落語ラン vol.32 「小言幸兵衛ラン」
当代の桂三木助師匠の昇進披露パーティーの際に、お土産をたくさん頂いたのですが、その中に先代の三木助師匠(当代の伯父様)のCD(セット)が入っていました。
その中に「小言幸兵衛」が収録されていて、これが面白い!そもそも小言幸兵衛という噺は、そのまま演じると今の価値観からは少し外れてしまった表現や行いが出てきますので、寄席などで掛けづらいのかも知れませんが、私は大好きな噺です。
先代の三木助師匠がお亡くなりになられて今年で20年(志ん朝師匠も)、その前の三木助師匠(3代目、当代のお祖父様)が亡くなられて40年です。今年は、当代の三木助師匠もそれだけ気合が入っていて、色々なことにチャレンジされていて、楽しみです。
あらすじ
小言が生きがいの【麻布古川町】の大家、田中幸兵衛さん(小言幸兵衛)。今日も朝から長屋を一回りして、小言を言うのに忙しい。家に帰ってくると、貸し店を借りたいと男が入ってきた。聞くと豆腐屋で、すぐにでも越して来たいという。ところが、この男、あらゆる点で幸兵衛さんの価値基準に合わない。口の利き方、物事の道理、そして何より子どもがいないのが気に入らない。幸兵衛さんは、そんな女房なら丈夫一色のお尻のデカい女房を世話してやると言ってしまう。さすがの豆腐屋も声を荒らげ、しまいにはのろけ話をして帰ってしまった。次の借家希望者は仕立て屋を営む極めて物腰が低く、説明も上手な若者。途端に機嫌が良くなる幸兵衛さん。聞くと、腕が立ち様子も良い息子がいると言う。それを聞いた瞬間、幸兵衛さんの顔色が変わってしまった…。
ランニングコース
麻布一の橋→二の橋→三の橋→古川橋→賢崇寺
麻布古川町
一の橋から天現寺辺りまでは、道路形状がほとんど古川に重なっていて、面白いですね。幸兵衛さんが住んでいた古川町というのは、古地図を見ると狭いエリアに点在しています。二の橋から韓国大使館がある仙台坂に上がるところの交差点付近、今の象印マホービンビルの辺りが該当するようで、昔は小さい長屋が集積していたのでしょう。幸兵衛さんは、大家稼業ですが落語にも「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同様」というフレーズが決まって出てきます。江戸時代の大家さんは、今と違って不動産所有者ではなく、家持(いえもち)に委託された賃貸物件の管理人的存在で、江戸の治安維持のために適用された連座制(いわゆる五人組)のため、地域内の安全管理(特に火災や防犯等)が重要ミッションの一つです。幸兵衛さんが毎日朝から晩まで長屋を一回りして小言を言ったりするのも、安全管理のためだし、入居希望者一人一人と面談をして想定されるリスクを細かくつぶしていくことは、幸兵衛さんにとっては最も重要な仕事で、忠実にそれをこなしていたという訳ですね。
出所:古地図 with MapFan
一の橋→二の橋→三の橋→古川橋
一の橋から古川橋までは、古川に沿って道なりに走れます。信号にもきちんと表示がされていて面白いですね。昔の川の名前で言うと、天現寺までが「渋谷川」です。
賢崇寺
せっかく麻布まで来ましたので、私の出身地である佐賀鍋島藩ゆかりの賢崇寺に足を伸ばしました。以前走った「#15 黄金餅ラン」で通った大黒坂のすぐ近くです。賢崇寺は曹洞宗のお寺で、鍋島藩初代藩主の勝茂公が建立されたとのこと。鍋島藩では十代目の直正公(佐賀の人には閑叟公の方が伝わりやすいか)が種痘や、精錬方設置による反射炉とアームストロング砲製造、三重津海軍所開設と蒸気船完成など積極的なテクノロジー導入で有名ですが、直正公のお墓は今は里帰りしています。ただ、他の当主のお墓がたくさんあり、全て五輪形式になっています。
賢崇寺は、他にも蒲原有明や、戸川幸夫、久米邦武といった佐賀出身の著名人や、芸能人の方のお墓も多数ありますが、有名なのは二・二六事件で決起し、死刑になった叛乱軍青年将校二十二名(自決者、前年の相沢事件の相沢三郎含む)のお墓があることです。ちょうど2月26日からあまり日が経っていないこともありましたが、今年も様々な主体が訪問したことが分かるようなお墓の様子でした。首謀者の一人である栗原安秀のお父様が賢崇寺でわざわざ得度してまで造ったお墓のようで、栗原所属の陸軍第一師団歩兵第一連隊(今のミッドタウン)、竜土町からもさほど離れてはいませんね。
二・二六と言えば、落語界では五代目小さん師匠が二等兵として参加したことが有名です。小さん師匠は歩兵第3連隊所属だったため、警視庁占拠に駆り出された(同僚に昔の畑埼玉県知事)ようで、「どえらい事をしでかした」と士気が下がる一同の士気高揚のため上官に一席を命じられ、「子ほめ」を口演するも、全くウケなかったという逸話が有名ですね。