太宰逸話のネタ本
昔、こう考えていた。「走れメロス」は教科書レベル、または、太宰の爪先、色々ごちゃごちゃ言ってるけどつまり、作家の本質を示すような作品ではないと。今、違った風に考える。「走れメロス」は、アイロニカルな太宰文学だと。
メロスを書く背景になった、と一般に言われている事件がある。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」という名言を生んだとされるあれだ。1936年、太宰は熱海に滞在していた。太宰の妻初代は、帰宅するようにという言付と実行のため、太宰の親友である小説家・檀一雄を派遣する。しかし、放蕩の朋輩である二人は、当然の如く遊興に陥り、遂に持金は底をついた。宿の支払も困難になり、そこで太宰は借銭のため、檀を人質に帰京した。しかし、待てど暮らせど、熱海には帰らない。そこで、檀が様子を見に行くと、呑気にも、太宰は東京で将棋をうっていた。相手は、師の井伏鱒二。そこで、太宰の放った言が「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」
私生活を背景に読まれるところに、太宰の書く小説の特質がある。他の作家でも、多かれ少なかれ、そういう部分はある。しかし、太宰の場合は、単なる背景知識というより、作品の実際を担保するようになっている、もっと強烈な繋がりだ(安藤宏「『晩年』における‘詩’と‘小説’」は、そのような観点から、太宰の破滅が初めから規定されていたことを論じる)。「走れメロス」は、走れなかった太宰を念頭に置くことで、皮肉にもロマンにもなる。
熱海の一件を含め太宰逸話のネタ本になっているのが、檀一雄の「小説 太宰治」だ。有名な、中原中也に絡まれ、苛められた太宰の話も書いてある。「何だ、おめぇは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめぇは何の花が好きだい?」とは、その時に中原が太宰にした質問だ。モモノハナ、と途切れとぎれ呟く太宰を、中原は軽蔑する。しかし、この質問自体、話の首尾がよく分からず、読めばよむほど変な質問だなあと思ってしまう。それに対して、「まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情」と形容される怯えぶりで答える太宰の様子が、おもしろい。
「右大臣実朝」は太宰の書いた小説だが、実は同時期に、檀も源実朝を題材とした小説を構想していた。「右大臣実朝」執筆中の近況について書いた小説「鉄面皮」では、Dという人物が実朝を書こうとしているらしいが云々、という悪口が出てくる。これについて問い合わせた檀に太宰は、そのDというのは自分の事だ、と弁解したと「小説 太宰治」には書かれている。これに対しては、実際には半々、というのが檀の考えだ。
こんなようなエピソードを摘まんでみると、傷つけ合う青春の像が思い浮かぶ。悪い意味でなく、そうした韜晦と裏腹の実直さの中で育まれた、芸術家の交歓の姿がおもしろい。Dの正体を「半々」と考えるとはつまり、太宰=檀の運命共同体的意識が底にはあるのではないか。思想哲学の層まで繋がった、相当に密な関係性の中でしか、こうした意識は成立し得ない。
当時、太宰が「三馬鹿」と称した仲間には、檀ともう一人、文芸評論家・山岸外史がいる。山岸も「人間太宰治」という文章を書いて、生前の太宰を思い返している。「小説」と「人間」の二冊は、殆ど同時期の事について書いているので、一緒に読むと「三馬鹿」時代の青春群像がより鮮明になる。ただ、相違点もある。例えば、1935年、東大の卒業が殆ど不可能になった太宰は、仲間で教授の家に押しかけ、卒業を懇願したのか?檀の方では、行ったが酒を出され、酔っぱらって盛り上がるうちに「もう一年頑張れ」とまるめこまれた。山岸の方では、仲間内で酒を飲むうち、夜中に教授をたたき起こすのも迷惑だし、宴もたけなわだ、という話になって行かなかった。どっちなのだろう。まあ、どっちでも構わないことだろうが。
また、檀と山岸に共通するのは、ある種の引け目だ。流行作家になっていく太宰と、作品を書けずにいる自分たちの対称を思う描写は、「小説」にも「人間」にも登場する。しかし、そうであるがゆえに、ただの遊び仲間の関係にはない、現実の徹底したものの前に描かれた文章になっている。青春のノスタルジーも一際に輝く。