落語ラン vol.29 「紀州ラン」
組織のトップが何らかの理由で交代せざるを得ない場合、後継者をどうするかというのは大きな問題ですね。江戸時代も七代将軍の家継公はご病弱であったため、早逝され、ご存じのように吉宗公に白羽の矢が立ちます。
スムーズにいけば、尾州公徳川継友の目が大きかったはずのところ、吉宗公が選ばれたのは諸説ありますが、落語の世界でもこの顛末をとりあげています。お休みだったので、御三家の上屋敷界隈を走ってみました。
あらすじ
徳川七代将軍の家継公は幼くして病死あそばし、跡目相続の話が持ち上がる。【水戸家】、【紀州家】、【尾州家】の御三家から選ばれることになるが、水戸家は高齢のため辞退。紀州公吉宗か尾州公継友のどちらかという運びになった。評定の日、【尾張藩上屋敷】から駕籠で登城する道すがら、鍛冶屋の「トンテンカン、トンテンカン」と鎚を打つ音が、尾州公には「テンカトル、テンカトル」と聞こえ、幸先が良いと気をよくする。評定では小田原城主、大久保加賀守が尾州公の前に進み出て「この度、七代将軍ご他界し、お跡目これなく、しも万民撫育(ぶいく)の為、任官あってしかるべし」と頭を下げた。この時受けてしまえば終わっていたのを、尾州公は見栄が働いて 、断っても再度言葉が掛かるだろうと「余はその徳薄くしてその任にあたわず」と断ってしまった。一方、紀州公も「余はその徳薄くしてその任にあたわず」と同じ事を言った。が、続けて「・・・なれども、しも万民撫育の為、任官いたすべし」と応える。将軍職は尾州公を通り越して紀州公に決まってしまった。失意のうちに帰路に向かう尾州公。まだ、鍛冶屋が「テンカトル、テンカトル」とやっているが…。
ランニングコース
水戸家上屋敷→尾州家上屋敷→紀州家上屋敷→喰違門→紀尾井坂
水戸家上屋敷
水戸家の上屋敷は、ご存じの通り今の東京ドーム周辺ですね。昔は後楽園球場といっていたくらいですから。敷地面積はかなり広く、北は今の富坂上(つまり中央大学のキャンパス辺り)、南はほぼ外堀通りまでですが、日中学院より南は少し外れています。トヨタとか住宅支援機構の裏側の目立たないところに「小石川後楽園展示室」が設けられています。
小石川後楽園展示室の展示より
尾州家上屋敷
尾州家の上屋敷も、超巨大です。市ヶ谷の防衛省すっぽりと、JICA、学生支援機構、グランドヒル市ヶ谷、市ヶ谷会館のところまでを覆いつくす規模(大日本印刷は範囲外です)。ただ、防衛省近辺だからでしょうか?尾州家上屋敷跡といった表示は残念ながら見つかりませんでした。
防衛省左内門
ここまでが尾州藩敷地
紀州藩上屋敷
紀州家の上屋敷は、ご存じの通り迎賓館、赤坂御所を含む赤坂御用地で、ほぼ同じ敷地です。これまた巨大ですね。今の赤坂御所の東門が、そのまま紀州屋敷の正門のはずです。そして、そこから紀之国坂を渡ると喰違坂に差し掛かります。ここは、明治7年に右大臣岩倉具視の暗殺未遂(喰違の変)が起きたところで、幸いにも岩倉公は真田堀(今は埋め立てられて上智大学のグラウンドになっています)に転落し、難を逃れたようです。そこから更に文芸春秋側に歩くと、今度は明治11年に内務卿大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)が起こった紀尾井坂があります。この辺りは紀尾井町の由来になった紀伊殿(紀伊藩中屋敷)、尾張殿(尾張藩中屋敷)、井伊掃部頭(かもんのかみ、彦根藩中屋敷)が立ち並ぶ場所でもあり、歴史の舞台でもあったのですね。
出所:古地図 with MapFan
迎賓館
赤坂御所東門
こちらが弁慶堀
こちらが真田堀(岩倉公が転落した方)
この奥がニューオータニ
マップ
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