚も合わせて考えていかないと、間違った解釈をしてしまうという事だ。
もはや、訴訟問題となった場合には、仮に無実であったとしても、有罪になる可能性が極めて高い。現在日本人が争い事を極端に嫌う、訴訟自体を全く好まないのは、概ね同一民族、同一言語、集団社会で生きる農耕民族、和を持って尊しとなる日本人の価値観、大前提の判断基準となるような日本人ならではの常識というものがある等が大きな理由だと思っている。もしかすると、このような古代人が持っていた文化風習が、この日本人ならではの感覚の初期の成立過程で大きく影響しているのかもしれない。
やはり、巫女の重要性が際立っている。巫女の言葉とは、いわゆる神降ろしや、神託や、巫女による占いなどだと思う。現代の日本ならばイタコ(口寄せを行う巫女)などが一番イメージに近い。いずれにせよ、『魏志倭人伝』にも登場していて、普段の日常からかなり頻繁に用いられ信用されていた占いよりも、巫女の方がさらに上ということで、それだけ、神の力が大きい、巫女が特別重要な存在だと分かる。困ったときの神頼みは、古代から変わらないわけだ。
□隋書に記載されている気になる内容
『随書倭国伝』には、以下のような記載もある。
『隋書』も前半の冒頭部分において『魏志倭人伝』を参考や引用している。そして『魏志倭人伝』での「邪馬壱国」が、この『隋書倭国伝』では、「邪馬台」となっている。またその都が、「邪靡堆」となっている。
隋からの使者もこの地に行き、倭王に会ったのだろうか。それとも伝聞とは異なる違う名前の地に迎えられたのだろうか。太古へのロマンを感じる。
なお、仮に都が邪靡堆で、仮にこれをヤマトと呼んでいたとしても、「ヤマト=飛鳥(畿内)」とはなりません。例えば、福岡県にも邪馬台国の比定地候補となっていて有名な山門(ヤマト)郡がありましたし、ヤマトという地名(人名も)自体は、日本全国に複数ある名前だからです。
※過去の邪馬壱国と邪馬台国についての記載は以下です。
魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その5 邪馬壱国と邪馬台国論争
※過去のヤマトについての記載は以下です。
魏志倭人伝から邪馬台国を読み説く その19 神武東遷の意味と大和
死者を弔うお墓について、『隋書倭国伝』には、「棺と槨がある」と書かれている。『魏志倭人伝』では「有棺無槨(棺があり槨はなし)」と書かれていた。槨とは、棺を囲う外壁、つまり石室等の事だ。
三世紀頃以前のお墓には石室が無く、六〜七世紀頃のお墓には石室がある古墳の特徴がある地方はどこかというと、実はそれは、まさに九州の古墳や遺跡と特徴と一致している。(畿内は石室がある古墳が一般的です。)
※お墓の情報を記載している過去の作品のリンクは以下です。
魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その15 邪馬台国が九州内にあった根拠
この時代には、既に仏教が普及していることや、文字が伝わっている事が分かる。
中国人や朝鮮半島の人々とも、全て通訳に頼らなくても、ある程度は、漢字による筆談でのコミュニケーションも出来るようになってきた時代なのだと思う。
ただし、前連載でも触れたように、北部九州の弥生時代の遺跡では硯の出土品も発見されている。古くから文字は伝わっており、仏教(経典等)をきっかけにそれがさらにどんどん広がっていると捉えたい。
この時代から、こういった遊び、ボードゲームや賭け事があるのかと感慨深く、取り上げてみた。日本人は、昔からこのような遊びが好きなのだ。(実は私が将棋が好きだから特に気になったのだが、今のところ将棋は奈良時代か平安時代以降と考えられている。)
鵜を用いた伝統漁法も、既にこの時代から存在しているのは感慨深い。現在日本では、長良川(岐阜県関市)、肱川(愛媛県大洲市)、三隅川(大分県日田市)が、日本三大鵜飼の地となっている。鵜飼は少なくとも1300年以上前から日本で行われている漁法で、『古事記』や『日本書紀』などにも記載がある。九州では筑後川(福岡県朝倉市辺り、邪馬台国の比定地候補にもなっている地域)の鵜飼いが古くから行われていた記録(712年頃)もあるため、私は、ここに記載されているのは、この筑後川の鵜飼だろうと考えている。
ここから、当時の新羅と百済と倭国の関係性が分かる。倭の方が上位にあり、つまり国力があり、軍事的に強かったのである。新羅や百済は倭国にも中国への朝貢のような形で、常に倭国にも使者を送り、倭国の機嫌取りや貿易による実利益を得ていたと思う。
倭国も、この時代も相変わらずに、朝鮮半島や中国大陸の情報を得ており、積極的に外交や交流を行っていた。朝鮮半島への影響力を持ち続けていたという事が推測出来る。
□阿蘇山の登場!
隋書には、以下の記載がある。
ここで「阿蘇山」が突然登場する。そして、随書に出てくる山(海も川も湖も含めても)は、この阿蘇山だけである。
なぜ阿蘇山だけが登場するのかは、それだけ、阿蘇山が当時の倭国にとって、身近でもあり、有名な存在だったからだと思う。また、中国から来た使者にとっては、実際に見聞きした場合、活火山で噴煙もあがり、広いカルデラで、周辺にも高い山々がありで、神秘的で特徴的な存在だったからだと思う。
ここで強調しておきたいのは、阿蘇山は九州のほぼ中央部分にある山であり、決して、海側の福岡市や北九州市からでは、見れないし、感じれない山だということだ。中国からの使者が、船や陸路で海岸線の九州や山口を通過して、機内の飛鳥地方に向かったとした場合には、決して登場しない位置にある山だ。
もし、畿内ならば、それこそ、大きな島として淡路島や、大きな湖として琵琶湖が登場してもおかしくは無いと思う。日本を代表する山ならば、日本一の高く美しい山として富士山が登場してもおかしくはないはずだ。そもそも、畿内の人たちが、普段から阿蘇山を意識して暮らしているだろうか。もちろん、そんなわけはなく、畿内の国々に暮らす人が、阿蘇山のことで祈祷や祭祀を行うわけはない。
しかし、現実には、阿蘇山だけが登場している。つまり、九州の北部から内部に倭国があった。そこの人々の話を聞いた。または、中国の使者は、九州の内部にやって来た。と捉える方のが、一番理にかなった自然な解釈となる。畿内の倭国王に会いに行くには、九州内部の福岡や熊本に行く必要は全く無いからだ。
逆もまた同じであり、九州の人々にとっては、九重や阿蘇や霧島や桜島や英彦山などを始めとする九州の山々こそが身近な存在の山々であり、普段の日常生活において、本州にある山々(富士山でさえ)を意識することは全く無いのである。
※阿蘇山について記載した過去の連載は以下です。
□607年の2回目の遣隋使
いよいよ隋書にある2回目の遣隋使の記載部分を考察する。『日本書紀』では、これが、聖徳太子が小野妹子を送ったとされる1回目の遣隋使になる。原文だと以下となる。
この使者も、600年の遣隋使と同じく倭国の王である「多利思北孤(タリシヒコ)」が送った使者である。性別または名前が異なるため、日本史ではこの時代にはいるはずの推古天皇でもなければ、聖徳太子でも無い人物名だ。
訳すと以下のような内容だ。
古代日本人に一貫してあるのは、この学びの姿勢だと思う。仏教を学問を制度など、進んだ文明や文化や技術を少しでも学ぼう、吸収しようとするモチベーションは凄いと思う。ご先祖様達の子孫として見習わなければならいし、後世に繋げなければならない日本人の長所だと思う。
ここで皇帝が不機嫌になり怒った理由は、蛮夷が天子を名乗ったからだと考えられている。天子は、天下に1人だけであり、それは中国皇帝である自分だけだと。それを蛮族の王が天子が語るなど、決して許されない。自分と同等の存在などあり得ないと考えられていたばずだ。日本は日が昇る国で、中国は沈む国と書かれ、あたかも中国が下の存在ように書かれたことに怒ったという解釈もある。ここは、方位を表すための枕詞のような慣用表現であり、ここに怒ったわけではないという解釈もある。
大変惜しいと思うのは、このときの倭国からの国書の内容が記録されていない事だ。もし、この内容が分かれば、当時の倭国の考えや目指していたこと、中国に求めていた事などが分かったかもしれず、かなりの事実が明らかになるのになと思う。本当に古代史は測ったかのように謎が謎を生むように良く出来ていると思う。だからこそ面白いのだ。
なお、『日本書紀』では、このときに、小野妹子が中国から持たされた返答の国書を百済に立ち寄った際に紛失した事が書かれています。返答の中国からの国書を紛失という使者としての最大級の過失を犯したにも関わらず、帰国後にお咎め無しという不自然さがあり、日本史における謎の1つになっています。
□中国からの使者がやって来た
いよいよ『隋書』の最後の謎である。以下の記載がある。
(いきなり竹島が登場しますが、これは、いわゆる現在の日韓の竹島問題とは違う場所です。対馬に行くのに日本海の遥か先の沖の島にまで行く必要は無いからです。おそらく朝鮮半島の南端の陸地の岬または、周辺に浮かぶ島々だったと思います。)
せっかく使者が倭国に来ているわけだか、『魏志倭人伝』のときと同様に、あいも変わらず、どういう行程で何処に辿り着いたのか結局不明のままだ。(邪馬台国のときの行程については、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その9 邪馬台国への道のりを参照)
まず最初の謎は、中国人と同じで、夷州(通常ならば台湾)だと思うが分からないと書かれた秦王国(シンオウ国)だ。この当時の倭人は、何より全身に入れ墨があり、髪型も服装も中国とは異なり、当然言葉も違う。中国人とは全く異なるため、同じ中国人が間違うわけもない。なんといっても、裴世清達随使の一行は、倭国に実際に来ているのだ。
考えられるのは、筑紫から東に向かってすぐのようなので、北部九州に主に渡来人達の子孫が集まって住む国(今だと村の規模)があり、同郷の人達がいるのでと気を効かせて倭人がわざわざ見せたのかもしれない。もしかしたら、後から中国側に攻めて来られないように、倭国の位置を分からなくするために、本当に夷州(台湾)や、朝鮮半島の近くの島等に一度船で連れて行ったのかもと思ったが、そのような旅の道のりは書かれておらず、さすがにそれは無いだろと思う。そう考えると、倭国王に認められて倭国連合内の地域で、中国から渡来して日本に帰化した秦氏(はた氏)が王として統治していた国だと考えるのが、一番自然な解釈なのではないかと思う。
北部九州では、博多湾から洞海湾の北九州市方向に向かい北上した福岡県古賀市、福津市、宗像市などの海岸沿いの平地地域からは、4世紀から6世紀にかけて、オンドル住居、カマド住居、大陸や半島系の土器等の渡来人が生活していた特徴を持つ新原・奴山古墳群、須多田古墳群、在自遺跡群など多数の古墳や遺跡が存在している。まさに、この辺りは、かつては「唐坊地(とうぼうち)」(中国人が住む地域)と呼ばれていた地域であり、古くから大陸からの渡来人/帰化人が生活していた事が伺える。このように、当時の秦王国も、まさにこの福岡県古賀市や福津市辺りにあった国のことではないだろうか。あるいは、「ここが夷州(台湾)だと思う」と書かれているので、例えば、秦氏の拠点として当時にあった北部九州の他の秦(はた)氏の拠点地域まで、少し船で遠出して連れていったのかもしれない。
私が気になったのは「筑紫国から東の諸国は皆倭国に属する」という記載だ。これは筑紫を中心に考え、起点に見立てた表現のされ方である。裴世清一行は、当時の倭国の都、倭国王の多利思北孤に接見に来たわけである。もしその都が畿内の飛鳥地方ならば、「この倭国の都の飛鳥から西は全て倭国に属している」や、「筑紫からこの飛鳥の都までは、全て倭国に属している」とかの表現をしないだろうか。実は、『隋書』には、この後に、倭国の都で王に会ったという記載はあるものの、残念ながら都や都のある国名は登場しない。
しかし、実は、筑紫国が今の福岡県やあるいは九州を指し示す広い範囲の言葉でもあり、通過した国はその中にある倭国連合の国々を示すのならば、この筑紫を中心にした表現にも違和感が無くなる。また、都の国の名前が登場しない不自然さも無くなる。もしそうならば、既にちゃんと登場していたのだと思う。
次に、小徳の阿輩臺(アワタイ)だ。邪馬台国のときと同じく、漢字的には、臺は、現在の常用漢字だと、台となる。つまり、小徳の阿輩台(アワタイ)だ。『隋書倭国伝』で、王の号が、阿輩雞彌(アワケミ)と書かれていて、これは、大君(オオキミ)の音だと思われることから、もしかしたら、オオタイ(阿輩台)という音だったのかもしれない。小徳というのは、先ほどの冠位十二階の上から二番目の高い位にある人物となる。例えると、今だと大臣クラスではなく、副大臣クラスが迎えたという感じだろうか。あるいは、総理大臣ではなく、外務大臣あたりが出迎えた形だろうか。
読み方としては、ショウトクアワタイと読むと、「聖徳太子」をなんとなく連想する人もいるのではないかと思う。しかし、聖徳太子は、実在した人物だった場合には、皇太子であり、十二階の位を超えた王族、皇族の立場のため、それに仕える立場の冠位を持つ役人ではないため、これは明らかに聖徳太子のことではない。そもそも聖徳太子は、死後に贈られた諡号のため、生前に用いていた名前ではない。
最後の大きなポイントは、武装した兵隊で出迎えた事だ。単に盛大に出迎えて歓迎するならば、武装した軍隊ではなく、多数の文官や武装してない武官でも良いはずだ。迎えられる使者としても、威圧され、もし倭王を怒らせたら、自分達は生きて中国には戻れないと、怯えたり、萎縮したのではないか。
あえて武装した軍隊で出迎えた意図は、倭国には精強な軍隊があることを、中国側に見せつけたかったのだと思う。そして、これまでの本連載で読み解いて来たように、実際に6世紀までの倭国は、朝鮮半島にも支配域を保持し、海を渡って出兵し、高句麗や新羅等の領地に自ら攻め込み激しい戦を繰り返してきた国だ。新羅や百済は倭国は強い、大国だと思うからこそ、毎年のように使者を送ってきているわけだ。そんな軍隊に囲まれて、きっと裴世清は生きた心地がしなかったのではないか。少なくとも、倭国は決して侮れないと感じたはずた。
□髄による琉球国への侵略戦争
『隋書』の中には、『倭国伝』とは別に『琉球国伝』がある。琉球について書かれた記録だ。中国の史書に「琉球国(通常ならば沖縄)」が登場したのは、隋書が初めてだと思う。以下のような記載がある。
当初は、この琉球が沖縄のことだと考えられていた。しかし、現在の主流な解釈は、水行5日では、沖縄まで来れない。特徴的に今の台湾の事であり、当時は、台湾、沖縄諸島を指して、琉球と呼んでいたのではと考えれているようだ。もちろん、今でも沖縄のことだと考える説も残っている。
当然、こんな酷いことをすれば、その後、その国との往来が無くなるのは、当たり前だ。
なぜ、ここで『琉球国伝』について書いたのかというと、ここで言いたいのは、隋は中国の南北朝時代を終わらせた強い軍事力を持つ国であり、中国大陸の統一国家であり大国であり、十分に好戦的な国だという事だ。実際に、『隋書東夷伝』の中では、他にも高句麗にも進軍して侵略戦争を行っており、度々降伏させた記録が記載されている。
倭国は、自ら天子を名乗る無礼な国書で、既に髄の皇帝を一度怒らせている。倭国も、一歩間違えば、この琉球国や高句麗のように、攻めて来られたかもしれない。
私は、中国皇帝が倭国にわざわざ使者を送ったのは、一番の目的は倭国の値踏み、見極めに他ならないと思っている。中国皇帝に対して無礼な国書を送った蛮族の国、王を見に来たのだ。つまり、倭国は簡単に倒せそうか、侵略出来そうな国なのか、どのくらい中国から遠いのか、大きな国なのか、小さな国なのか、攻める価値はあるのか、あるいは、倭国は中国に素直におとなしく従う国なのか、そういった判断のための視察だったと思っている。
□倭王と使者の会見
さて、いよいよ隋書の最後のクライマックスだ。
琉球国同様に、結局は、その後の往来は無くなっている。倭国は中国使者を歓迎したはずなのだが、結果的には、戦争行為をした琉球国と同じだ。
まず皆様はこのやりとりをどう感じるだろうか。私は、結果が全てを物語っていると思うので、この外交は、結局、双方上辺だけの形式外交で終わり、お互いの親交や外交を深めることは出来なかったのだと思っている。
また、中国側からすれば、倭国に侵攻は出来無い、あるいは、攻める価値が無いと判断し、倭国側からすれば、天子と天子の対等関係は無理と判断し、天子と王での主従関係を維持したとも言えると思う。どちらも妥協や我慢したような印象だ。倭王としては、一貫して中国を上に持ち上げて、謙遜し、低姿勢で接している。
裴世清一行も、長旅の結果、10日も都の外で待たされて、やっと倭国王に会い、都での滞在する館に案内されたにも関わらず、直ぐに帰国したいと言うのは、相当に不安、不快、不満等の強い気持ちがあったのだと思う。個人的には、倭国の軍隊への恐れや怯えもあったと思う。倭王やその部下達の気が変われば、自分の首が飛ぶかもしれないのだ。本来ならば、王との接見で役目を果たした後は、リラックスモードとなり、倭国の手厚いもてなしなどを受け、都見物や珍しい食事やお酒など、楽しい滞在の時間になるはずだ。今後への人脈も作れるし、貿易の話での商談による儲け話も出来る。そうではないところに、少しでも早く帰りたいという強い気持ちが伝わってくる。
倭国としては、隋の皇帝に無礼な国書を送って不快にさせたにも関わらず、実質的なお咎めはなく、中国に攻めて来られもせずに、倭国としての独立性を維持出来たので、良かったのだと思う。ただし、倭国としては、中国からの最新の文化や技術を学ぶ機会が無くなったわけなので、倭国側にはこの大きなマイナスはあると思う。
もはやあえて書くまでも無いと思うが、隋の使者が実際に会った当時の倭王は、アマタリシヒコ(阿毎多利思北孤)であり、つまり男王であり、推古天皇、女性では無かったことになる。
そして、実は、ここで最後の新たな謎が生まれている。なんと、『日本書紀』では、610年、614年にも遣隋使が隋に朝貢した記録が記載されているのだ。その相手側の中国は、609年に往来が途絶えたと明記している。
なぜこのような違いがあるのか。この点については中国側に嘘をつくメリットは無いため、中国側の記録の方が信憑性が高く『日本書紀』が嘘を書いているという見方が多いようだ(私もそう思う)。この謎については、また、別の機会にゆっくりと考察したいと考えている。
■次回は、旧唐書の倭国 倭国最後の遣唐使について
最後までお読み頂きありがとうございます。😊