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謎の古墳時代を読み解く その5 隋書の倭国 後編 中国からの使者

 ここでも前回に引き続き、隋書の倭国について考察します。7世紀初め頃の時代です。

前回の隋書の倭国の前編はこちらです。

□冠位十二階の制度の導入と謎

 『隋書倭国伝』には、いわゆる「冠位十二階」の制度の記述がある。日本史では、聖徳太子が導入した制度で、603年に制定とされ、605から648年まで行われたとされている。原文では以下の内容だ。

内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數

 「内官有十二等」というのが、倭国内には官位があり12等級に分かれているという意味で、いわゆる「冠位十二階」の制度となる。

 参考までに、『隋書倭国伝』の文中でこの冠位十二階についての記載がされた文章の位置に触れておく。600年の遣隋使の記載がされた直後に書かれていて、607年の遣隋使の記載がされている箇所よりもかなり前の位置である。仮に、この600年の遣隋使が来たときに聞いて知った話を、その流れで書いていた文章の場合には、600年より前に導入されている事になり日本史とは異なることになる。

至隋 其王始制冠 以錦綵為之 以金銀鏤花為飾

 そして、隋代になって、倭国王は初めて冠の制度を定めたという記載もある。冠は、錦や模様のある布で作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしていたようだ。これを信じるとすれば、随は581年から618年の国のため、少なくともこの間に制定されたことになる。隋書の記載のされ方では、581年以降で、600年の遣隋使が来たときに既に制定されていたとしてもおかしくはない。

 また、『日本書紀』では、冠位十二階は「徳、仁、礼、信、義、智」の順番で記載されており、『隋書』とは順番が異なる。実は、中国の儒教の世界では、「五徳や五常(仁、義、礼、智、信)」と呼ばれる5つの重要視する特性があり、この順番で重要性も表している。まさに『隋書』に書かれている内容の順番と同じだ。この冠位十二階は、日本が儒教の影響を受けた中国の制度を真似して導入したと考えられる。つまり、『隋書』の記載内容こそが本来の正しい順番だったと思う。ではなぜ、この制度を導入していた日本の記録が本来の正しい順番ではないのか不思議だ。この謎にも意味のある理由があると思う。

五徳(五常)とは
 仁 人を思いやる心、人を愛すること
 義 なすべきことをすること、正義
 礼 守るべきこと、仁の具体的な行動
 智 道理を知る人、知識豊富な人
 信 友情に厚い人、真実を告げる、誠実

 可能性としては、以下の4つが思いつく。

①日本人が自分たちの価値感に合わせて、日本風へのアレンジを行って取り入れた。
 中国の儒教での順番は分かっていたが、当時の日本人にとっては、重要な価値基準の優先順位が異なっていたため、日本への導入時に自分たちの考えたに合うように順番を変えて、日本の制度として策定した。

→これは、そうだとしても全く不思議はない。まさに日本人がやりそうなという気がする。我々日本人の最も得意とするところだと思う。この際の判断ポイントは、その変更された順番が、いかにも日本人の価値基準にマッチしたものに変更されているのか、どうか次第だと思う。

 そして、ここはあくまでも個人的な見解だが、『日本書紀』の「徳、仁、礼、信、義、智」と、『隋書』の「徳、仁、義、礼、智、信」で、古代日本人にはどちらが価値観として合うのかを考えた場合、義と智の価値観は高いのではと思うため、それが最後に並ぶ『日本書紀』よりも、むしろ『隋書』の方が日本人の価値観にあっている気がしている。もちろん、ここは感覚だから、人によって違うと思うし、正解かどうかは分からない。

②中国人が自分たちの儒教の知識、価値感に合わせて修正して記載した
 中国人は、日本人の説明を聞いたが、日本人が伝えた順番が自分たちの儒教の順番とは間違っていたので、日本人の説明の方が間違いだと思い込み、自分達の儒教として正しい順番に直して記録した。

→この可能性も十分ある思う。中国人からしたら、日本で導入した制度の話を聞いて、倭国も五徳の思想を導入したのかとすぐに分かるはずであり、日本人が間違えていると思ったり、自分達の頭にある順番に変換して書くのも自然だと思う。

 ただし、この場合だとやはり、その元の順番(つまり、日本書紀の順番)がやはり日本人の価値観にピッタリではないとおかしいと思うため、今回のケースでは違うのではないかと思っている。

③『日本書紀』を書いた人達が、実は冠位十二階の正しい制度を知らなかった。
 この場合には、さらに以下の2つの理由の可能性があると思う。

 ③−1 時間経過により分からなくなり、知らなかった
 冠位十二階が導入されていたときと、日本書紀の記載のときには、約半世紀ほどの時代のズレがある。既に648年には終了していたから当時の制度の内容が正しく伝わっていなかった。

→この可能性はかなり低いと思う。というのも、この時代には既に文字があるし、記録をみればすぐ分かる話である。大化の改新/乙巳の変の後に、648年に七色十三階冠の制度に改定されたとはいえ、当時の一流の知識人、歴史を知っている人達が編纂している『日本書紀』を書いた人たちが、この聖徳太子が策定した有名な冠位十二階を調べなかったり、知らなかったとはとても思えない。

 ③−2 『日本書紀』を編纂した人の国の制度では無いから、詳しく知らなかった
 制度を考え導入されていた人達の国(つまり、九州倭国連合)と、『日本書紀』を書いた人達の国(つまり、畿内ヤマト政権勢力)が異なっていた。記録した人たちにとっては、他国(倭の別種、九州倭国連合)での出来事だったため、伝え聞くほどの有名な制度だったが、正確には知らなかった。あるいは、本当は知ってはいたが、そのまま自分達の国の出来事のように記載にするには忍びなかったか、あまりにも図々しいし、わざとらしかったため、若干順番を入れ替える修正を行い、自分たちの国もそうだったという感じを出すことにした。

→通説とは全く異なるが、論理的な可能性としては、十分あり得ると思う。突拍子もないと思われると思うが、この考え方ならば、実は、これまでこの連載で読み解いてきた時代の流れの考察結果とも整合性が合うのである。(もしかすると、単なる妄想やこじつけなのかもしれないわけであり、もちろん、ご判断は読者の皆様にお任せしたい。)

④単に、『日本書紀』の編纂者達が、順番を書き間違えたか、後の人たちが写本する複写のときに、書き間違えてしまった。

→これを例えるならば、太政大臣、左大臣、右大臣、中納言などの官位を表す順番を間違えて記載したということになり、位を表す制度である以上、最も肝心要な順番であり、まさか、ここを間違うとは思えない。

 以上のように読み解いてみた。

 もちろん、いまとなっては真相は分からないわけだが、私は、③−2の可能性が高い、あるいは①や②だと思っている。

□古代人ならではの文化

 話を『随所倭国伝』の内容に戻すと、このような律令制の制度を導入した話は、現代人でも論理的に理解出来る内容だと思う。一方で、古代人ならではと思う内容も記載されている

 訴訟の際には尋問追求し、罪を認めようとしない者に対しては、木で膝を抑えつけたり、強弓でうなじをゴシゴシ引いて拷問する。

 争いしている者達に沸騰した湯の中に小石を置き取らせる。道理の通らない者はたちまち火傷をして手がただれるのだという。あるいは、瓶の中に手を入れ蛇を取らせる。不正な者は手をかまれるのだという。

 占易を知っているが、巫女の言葉を最も信じる。

 上記のような内容は、現代人からすると、基本的人権もなく、何の論理的根拠も無く、とても理不尽な話だと思う。しかし、忘れないようにすべきは、この当時の歴史、人々を考察するのならば、このような当時の古代人の感覚も合わせて考えていかないと、間違った解釈をしてしまうという事だ。

 もはや、訴訟問題となった場合には、仮に無実であったとしても、有罪になる可能性が極めて高い。現在日本人が争い事を極端に嫌う、訴訟自体を全く好まないのは、概ね同一民族、同一言語、集団社会で生きる農耕民族、和を持って尊しとなる日本人の価値観、大前提の判断基準となるような日本人ならではの常識というものがある等が大きな理由だと思っている。もしかすると、このような古代人が持っていた文化風習が、この日本人ならではの感覚の初期の成立過程で大きく影響しているのかもしれない。

 全くの余談ですが、私は、世界(特に複数の異民族がいる国や複数の宗教が多数で信仰されている国などで構成された多様性の高い国)の感覚では訴訟は特にそれ自体が大問題とは捉えられておらず、客観的に問題の白黒の決着をつけるための手段、司法の判断に委ねるための手続き等という感覚になると思っています。そして、訴訟に負けたとき、初めて問題だったと捉えるのだと思います。お互いが自己主張し合う文化(いうべきことをはっきりと言う文化)と、空気を読み合う文化(推し量り忖度する文化)の違いとも言えると思います。

 これは、お互いの人種、言語、文化、宗教、価値基準などのアイデンティティーが大きく異なるため、共通の一般常識という概念や判断基準が異なり、それぞれの考え方、捉え方、言い分のどちらが正しいのかは、結局は、現在のルールとなる司法の専門家に委ねないと、白黒の決着が出来ないと分かっているからだと思っています。

 やはり、巫女の重要性が際立っている。巫女の言葉とは、いわゆる神降ろしや、神託や、巫女による占いなどだと思う。現代の日本ならばイタコ(口寄せを行う巫女)などが一番イメージに近い。いずれにせよ、『魏志倭人伝』にも登場していて、普段の日常からかなり頻繁に用いられ信用されていた占いよりも、巫女の方がさらに上ということで、それだけ、神の力が大きい、巫女が特別重要な存在だと分かる。困ったときの神頼みは、古代から変わらないわけだ。

□隋書に記載されている気になる内容

 『随書倭国伝』には、以下のような記載もある。

その地勢は、東は高く西は低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、『魏志』の言うところの邪馬臺(ヤマダイ)である。

 『隋書』も前半の冒頭部分において『魏志倭人伝』を参考や引用している。そして『魏志倭人伝』での「邪馬壱国」が、この『隋書倭国伝』では、「邪馬台」となっている。またその都が、「邪靡堆」となっている。

 隋からの使者もこの地に行き、倭王に会ったのだろうか。それとも伝聞とは異なる違う名前の地に迎えられたのだろうか。太古へのロマンを感じる。

 なお、仮に都が邪靡堆で、仮にこれをヤマトと呼んでいたとしても、「ヤマト=飛鳥(畿内)」とはなりません。例えば、福岡県にも邪馬台国の比定地候補となっていて有名な山門(ヤマト)郡がありましたし、ヤマトという地名(人名も)自体は、日本全国に複数ある名前だからです。

※過去の邪馬壱国と邪馬台国についての記載は以下です。

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その5 邪馬壱国と邪馬台国論争

※過去のヤマトについての記載は以下です。

魏志倭人伝から邪馬台国を読み説く その19 神武東遷の意味と大和

死者歛以棺槨

 死者を弔うお墓について、『隋書倭国伝』には、「棺と槨がある」と書かれている。『魏志倭人伝』では「有棺無槨(棺があり槨はなし)」と書かれていた。槨とは、棺を囲う外壁、つまり石室等の事だ。

 三世紀頃以前のお墓には石室が無く、六〜七世紀頃のお墓には石室がある古墳の特徴がある地方はどこかというと、実はそれは、まさに九州の古墳や遺跡と特徴と一致している。(畿内は石室がある古墳が一般的です。)

※お墓の情報を記載している過去の作品のリンクは以下です。

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その11 倭人の文化風習

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その15 邪馬台国が九州内にあった根拠

 仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである。

 この時代には、既に仏教が普及していることや、文字が伝わっている事が分かる。

 中国人や朝鮮半島の人々とも、全て通訳に頼らなくても、ある程度は、漢字による筆談でのコミュニケーションも出来るようになってきた時代なのだと思う。

 ただし、前連載でも触れたように、北部九州の弥生時代の遺跡では硯の出土品も発見されている。古くから文字は伝わっており、仏教(経典等)をきっかけにそれがさらにどんどん広がっていると捉えたい。

倭人は、囲碁、双六(すごろく)、サイコロ博打が好きである。

 この時代から、こういった遊び、ボードゲームや賭け事があるのかと感慨深く、取り上げてみた。日本人は、昔からこのような遊びが好きなのだ。(実は私が将棋が好きだから特に気になったのだが、今のところ将棋は奈良時代か平安時代以降と考えられている。)

首に小さな輪をかけて、紐を付けた鵜を水に潜らせて魚を捕らえさせると、1日に百匹余りも捕れる。

 鵜を用いた伝統漁法も、既にこの時代から存在しているのは感慨深い。現在日本では、長良川(岐阜県関市)、肱川(愛媛県大洲市)、三隅川(大分県日田市)が、日本三大鵜飼の地となっている。鵜飼は少なくとも1300年以上前から日本で行われている漁法で、『古事記』や『日本書紀』などにも記載がある。九州では筑後川(福岡県朝倉市辺り、邪馬台国の比定地候補にもなっている地域)の鵜飼いが古くから行われていた記録(712年頃)もあるため、私は、ここに記載されているのは、この筑後川の鵜飼だろうと考えている。

新羅と百済は、両国とも倭国が大国で珍しい物が多いと考えており、畏み敬い、常に使者を通わせて往来している。

 ここから、当時の新羅と百済と倭国の関係性が分かる。倭の方が上位にあり、つまり国力があり、軍事的に強かったのである。新羅百済は倭国にも中国への朝貢のような形で、常に倭国にも使者を送り、倭国の機嫌取りや貿易による実利益を得ていたと思う。

 倭国も、この時代も相変わらずに、朝鮮半島や中国大陸の情報を得ており、積極的に外交や交流を行っていた。朝鮮半島への影響力を持ち続けていたという事が推測出来る。

□阿蘇山の登場!

 隋書には、以下の記載がある。

阿蘇山という山がある。その岩山が突然噴火して火が天にまで届く。人々はこれを異変だと言って祈祷や祭祀を行う。

 ここで「阿蘇山」が突然登場する。そして、随書に出てくる山(海も川も湖も含めても)は、この阿蘇山だけである。

 なぜ阿蘇山だけが登場するのかは、それだけ、阿蘇山が当時の倭国にとって、身近でもあり、有名な存在だったからだと思う。また、中国から来た使者にとっては、実際に見聞きした場合、活火山で噴煙もあがり、広いカルデラで、周辺にも高い山々がありで、神秘的で特徴的な存在だったからだと思う。

 ここで強調しておきたいのは、阿蘇山は九州のほぼ中央部分にある山であり、決して、海側の福岡市や北九州市からでは、見れないし、感じれない山だということだ。中国からの使者が、船や陸路で海岸線の九州や山口を通過して、機内の飛鳥地方に向かったとした場合には、決して登場しない位置にある山だ。

 もし、畿内ならば、それこそ、大きな島として淡路島や、大きな湖として琵琶湖が登場してもおかしくは無いと思う。日本を代表する山ならば、日本一の高く美しい山として富士山が登場してもおかしくはないはずだ。そもそも、畿内の人たちが、普段から阿蘇山を意識して暮らしているだろうか。もちろん、そんなわけはなく、畿内の国々に暮らす人が、阿蘇山のことで祈祷や祭祀を行うわけはない。

 しかし、現実には、阿蘇山だけが登場している。つまり、九州の北部から内部に倭国があった。そこの人々の話を聞いた。または、中国の使者は、九州の内部にやって来た。と捉える方のが、一番理にかなった自然な解釈となる。畿内の倭国王に会いに行くには、九州内部の福岡や熊本に行く必要は全く無いからだ。

 逆もまた同じであり、九州の人々にとっては、九重や阿蘇や霧島や桜島や英彦山などを始めとする九州の山々こそが身近な存在の山々であり、普段の日常生活において、本州にある山々(富士山でさえ)を意識することは全く無いのである。

 ※阿蘇山について記載した過去の連載は以下です。

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その4 女王国の国々

 全くの余談ですが、阿蘇山は、30万年前〜9万年前に発生した過去4回の巨大噴火により形成されたとされるカルデラ地形で出来ています。日本では北海道の屈斜路カルデラに次いで、2番目の広さであり、世界でも有数の大規模を誇る巨大なカルデラとなっています。

 つまり、阿蘇山は、大噴火により山の頂上部分が全て吹き飛んでしまい、いま残っている阿蘇の山々は、その吹き飛んだ跡の外周に当たる残りの山々ということになります。

 もしも、阿蘇山が噴火して山が吹き飛んでいなければ、標高が9,000〜12,000メートルくらいあると想定されているようで、いまの富士山よりも2倍や3倍にもなるような遥かに大きな山だったということになります。

□607年の2回目の遣隋使

 いよいよ隋書にある2回目の遣隋使の記載部分を考察する。『日本書紀』では、これが、聖徳太子小野妹子を送ったとされる1回目の遣隋使になる。原文だと以下となる。

大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法」 其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙云云」 覧之不悦謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者勿復以聞」

 この使者も、600年の遣隋使と同じく倭国の王である「多利思北孤(タリシヒコ)」が送った使者である。性別または名前が異なるため、日本史ではこの時代にはいるはずの推古天皇でもなければ、聖徳太子でも無い人物名だ。

 訳すと以下のような内容だ。

 使者は「大海の西にいる菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞き、朝拝に派遣すると同時に、僧侶数十人を連れて仏法を学ぶため来ました」と言った。

 国書には、「日が昇る東の天子が、日が沈む東の天子に書を致す。お変わりありませんか」という書き出しがあり、これをみた中国の皇帝が不機嫌となり、「蛮夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえてない。こんな無礼な手紙は二度と聞かせるな」と怒った様が書かれている。

 古代日本人に一貫してあるのは、この学びの姿勢だと思う。仏教を学問を制度など、進んだ文明や文化や技術を少しでも学ぼう、吸収しようとするモチベーションは凄いと思う。ご先祖様達の子孫として見習わなければならいし、後世に繋げなければならない日本人の長所だと思う。

 ここで皇帝が不機嫌になり怒った理由は、蛮夷が天子を名乗ったからだと考えられている。天子は、天下に1人だけであり、それは中国皇帝である自分だけだと。それを蛮族の王が天子が語るなど、決して許されない。自分と同等の存在などあり得ないと考えられていたばずだ。日本は日が昇る国で、中国は沈む国と書かれ、あたかも中国が下の存在ように書かれたことに怒ったという解釈もある。ここは、方位を表すための枕詞のような慣用表現であり、ここに怒ったわけではないという解釈もある。

 大変惜しいと思うのは、このときの倭国からの国書の内容が記録されていない事だ。もし、この内容が分かれば、当時の倭国の考えや目指していたこと、中国に求めていた事などが分かったかもしれず、かなりの事実が明らかになるのになと思う。本当に古代史は測ったかのように謎が謎を生むように良く出来ていると思う。だからこそ面白いのだ。

 なお、『日本書紀』では、このときに、小野妹子が中国から持たされた返答の国書を百済に立ち寄った際に紛失した事が書かれています。返答の中国からの国書を紛失という使者としての最大級の過失を犯したにも関わらず、帰国後にお咎め無しという不自然さがあり、日本史における謎の1つになっています。

□中国からの使者がやって来た

 いよいよ『隋書』の最後の謎である。以下の記載がある。

翌608年に文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。

裴世清は、まず百済に渡り、竹島(※場所は不明)に致った。
南方の耽羅国(現在の済州島)を遠望し、遥か大海の中にある都斯麻国(ツシマ国:対馬)に致った。
また東に渡航して一支国(イキ国:壱岐)に着き、さらに竹斯国(ツクシ国:筑紫国、現在の福岡県)に至った。
また東に行って秦王国(シンオウ国:※場所は不明)に着いた。秦王国の人々は中国人と同じだ。それでそこが夷州(台湾のこと)だと思うがはっきりしない。
十余国を過ぎて海岸に至る

竹斯国から東の諸国は皆倭国に属す。

倭国王は、小徳の阿輩臺(アワタイ)を数百人の供と派遣し、武装した兵隊を整列させて、隋使の裴世清を迎えさせた。

 (いきなり竹島が登場しますが、これは、いわゆる現在の日韓の竹島問題とは違う場所です。対馬に行くのに日本海の遥か先の沖の島にまで行く必要は無いからです。おそらく朝鮮半島の南端の陸地の岬または、周辺に浮かぶ島々だったと思います。)

 せっかく使者が倭国に来ているわけだか、『魏志倭人伝』のときと同様に、あいも変わらず、どういう行程で何処に辿り着いたのか結局不明のままだ。(邪馬台国のときの行程については、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その9 邪馬台国への道のりを参照)

 まず最初の謎は、中国人と同じで、夷州(通常ならば台湾)だと思うが分からないと書かれた秦王国(シンオウ国)だ。この当時の倭人は、何より全身に入れ墨があり、髪型も服装も中国とは異なり、当然言葉も違う。中国人とは全く異なるため、同じ中国人が間違うわけもない。なんといっても、裴世清達随使の一行は、倭国に実際に来ているのだ。

 考えられるのは、筑紫から東に向かってすぐのようなので、北部九州に主に渡来人達の子孫が集まって住む国(今だと村の規模)があり、同郷の人達がいるのでと気を効かせて倭人がわざわざ見せたのかもしれない。もしかしたら、後から中国側に攻めて来られないように、倭国の位置を分からなくするために、本当に夷州(台湾)や、朝鮮半島の近くの島等に一度船で連れて行ったのかもと思ったが、そのような旅の道のりは書かれておらず、さすがにそれは無いだろと思う。そう考えると、倭国王に認められて倭国連合内の地域で、中国から渡来して日本に帰化した秦氏(はた氏)が王として統治していた国だと考えるのが、一番自然な解釈なのではないかと思う。

 北部九州では、博多湾から洞海湾の北九州市方向に向かい北上した福岡県古賀市、福津市、宗像市などの海岸沿いの平地地域からは、4世紀から6世紀にかけて、オンドル住居、カマド住居、大陸や半島系の土器等の渡来人が生活していた特徴を持つ新原・奴山古墳群、須多田古墳群、在自遺跡群など多数の古墳や遺跡が存在している。まさに、この辺りは、かつては「唐坊地(とうぼうち)」(中国人が住む地域)と呼ばれていた地域であり、古くから大陸からの渡来人/帰化人が生活していた事が伺える。このように、当時の秦王国も、まさにこの福岡県古賀市や福津市辺りにあった国のことではないだろうか。あるいは、「ここが夷州(台湾)だと思う」と書かれているので、例えば、秦氏の拠点として当時にあった北部九州の他の秦(はた)氏の拠点地域まで、少し船で遠出して連れていったのかもしれない。

 補足ですが、秦氏は古来最大の氏族とも言われ、日本全国に分布していたようです。しかし、その割には他の古代有名氏族と比較しても、古代史において有名な人物があまりいません。一番有名だと思われるのは、秦河勝という人物で、聖徳太子こと厩戸王子へ影響を与えたとされる関係があり、寺院や神社の建設などでの功績があります。

 秦氏は元々のルーツは、秦の始皇帝とも言われています。日本への渡来経路にも、中国経由、朝鮮半島経由など、諸説があるようです。例えば、中国の秦国→朝鮮半島の百済、または、朝鮮半島の辰韓(後の新羅)→倭国のような経路です。福岡では、筑前の他にも豊前秦氏(福岡県行橋市・京都群付近)が有名で、そこから本州に秦氏が広がったという説もあります。機内では、葛野秦氏(畿内の山城国葛野郡)が有名で、ヤマト政権の運営に携わっています。他にも、伊予、讃岐、備前、播磨、伊勢、尾張、越前など全国に多数の秦氏が存在する地域があります。

 元々、日本各地に広く分布している理由は、1つの秦氏という一族ではなく、別々の一族が渡来して来たと思われていて、秦氏(ハタ氏)というのは、一般的な汎称だと考えられます。古代朝鮮語では海をパタと言うそうで、元々は海を渡って渡来して来た人々をハタ氏と呼んでいたという説があります。こう考えると、古代より日本各地に秦氏がいることも不思議では無くなります。

 また余談ですが、もう1つ、秦氏といえば、八幡神社と並んで日本中に多くの神社がある「稲荷神社」が秦氏の守り神だとされています。古代に京都盆地で稲作をしていた古代豪族の秦氏が氏神として祀り、この秦氏の縁の勢力や地方にも広がったそうです。畑、畑野、秦野、波多などの地名も、秦氏のゆかりだと考えられています。稲荷信仰は、最初は秦氏の氏神として、始めはその農業の豊作を願い、やがて商人には商売繁盛を願うようにと、日本中に広がっていき、日本人にとって大変身近で馴染み深い神社となっています。

 私が気になったのは「筑紫国から東の諸国は皆倭国に属する」という記載だ。これは筑紫を中心に考え、起点に見立てた表現のされ方である。裴世清一行は、当時の倭国の都、倭国王の多利思北孤に接見に来たわけである。もしその都が畿内の飛鳥地方ならば、「この倭国の都の飛鳥から西は全て倭国に属している」や、「筑紫からこの飛鳥の都までは、全て倭国に属している」とかの表現をしないだろうか。実は、『隋書』には、この後に、倭国の都で王に会ったという記載はあるものの、残念ながら都や都のある国名は登場しない。

 しかし、実は、筑紫国が今の福岡県やあるいは九州を指し示す広い範囲の言葉でもあり、通過した国はその中にある倭国連合の国々を示すのならば、この筑紫を中心にした表現にも違和感が無くなる。また、都の国の名前が登場しない不自然さも無くなる。もしそうならば、既にちゃんと登場していたのだと思う。

 個人的な感覚ですが、もし私が中国からの使者だったとしたら、最終目的地の倭王が住む都についての国名や都名を報告しないとは思えません。記録する人もさすがにその情報はわざわざ省略しないと思います。

 そうすると、隋書の冒頭に倭国の都と書かれている「邪靡堆(ヤビタイ:ヤマタイやヤマタやヤマトなのか)」と書いたから、もう最後にわざわざ書く必要が無いと考えて書いていないのか、あるいは、筑紫に都があったから、既に筑紫に来たことは書いたから、もうあえて記載する必要が無かったのか、どちらかではないかと思っています。

 そして、「壱岐から筑紫に来て、東に行き秦王国で、さらに十余国で海岸に至る」わけですが、当時の国の規模は今でいう町や郡くらいの規模から考えても、陸地の後に一度しか海岸が出てない事からも、この海岸の海は、九州にある有明海や周防灘にしかならないと思っています。福岡市から海岸線を北上して北九州市や関門海峡に行く場合は、ずっと海岸線があり、そもそも船で行けば良いので、除外しています。機内に行く道のりならずっと海岸線だらけで最後に陸路なので、このような表現にはならないと思います。

 壱岐から、唐津や糸島などの筑紫(九州倭国連合の国)に上陸し、そこから東に行き、福岡市域にあった秦(はた)氏の国に行き、そこから太宰府市や朝倉市や久留米市辺りを通過し、佐賀市や柳川市や大牟田市を抜ければ、有明海に到着します。(邪馬台国の時代からでもあり、阿蘇山の件もあり、こちらの方が有力だと思っています。しかし、本来の筑紫の有力な都は、太宰府なわけなのですが、それ以外だった場合、その先にあった場合は、当時の都が何処にあったのかは具体的には分かりません。)

 あるいは、福岡市域の秦氏の国から、飯塚市や直方市や田川市等を通過すると、行橋市辺りに抜けて、周防灘に到着します。少し南下すればすぐに大分県となり、豊前や中津や宇佐もあります。(もし、この場合だと、当時の倭国連合の都は、福岡市京都郡辺りだと思います。)

 むしろ、この『隋書』の行程に関する記載内容から、近畿、飛鳥地方まで行った説明を書いていると捉える方が、私は不自然だと感じています。なぜならば、海に至るではなく、道中の途中はずっと瀬戸内海の海岸線だらけだからです。十余国という数も北部九州の国々だけで、十分こと足りる数だからです。

 次に、小徳の阿輩臺(アワタイ)だ。邪馬台国のときと同じく、漢字的には、臺は、現在の常用漢字だと、台となる。つまり、小徳の阿輩台(アワタイ)だ。『隋書倭国伝』で、王の号が、阿輩雞彌(アワケミ)と書かれていて、これは、大君(オオキミ)の音だと思われることから、もしかしたら、オオタイ(阿輩台)という音だったのかもしれない。小徳というのは、先ほどの冠位十二階の上から二番目の高い位にある人物となる。例えると、今だと大臣クラスではなく、副大臣クラスが迎えたという感じだろうか。あるいは、総理大臣ではなく、外務大臣あたりが出迎えた形だろうか。

 読み方としては、ショウトクアワタイと読むと、「聖徳太子」をなんとなく連想する人もいるのではないかと思う。しかし、聖徳太子は、実在した人物だった場合には、皇太子であり、十二階の位を超えた王族、皇族の立場のため、それに仕える立場の冠位を持つ役人ではないため、これは明らかに聖徳太子のことではない。そもそも聖徳太子は、死後に贈られた諡号のため、生前に用いていた名前ではない。

 最後の大きなポイントは、武装した兵隊で出迎えた事だ。単に盛大に出迎えて歓迎するならば、武装した軍隊ではなく、多数の文官や武装してない武官でも良いはずだ。迎えられる使者としても、威圧され、もし倭王を怒らせたら、自分達は生きて中国には戻れないと、怯えたり、萎縮したのではないか。

 あえて武装した軍隊で出迎えた意図は、倭国には精強な軍隊があることを、中国側に見せつけたかったのだと思う。そして、これまでの本連載で読み解いて来たように、実際に6世紀までの倭国は、朝鮮半島にも支配域を保持し、海を渡って出兵し、高句麗や新羅等の領地に自ら攻め込み激しい戦を繰り返してきた国だ。新羅や百済は倭国は強い、大国だと思うからこそ、毎年のように使者を送ってきているわけだ。そんな軍隊に囲まれて、きっと裴世清は生きた心地がしなかったのではないか。少なくとも、倭国は決して侮れないと感じたはずた。

□髄による琉球国への侵略戦争

 『隋書』の中には、『倭国伝』とは別に『琉球国伝』がある。琉球について書かれた記録だ。中国の史書に「琉球国(通常ならば沖縄)」が登場したのは、隋書が初めてだと思う。以下のような記載がある。

『隋書琉球国伝』
琉球国は、海島の中にあり、建安群(福建省福州市)の東に当たる。水行して五日で至る。土に山洞多し。

隋の軍隊が琉球国に攻めて来て、琉球に従うように諭した。琉球は従わずに隋の軍隊を拒絶した。
隋軍は、琉球軍を打ち破って敗走させ、王都に進軍した。
琉球国の宮殿に火をかけ、琉球人の男女数千人を捕虜として、戦利品を船に載せて帰った。

それ以来、琉球との往来は絶えた。

 当初は、この琉球が沖縄のことだと考えられていた。しかし、現在の主流な解釈は、水行5日では、沖縄まで来れない。特徴的に今の台湾の事であり、当時は、台湾、沖縄諸島を指して、琉球と呼んでいたのではと考えれているようだ。もちろん、今でも沖縄のことだと考える説も残っている。

 当然、こんな酷いことをすれば、その後、その国との往来が無くなるのは、当たり前だ。

 なぜ、ここで『琉球国伝』について書いたのかというと、ここで言いたいのは、隋は中国の南北朝時代を終わらせた強い軍事力を持つ国であり、中国大陸の統一国家であり大国であり、十分に好戦的な国だという事だ。実際に、『隋書東夷伝』の中では、他にも高句麗にも進軍して侵略戦争を行っており、度々降伏させた記録が記載されている。

 倭国は、自ら天子を名乗る無礼な国書で、既に髄の皇帝を一度怒らせている。倭国も、一歩間違えば、この琉球国や高句麗のように、攻めて来られたかもしれない。

 私は、中国皇帝が倭国にわざわざ使者を送ったのは、一番の目的は倭国の値踏み、見極めに他ならないと思っている。中国皇帝に対して無礼な国書を送った蛮族の国、王を見に来たのだ。つまり、倭国は簡単に倒せそうか、侵略出来そうな国なのか、どのくらい中国から遠いのか、大きな国なのか、小さな国なのか、攻める価値はあるのか、あるいは、倭国は中国に素直におとなしく従う国なのか、そういった判断のための視察だったと思っている。

□倭王と使者の会見

 さて、いよいよ隋書の最後のクライマックスだ。

十日たって、また大礼の哥多毗(カタヒ)を派遣し、二百余騎を従えて都の郊外まで出迎えた。

倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会うと大いに喜んで言った。
「私は海の西に大隋という礼儀の整った国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は野蛮人で、遠く外海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内に留まって、すぐに会えなかった。いま、特に道を清め、館を飾って大使を待っていた。どうか大髄国の新たな教化の方法を聞かせてほしい。」

裴世清は答えて言った。
「(隋の)皇帝の徳の明らかなことは月日と並び、その恩沢は四海に流れでている。倭国王は、皇帝の特を慕って教化しようとしているので、皇帝は使者を遣わせて、この国に来させ、述べ諭させるのである。」

裴世清は館に入ったが、人を使わせて倭王に伝えた。
「隋朝からの命は既に達した。直ぐに帰る準備をしてほしい

倭国王は、宴会を開いて、送り返した。また、倭国の使者を裴世清に随行させて、随朝に産物を朝納させた。

この後、往来は、絶えた。

 琉球国同様に、結局は、その後の往来は無くなっている。倭国は中国使者を歓迎したはずなのだが、結果的には、戦争行為をした琉球国と同じだ。

 まず皆様はこのやりとりをどう感じるだろうか。私は、結果が全てを物語っていると思うので、この外交は、結局、双方上辺だけの形式外交で終わり、お互いの親交や外交を深めることは出来なかったのだと思っている。

 また、中国側からすれば、倭国に侵攻は出来無い、あるいは、攻める価値が無いと判断し、倭国側からすれば、天子と天子の対等関係は無理と判断し、天子と王での主従関係を維持したとも言えると思う。どちらも妥協や我慢したような印象だ。倭王としては、一貫して中国を上に持ち上げて、謙遜し、低姿勢で接している。

 裴世清一行も、長旅の結果、10日も都の外で待たされて、やっと倭国王に会い、都での滞在する館に案内されたにも関わらず、直ぐに帰国したいと言うのは、相当に不安、不快、不満等の強い気持ちがあったのだと思う。個人的には、倭国の軍隊への恐れや怯えもあったと思う。倭王やその部下達の気が変われば、自分の首が飛ぶかもしれないのだ。本来ならば、王との接見で役目を果たした後は、リラックスモードとなり、倭国の手厚いもてなしなどを受け、都見物や珍しい食事やお酒など、楽しい滞在の時間になるはずだ。今後への人脈も作れるし、貿易の話での商談による儲け話も出来る。そうではないところに、少しでも早く帰りたいという強い気持ちが伝わってくる。

 倭国としては、隋の皇帝に無礼な国書を送って不快にさせたにも関わらず、実質的なお咎めはなく、中国に攻めて来られもせずに、倭国としての独立性を維持出来たので、良かったのだと思う。ただし、倭国としては、中国からの最新の文化や技術を学ぶ機会が無くなったわけなので、倭国側にはこの大きなマイナスはあると思う。

 もはやあえて書くまでも無いと思うが、隋の使者が実際に会った当時の倭王は、アマタリシヒコ(阿毎多利思北孤)であり、つまり男王であり、推古天皇、女性では無かったことになる。

 使者を郊外で10日待たせるのが、中国側への無礼、失礼に当たるのか、10日間もかけて使者をお迎えするのに館を飾り、道を清めたのが最高のおもてなし、礼儀に当たるのか、当時の儀礼の常識を知らないため、ちょっと判断出来ませんでした。(もし、この時代の人々が、過去からの経験により、海外から来た人々(中には体調が悪い人がいて)に直ぐに会うとその後に原因不明の流行り病(疫病)になるときがある事を知っていて、ウィルスによる感染症リスクを防ぐために、10日感間を空けて、王や大臣達や都の人々が感染しないように備えていたとしたら、凄いなと思います。経験則から生み出されていた、そういう可能性もあるとは思います。)

 また、今回裴世清一行を迎えにいった使いが、皇族や最高位の役人でもなく、その下の大礼の位の使者になっており、ここも、中国側の使者に対して失礼に当たる対応なのか、特に問題ないのかが分かりませんでした。どちらかというと、最高のお出迎えではない気がします。

 中国の古代的には、身だしなみを整えず、身を清めず、着の身着のままで直ぐに会うのは相手への失礼になると思いますが、清掃や礼服に着替えて身だしなみを整えて会えば良いと思うので、準備に1日か2日もあれば十分な気がします。もしかしたら、大安吉日のような接見に縁起の良い日や時間帯等もあって日を選らんだのかもしれませんし、いつ使者を迎えるのが良いのか巫女による占いの結果だったのかもしれません。

 そして、実は、ここで最後の新たな謎が生まれている。なんと、『日本書紀』では、610年、614年にも遣隋使が隋に朝貢した記録が記載されているのだその相手側の中国は、609年に往来が途絶えたと明記している

 なぜこのような違いがあるのか。この点については中国側に嘘をつくメリットは無いため、中国側の記録の方が信憑性が高く『日本書紀』が嘘を書いているという見方が多いようだ(私もそう思う)。この謎については、また、別の機会にゆっくりと考察したいと考えている。

■次回は、旧唐書の倭国 倭国最後の遣唐使について

 次回に続く

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