落語ラン vol.30 「居残り佐平次ラン」
品川はなかなか馴染みがありません。さー、今日は品川に買い物に行こうか、ってことにもなりませんし、美味しいものでも食べに行こうかとか飲みに行こうかってことにもなりません。
ただ、もちろん東海道最初の宿場町ですし、落語の世界では面白い噺の舞台でもあります。浅草の観音様の裏手の里である吉原を北里、北と呼ぶのに対し、品川宿の遊郭は南国、南と呼ばれこちらもたいそう栄えたようです。
「上は来ず、中は昼来て昼帰り、下は夜来て朝帰り、そのまた下は居続けをし、そのまた下は居残りをする」と志ん朝師匠は居残り佐平次のマクラで話されています。この居残り佐平次はフランキー堺一世一代の名演技である「幕末太陽傳(川島雄三監督)」のモデルでもあり、また数々の「佐平次論」も世の中にはあります。
ただ、サゲが今の世の中には通じない言い回しを用いていますので、数々の噺家が新しいサゲにチャレンジしていますが、今のところ決定打はないようです。
あらすじ
たまには品川に遊びに行こうと佐平次に誘われた4人組。しかも割り前は1円で良いと言う。半信半疑でついて行き、大見世に上がると、もう飲めや歌えやの大騒ぎ。とても1円の割り前じゃ収まりそうにないと佐平次に言うと、約束通り1円で良いと。その代わりその金を母親に渡して欲しいと依頼し、自分は居残ると言う。心配しながら帰る4人。一方、佐平次は店の者には先ほどの連中が代金を持ってくるなどと言ってはぐらかし、居続ける。やがて、痺れを切らした店の者に詰問された佐平次は「金は無い」と答え、店内は騒然。かたや佐平次は「居残り」を決め込む。ところが、お店が忙しくなり始めると居残りにかまっていられず、お店はてんやわんや。すると、佐平次は布団部屋を抜け出し、客あしらいをはじめ、しまいにはご祝儀までもらい始める…。
ランニングコース
神田→品川宿(佐平次がどこから来たか言及はないので、とりあえず神田)
荒井屋
居残りをした佐平次は、図々しいことに最初は鰻をとってもらい酒を飲み豪遊します。その時に「荒井屋の中荒かなんかとって貰おうじゃないか」と言います。その荒井屋、最近まであったようなのですが、今は「居残り 連」という居酒屋に変わっていました。残念!
居残り 連(旧荒井屋)
利田神社
少し離れたところに利田神社があり、珍しい「鯨塚」があります。寛政十年に大鯨が迷い込んだのを捕獲し、葬ったところに鯨塚を祀ったそうです。当時は大騒ぎだったことでしょうね。
利田神社
土蔵相模
実は、品川心中ラン(#16)で品川宿に来た際には、ちょっと準備不足で「土蔵相模」の位置関係が分かっておらず、見逃してしまっていました。思ったよりも、品川宿の入り口に近い方にあったため、あっさりと通り過ぎてしまっていたようです。今は残念なことにマンションになってしまっていますが、歴史的な重大事件の謀議の場所になっています(また、冒頭の「幕末太陽傳」も土蔵相模が舞台です(ちなみに、幕末太陽傳では高杉晋作を石原裕次郎、土蔵相模主人を金子信雄、土蔵相模の遣り手婆を菅井きんが演じています。すごい配役)。
1.桜田門外の変:1860年(安政7年)3月1日、忠誠組の有村兄弟、水戸浪士は日本橋山崎楼で3月3日に桜田門外で大老井伊直弼を襲撃することを決定。3月2日には品川の土蔵相模に移動、訣別の宴会を朝まで続けた後、一旦愛宕山に集結、祈願の後、桜田門外に移動した模様。それにしても、朝までドンチャンやってから雪の中桜田門まで移動するのは、結構大変だったのではないでしょうか…?
2.イギリス公使館焼き討ち事件:生麦事件で尊攘派から喝采を浴びた薩摩藩に対し、藩是を変えて世間の信頼を失っていた長州は、若手官僚高杉晋作を中心に信頼回復、攘夷の督促を目指して土蔵相模で謀議を繰り返す。結果、1862年(文久2年)12月12日深夜に御殿山に建設中だったイギリス公使館を焼き払ってしまいました。メンバーには、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)など。結局、攘夷督促の勅書を受け取った家茂公は自ら上洛し、奉答すると約束し、時代がどんどん動いていきます。
土蔵相模跡(ちなみに、上記の看板で「万延元年(1860)」という記述がありますが、桜田門外の変を受けて万延に元号を変えたはずなので、恐らく安政七年が正しいです。)