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【連載】C-POPの歴史 第18回 世界で最初に有名になったアジア人ラッパー、MC Jin(歐陽靖)について

中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は、'00年代の香港のHip Hopについて、メジャーな音楽シーンの衰退と反比例するように大きくなっていく広東語ラップの世界を紹介しました。

そしてこの項目では、同じ香港Hip Hopの話題ではありますが、アジア系として初めてアメリカの大手レーベルと契約したアーティスト、MC Jin(歐陽靖)の活躍について、連載1回分まるまる使って、彼の半生を紹介しながら、大々的に紹介します。調べれば調べるほど、Jinのことは、テレサ・テン、フェイ・ウォンら大物歌手と並んで1回分まるまるかけて紹介する価値のアーティストだと思いました。彼は、当連載で紹介している香港、台湾、中国本土の3つの地域に対して、4つ目の地域、約6000万人の人口を抱えるとも言われるディアスポラ(移民)の中国を代表する音楽家だと考えます。つまり、華僑や華人と呼ばれる、中華圏以外で生きる中国人を代表するアーティストです。

また、前提として知っていただきたいのは、彼は香港のHip Hop業界、あるいはC-POPの世界に限らず、アメリカを含め世界的に知名度のあるラッパーだということです。そういう意味でも、テレサ・テンやフェイ・ウォンに並ぶアーティストだと思われます。なぜ彼はそんなに知名度が高いのでしょうか。彼の人生を紐解いていきましょう。


世界で最初に認められた中華系ラッパー、MC Jin(歐陽靖)

MC Jin(歐陽靖/オウヤン・ジン)は、1982年、アメリカのフロリダ州マイアミに生まれます。彼の父親は香港生まれで客家(ハッカ)系。マイアミでは中華料理屋として生計をたてていました。アメリカでは、親が誰であろうと生まれた場所がアメリカであればアメリカ人と認定されるので、彼は中国にルーツを持つアメリカ人と言えます。デビューもアメリカであり当初は英語の曲をリリースしていたので、C-POPの連載で取り上げるのは少し戸惑います。ただ、彼は最初にアメリカの大手レーベルと契約したアジア系アメリカ人ソロラッパーという歴史的存在です。韓国のBTSより20年も前に、アジア人のラッパーもカッコいいんだという印象を世界に見せつけたという意味で、アジアの音楽好きの1人としてとんでもなくリスペクトしていて、その奮闘ぶりをこの場で紹介したいと思い、一回分を使って記すことにしました。

マイアミで生まれた歐陽靖は、高校卒業をきっかけに、大学進学ではなくHip Hopの道を志します。彼は2001年にニューヨーク・クイーンズに転居します。MC Jinの誕生です。

彼の人生を変えるきっかけは、翌2002年、BETというブラックアメリカンをターゲットにしたケーブルテレビのラップバトル(フリースタイル)に出演し、時折広東語を駆使しながらラップを披露したところ、バトルを勝ち上がり優勝したことでした。そのまま、ヒップホップの名門デフジャムレコーディングス傘下のRuff Ryders Entertainmentというレーベルからデビューします。デビュー曲は、Learn Chinese。これがアメリカで、あるいは世界で最初に流れた中国人ラッパーの曲として、Hip Hop史に刻まれました。

Learn Chinese/MC Jin(歐陽靖) feat. Wyclef Jean(2003年)

この曲では、なんと、あのワイクリフ・ジョン(Wyclef Jean)とコラボします。ワイクリフはハイチ系ラッパーで、あのフージーズのメンバーです。フージーズといえばあのローリン・ヒルがメンバーで、、、あ、これは洋楽の連載ではないのでやめますが、とにかく世界的に有名なものすごいラッパーとコラボしてると思ってください。

この曲はWikipediaの情報によると、アメリカ・ビルボードのR&B /Hip Hopチャートで74位、オーストラリアの都市圏で40位、イギリスで59位にランクインしています。中国、香港では国内生産ではないのでチャートの対象外だったようですが、ゴールドディスクを獲得しています。とにかく、わずか21歳で、初めてアメリカのチャートにランクインした中国系ラッパーになりました。その活躍は、中華圏でも当然話題となりました。

I Got A Love/MC Jin(歐陽靖) feat. Kanye West(2004年)

Jinがすごいところは、本当にアメリカで売れてしまったというところで、何度も言いますがBTSなどの先輩格と言っていいと思います。この曲では、あのカニエ・ウェスト(Kanye West)とコラボしています。カニエ・ウェストはさすがに名前を聴いたことありますよね?? グラミー賞を24回受賞したとんでもない巨人です。そんな人とコラボしちゃったJin。正直さすがカニエ・ウェストという感じで、これまで紹介した中華ラップのどれよりも垢抜けたサウンドだと思います。

「Learn Chinese」「I Got A Love」が含まれたアルバム「The Rest Is History」は、ビルボードチャート54位(Hip Hop/R&Bチャート12位)まで上昇します。

「アジア」を代表するプレッシャー

こうしてニューヨークのテレビで活躍したのち、ワイクリフ・ジョンやカニエ・ウエストとコラボし、そのCDは世界レベルで大ヒット! という、小学生が考えた夢のような人生を送っていた彼は、しかしながら壁にぶつかります。まあ、普通の人間なら、いきなりこんなうまくいってしまったら逆に悩みますよね。

私の挙動でアジア人すべての評価が決まる。大げさに言えばそんなプレッシャーと戦う日々が続きます。

I Quit/MC Jin(歐陽靖)(2005年)

英語詩のリリックを見ても、この当時の彼がとても苦悩に満ちていたことは伝わってきます。「俺はただ(ラップで)ご飯を食べようとしただけだ」「マイクを握った最もイカしたアジア人であるという誇大広告に応えようとする人生がどんなだか、あなたはわからないでしょう」。「アジア」には50億人の人口がいると言われています。ひょっとすると「アジア」そのものを背負っていたかもしれない彼のプレッシャーは計り知れません。

彼はラッパーをやめると宣言したわけではありませんが、このI quitは、彼の引退宣言だと捉えられても仕方がないようなタイトルと曲でした。現在、あるいは今後現れるかもしれない世界規模で活動するアジア人ミュージシャンの苦悩を想像してみてください。そんなプレッシャーを世界で誰よりも早く感じていたのがJinかもしれません。1982年生まれの彼は、このとき、まだ23歳でした。

彼を救った2つのルーツ

Top 5 (Dead or Alive)/Jin (the MC)(2005年)

引退と思われていた彼は、Jin (the MC)という新しい肩書きを持って帰ってきました。この曲は、自身のルーツであるHip Hopに改めて向き合った曲です。「誰が最高のMCなのか?」という問いかけから始まるこの曲では、短い曲の中でありったけのラッパーを登場させ、Hip Hopの歴史を彼目線で語りかけます。彼の存在そのものがHip Hopの歴史に刻まれ、そしてその重圧に押しつぶされそうになっていた時に、彼の魂を救ったのもまたHip Hopでした。彼はこの曲を通して、自分のHip Hop愛と向き合い、冷静さを取り戻したのかもしれません。

蓋世英雄/王力宏(Leehom Wang) feat. MC Jin、李岩(2005年)

彼にとってもう一つのルーツは、彼自身の内からではなく、外からやってきました。

2005年、アメリカで活躍するJinは、とあるコラボの依頼を受けます。相手は台湾のスター、王力宏(ワン・リーホン/Wang LeeHom)でした。この曲でもこれまでと同様、ワン・リーホンの曲にJinは英語のラップで客演します。この経験は、アメリカで孤軍奮闘していたJinにとっては思わぬ援軍だったであろうし、のちに中華圏で活躍するというキャリアにも影響を与えたと思われます。またこの曲はリーホンが作・編曲ですが、中国的意匠をまぶしたトラックは、「Learn Chinese」に対する台湾からの回答という感じがいたします。

F.Y.I/MC Jin(歐陽靖)feat. Young Mac(2006年)

Young Macというカナダ生まれの、同じ中国系アーティストとコラボした彼。この曲では、生まれ変わりをテーマにしているように思います。この頃の印象としては、かつてのようにアジア人全体の期待を背負ってるかのような気負いや、あるいはI Quitと言わんばかりの煮詰まりもなく、新たな時代のヒップホップを楽しんでいるように思います。彼は長いトンネルを抜けたのかもしれません。

全編広東語ラップを通して彼が伝えたかったこと

彼はより自分のルーツに向き合うためか、それまでの全編英語詞から一変、2007年に、全編広東語のアルバムをリリースします。下の曲はそのアルバム「ABC」から。ちなみに、アルバムタイトルであるABCとは、American-Born Chineseの略です(このことはHowto Taiwan編集長の田中伶さんに教えてもらった。田中さんいつもありがとう)。知ってました?

飲啖茶(Yum Dum Cha)/MC Jin(歐陽靖)(2007年)

こちらは、香港系の中華料理屋の息子である自身のルーツに向き合った作品。あの、かわいい丸いせいろでほかほかに蒸された、セクシーな広東料理、あらゆる食事が、お茶を楽しむという目的のために提供されるという豊かな食文化である飲茶(ヤムチャ)をテーマにした作品で、この曲を聴くとなぜかお腹が空いてきます(今日のご飯は添好運(ティムホーワン)に行こうかな)。

こういう愉快なC-POPの曲が、皆様のプレイリストに一曲でも多く加わることを祈ってます。MV、円卓のある飲茶屋さんとHip Hopの組み合わせが、なぜかかっこいい。Hip Hopと言えば、ギャングスタラッパが美女に大金をはべらしてるMVが多いですが、この曲では水着の女性と飲茶をはべらすMVが見れます。なんか面白い。

1997/MC Jin(歐陽靖)(2007年)

続いて1997(香港が中国に返還された年)というタイトルの曲。こちらも、Jinが知らない、イギリス統治下時代の香港に思いを寄せた、自身のルーツに迫った曲です。

この曲の聴きどころは、特に最後、実の父親と電話で昔の香港のことを語り合う場面。父親は当然ラッパーではありませんが、2人の会話が盛り上がってるところにトラックが流れると、なぜかラップしているようにも聴こえます(2分5秒あたりから)。以前インターネットで、怒ってる黒人の動画にかっこいいビートをつけたところヒップホップになったという動画がバズったことがあるのですが(→参考)、盛り上がってる香港人2人の会話に曲をつけてもヒップホップになる、という定説を入れてもいいかもしれません。

私はこの親子の牧歌的な会話も含めて、Jinで一番好きな曲かもしれません。広東語でラップするという新たな展開を見せたという意味でも、「ABC」はこれまでのキャリアを上回る最高の出来だったと思います。

アメリカのJin、香港で大活躍

その後、2008年には、「飲啖茶」「1997」を含む全編広東語のアルバム「ABC」をひっさげて、ユニバーサルミュージック香港と契約し、香港に移住して本格的に香港での活動を開始します。

新天新地/MC Jin(歐陽靖) feat. Yumiko Cheng(鄭希怡)(2010年)

この曲のコラボ相手、Yumiko Chengという香港のアイドルユニット3Tのメンバー。Yumikoと名付けられてますが彼女は漢民族で、当時の香港では何か日本風の名前が流行ったことから、彼女にはYumikoというニックネームがあり、それがそのままステージネーム化しました。

この曲は神や運命をイメージした曲です。

Rap Now, 2010/MC Jin ✖️Bow Tie(2010年)

MC Jinはかつてオバマが大統領候補だった時に、オバマを応援する曲をMyspaceに発表したことがあるのですが(楽曲の売り上げは全額オバマ陣営に寄付)、なんだかんだアメリカ人だなと思うのは政治的スタンスを隠さないことです。そんな彼ですから、香港に住んでいる間は香港の政治家ともコラボを辞さないというのが彼の生き方なのでしょう。彼は2010年に当時の香港の行政長官(事実上の香港トップ)のドナルド・ツァンとコラボします。ドナルド・ツァンのトレードマークが蝶ネクタイだったことから、Bow Tie(蝶ネクタイ)という名前でコラボします。

ところでドナルド・ツァンと言えば、覚えてますか? 第16回、インディーズバンドのMy Little Airportが、「死んでください」とディスった、あのドナルド・ツァンです。MC Jinはコラボするぐらいだから、ドナルド・ツァンには好意的だったのでしょう。この辺のアーティストによる政治スタンスの明確な違いも面白いですよね。日本もこのぐらい両極端の意見がでれば面白いかもよ!

人氣急升/MC Jin(歐陽靖)(2011年)

翌年、2011年の楽曲。ノリにノるMC Jinの新曲は、ニューアルバム「回鄉靖!」(和訳:Jin帰郷!)のトラック。この項目では、Jinが香港でもスターになった喜びが歌われています。私からすると、アメリカでスターになれたんだから香港なんて楽勝だろと思いますが、Jinにとっては地元のアメリカではなく、遠く離れた香港でも活躍するということはかなり嬉しいことだったのでしょう。

この曲のトラックを作っているDoughboy(ダフボーイ)は、2010年代以降香港で活躍しているラッパー兼トラックメーカーです。彼のことは2010年代の香港で紹介します。お楽しみに。

アメリカ、香港のJin、中国本土で大活躍

2012年に子育てを理由にいったんアメリカに帰ります。そして2017年、今度は中国本土の番組「The Rap of China」に、謎の覆面ラッパー「HipHopMan」として登場。同じく中国本土に軸足を移している香港人、ジャッキー・チェンの映画の主題歌「Zero」を発表するなど中国本土でも大活躍を始めました。

Jinは何か新しいフロンティアに漕ぎ出さなくてはいけない性分だったのでしょう。そんな彼が、同じくアジア圏を代表するスーパースターであり、常に新天地で勝負を続けるジャッキー・チェンと気が合ったことは想像に難くありません。

Zero/MC Jin(2017年)

その後、2021年には中国本土のリアリティ番組「Call Me by Fire」に出場し、Beyondの黃貫中(香港)、黒豹楽隊の张淇(北京)、MC Hotdog(台湾)、林志炫(台湾)、F4メンバーだった言承旭(台湾)、ラッパーのGAI(四川)らと共にしのぎを削ります。いやー、ベテランなのにリアリティショーとかでちゃって、頑張りますね。

レジェンドであることを拒否し、現役を続ける彼の活躍はまだまだ終わりません。

まとめ

この項目では、2003年にアメリカでデビューし、アメリカ、香港、そして中国本土と活動地域を増やしながら、現在もC-POP界の一線で活躍を続けるMC Jinについて、その半生を駆け足で振り返りました。

これまで発表してきた曲の半分以上が英語であることや、活動地域を頻繁に変えたことによって、JinはC-POPファン界隈でもそこまで知られた存在ではないかもしれません。それでも彼のこれまでのキャリアを振り返ってみると、移動を続けながら活躍を続ける彼は、もう一つの中国とも言える、華人、華僑(中国にルーツを持つも世界中に散らばった移民の総称)を体現・代表するアーティストとしてこれ以上ないくらい素晴らしいものだと思います。もしもあなたが小さな国を抜けて(I quit)、世界で勝負したくなったとしたら、Jinはその生活のBGMとしてちょうどいいのではないでしょうか。もちろんそんな人でなくてもJinは素敵な曲をたくさん作っています。

さてこれで香港の00年代のまとめは終わり。次回はいよいよ、台湾の00年代のまとめに続きます。さまざまなスターが登場した台湾の00年代、どんなまとめになるのか、私自身もワクワクしてます。

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1927年から2025年まで、約100年のC-POPの歴史を紹介する連載。過去記事は以下で読めます。



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