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【連載】C-POPの歴史 第7回 80年代、台湾のポップス。独自性の萌芽。

前回は、80年代に香港で作られた、広東語の楽曲、広東ポップスを紹介しました。アラン・タム、レスリー・チャンなど、スターがたくさん紹介したきらびやかな記事に仕上がっています。よかったらご一読ください。

今回はおなじく80年代の、台湾のポップスを紹介します。80年代の香港をきらびやかと表現するなら、80年代台湾は試行錯誤から自分たちの音楽を獲得していく過程といった雰囲気です。詳しく解説したいと思います。


台湾の、世界一長い戒厳令

さて、台湾も80年代に入ると、経済が安定して豊かさを享受できる時代になってきます。そうなると、庶民に必要とされるのはエンターテインメント、ポップスです。実は中華人民共和国と中国の覇権を争った経緯から(詳しくは第4回を参考)、当時の台湾は『戒厳令』と呼ばれる戦時体制をひいていて、あまり大手を振ってエンタメを楽しむ雰囲気はありませんでした。しかし、台湾国民の民主化の要望は日増しに高まっていき、1987年に入って、ようやく戒厳令が解除されました。ということは、80年代もほとんどの期間は戒厳令が敷かれた状態だったことになります。1949年から1987年まで38年にわたって敷かれた戒厳令は、世界最長とも言われています。

ただ、エンタメエンタメしていた明るい香港に対し、80年代の台湾の音楽シーンには暗い時代にも確実に人々の意思のようなものが表現されつつありました。カバー曲の多い香港に対し、自作の曲が多いのも台湾の特徴です。そういう意味では、80年代の台湾の市民は同年代の香港市民よりも音楽制作に本気で取り組んでいたと言えるかもしれません。長い助走を経て、戒厳令から解き離れた台湾音楽業界は大きく飛翔します。お楽しみに。

フォークソングブーム。台湾ポップの父、羅大佑

この頃の台湾のポップスシーンのメインストリームはいわゆる歌謡曲のようなものが中心でしたが、カレッジフォークと呼ばれる、大学生がフォークソングで自分たちの思いを表現するブームが世界的に起こります。台湾は世界の動きから少し遅れること70年代中盤あたりからこのブームは盛り上がります。フォークソングブームは、音楽的に見れば実はコード進行もアレンジもシンプルなものですが、演奏家たちが自分たちで作詞作曲するという今では当たり前の文化を作ったことが大きいと思います。

そして、このフォークソングブームのなかから、真打と呼べるような存在が浮上します。彼の名前は羅大佑(Lo Ta-yu)。

戀曲1980/羅大佑(Lo Ta-yu)(1982年)

童年/羅大佑(Lo Ta-yu)(1982年)

羅大佑(注釈:Lo Ta-yu、あるいはLo Da-youなどと表記する場合も。日本語ならルオ・ダーヨウ。以下は羅大佑に統一します)は、台湾音楽シーンの父と言えるような存在でしょう。彼のデビューアルバム『之乎者也』は1982年に発表され、ロングヒットとなりました。この中でも有名なのが上の二曲、『戀曲1980』と『童年』です。

彼が、それ以前のアーティストと大きく違うのは、シングル単曲ではなく、アルバムが聴かれたという点にあると思います。アルバムが聴かれるということは、シングルが売れるよりもそのアーティストの作家性、メッセージ性に惹かれる、という面が大きいと言えます。

羅大佑は、台湾音楽界のゴッドファザーと言われています。彼がそこまで尊敬されるにはいくつかの要因があったと思いますが、一つは楽曲提供した曲にあると思います。

明天會更好(Tomorrow will be Better) /余天、李建復、洪榮宏、王夢麟、費玉清、齊秦、蔡琴、蘇芮、潘越雲、甄妮、林慧萍、王芷蕾、黃鶯鶯、陳淑樺、金智娟、李佩菁、齊豫、鄭怡、江蕙、楊林(1985年)

羅大佑が他のアーティストに提供した曲のなかでも、最も有名なのは、明天會更好(Tomorrow will be Better)でしょう。当時の台湾の歌手がほとんど参加しているんじゃないかと思われるような豪華なキャストです。規模こそ違いますが、これは台湾版のWe Are The Worldと言えるような、金字塔的な曲だと思います。We Are The Worldも1985年ですから、アメリカのミュージシャンが結束している姿をみて、すぐに制作に取り組んだのでしょう。羅大佑は数々のインタビューにも登場していますが、中国医薬大学の医学部出身というインテリの彼には海外の状況がはっきりと映っていて、台湾の音楽界も変わらなければいけないという思いは人一倍強かったのでしょう。羅大佑はこの曲の作詞の一部と、作曲の全部を担当します。

羅大佑がミュージシャンの連帯をイメージし、威信をかけたこの曲は、しかしながらのちに台湾の当時の一党独裁政府、国民党の選挙キャンペーンの曲として政治利用されてしまいます。おそらく彼は、もっと大きな意味での台湾の未来を夢見た曲が、選挙ソングに使われてしまうのは不服だったはずです。失意の彼は一度ニューヨークに飛び、さらに香港に飛びます。それから数年は香港で音楽活動をすることを選びました。ただ、1988年ごろからは再び台湾に戻って音楽活動を続ける道を選びます。戒厳令が1987年に解除されたことは、台湾音楽界においてかなり大きなきっかけだったと思われます。

台湾歌謡曲は80年代も健在

羅大佑のように、フォークの世界からまだまだ不自由だった音楽界で自己表現を目指すアーティストもいましたが、この時代の世の中の潮流としては、歌謡曲、演歌風の曲が好まれました。何曲か紹介しましょう。

在雨中/劉家昌、尤雅(1984年)

これは70年代の項目でも紹介した、台湾初期歌謡界の鬼才、劉家昌の1984年の楽曲です。恋の始まりもあれば終わりもあるという、王道の歌謡ポップスです。ピアノの旋律が美しいこの曲は、当時の台湾の平均的なポップスよりアレンジも曲の展開も凝っていて、私はお気に入りです。

神秘女郎/蔡琴(Tsai Chin)(1982年)

こちらは、第2回に登場した上海で生まれて香港で活躍したC-POPの始祖とも言える姚敏(Yao Min)の曲を台湾出身の蔡琴(Tsai Chin)が歌う曲。蔡琴(Tsai Chin)は先ほど紹介した、カレッジフォークブームの中からプロ化したシンガーです。姚敏(Yao Min)からすればキャリアの終盤の代表曲ですが、曲の緩急の付け方がプロだなと思わせてくれます。一方、蔡琴(Tsai Chin)の低めのトーンのヴォーカルは若いのに貫禄があり、この名曲を歌うにふさわしい人物だと思います。

我是不是你最疼愛的人(You Love Me Most of All)/潘越雲(Michelle Pan)(1989年)

こちらも80年代台湾を駆け抜けたシンガーの1人、潘越雲(Michelle Pan)の曲です。この曲を手がけたのは小蟲(陳煥昌)という台湾・高雄出身のシンガーソングライターです。ヒット曲をいくつか残した小蟲も羅大佑に匹敵するぐらい、台湾ポップスシーンの成長に欠かせない存在だったと思います。

80年代台湾音楽界の異物。今こそ評価すべき紀宏仁について

亞熱帶/紀宏仁(1986年)

さて、おおまかにフォークソングと歌謡曲でくくられる戒厳令中の80年代の台湾に、どのジャンルにもくくれない、でも評価すべきミュージシャンがいるので紹介したいです。彼の名前は紀宏仁。一聴するだけで、彼の存在がそれまでの楽曲と大きく違っていることに気づくはずです。激しいビートがクセになります。

城市台北/紀宏仁(1987年)

この曲などは、歌が始まる前の前奏段階であればデヴィッド・ボウイや岡村靖幸の曲かな、と思わせるような派手な曲です。リアルタイムではあまり評価されることはなかったようですが、彼の脳裏にはアメリカやイギリス、あるいは日本のニューウェイブ、テクノポップ、グラムロック、そういう楽曲群があったはずです。早すぎたために台湾音楽界の旗手になり損ねましたが、今でも来るべき時代を前借りしていたような存在、世界的な流行から取り残されていた台湾音楽界の中で、世界基準の80年代の音を鳴らしていた男、それが紀宏仁だと私は考えます。彼の存在は、のちに登場する様々なインディーズシーンのシンガーやバンドのさきがけとなったはずです。今こそ彼の新奇性を評価するタイミングがきてると思いまして、ここに紹介しました。

彼の存在は、その後1989年に吹き上がる台湾ポップス界の大革命を予感させます。

1989年、BlacklistStudioは音楽革命を達成する!

さあ、戒厳令も解除された1989年。ここからそれまでの遅れを取り戻すように、台湾音楽界の大革命が始まります。その中心にいたのは、黑名單工作室(Blacklist Studio)というバンドでした。台湾音楽界の歴史は、ブラックリストスタジオ以前か以降に分かれる。そういう存在だと私は思ってます。何よりもまず、彼らの功績として、臆面もなく台湾語、台湾訛りを前面に押し出したことが挙げられます。

台北帝國/黑名單工作室(Blacklist Studio)(1989年)

彼らはバンドであり、総人数もわからない運動体のような存在でした。彼らが1989年に発表したアルバム『抓狂歌』(クレイジーソング)は、台湾語を駆使し、フォークと歌謡曲しかなかった台湾歌謡界にロックやレゲエやラップなど様々な要素を取り入れた先駆者です。そしてその歌詞にも注目です。例えば「台北帝国」では、台北に住む人々の憂鬱を、台湾語を織り交ぜたラップで歌っています。スラングや台湾語を織り交ぜてるので、中国語がわかる人にも理解が難しい歌詞なのですが、海外の製品や技術に頼らないと車も作れないけど、海外製の製品ばかりありがたがる状況や、土地代が上がって暮らしもままならない様などがあからさまに表現されています。リンク先のYoutubeの概要欄に歌詞が掲載されているので、気になる方はチェックされたし。

私が調べた限り、この曲より前にラップやヒップホップの要素を取り入れた楽曲はありませんでした。台湾、いや、中華圏初のラップソングであると言い切っていいと思います(違うよ、1989年より前に中国語ラッパーはいるよという方がいましたらご連絡ください)。

抓狂(Mad)/黑名單工作室(Blacklist Studio)(1989年)

再び『抓狂歌』から。アルバムタイトルと同名の曲なので、この曲は同バンド一押しの歌だと思います。民謡のような、ヒップホップのような、お経のような、それでいてロックでもあるし、どこの国の曲だかわからない楽曲は台湾語で歌われ、しかしながらタイのアサニー・ワサン(อัสนี-วสันต์)というアーティストのยินดีไม่มีปัญหาという曲のカバーでもあるという複雑さです。アメリカやヨーロッパ、あるいは日本のアーティストの曲ばかりカバーしてきた香港の音楽や、一部台湾の音楽に対して、タイの曲を拝借して台湾の新しい曲を作るというのは、意識的に当時の先進国を崇拝する社会に対する皮肉のようにも思いますが、考えすぎでしょうか。

このバンドに関しては歌詞が重要なので、理解できる方は中国語の歌詞を確認していただきたいのですが、この曲は台湾人のブルースが歌われていると思います。この曲にしても、歌詞の解釈だけで議論ができてしまう不思議な曲だと思います。

ちなみにこの曲は1993年に香港のバンド「草蜢(グラスホッパー)」によって「寶貝,對不起」というタイトルでカバーされています。こちらの曲は、ブラックリストスタジオや原曲のアサニー・ワサンには存在した毒っ気のようなものはなくなっていて、優しい人生讃歌になってます。

計程車 Taxi/黑名單工作室(Blacklist Studio)(1989年)

この曲はタクシーをテーマにした曲ですが、台湾が抱える渋滞地獄、その他社会情勢を示している曲です。これなんかは完全にヒップホップのマナーに則ってると言えるでしょう。今でこそ四方八方に地下鉄が伸びて台北市内もじゅうぶん走りやすくなりましたが(台北に初めて地下鉄が登場するのは1996年のことです)、この頃の台北の渋滞はかなりやばいものだったようです。

ポップスというのは、その地域に住む人々の生活から滲み出てくるものをいかに曲という結晶に落とし込むかにかかってると思います。その点で、台湾語を駆使した黑名單工作室は、台湾オリジナルのロックでありポップスでもあったと思います。

私が考えるに、以前紹介した香港のサミュエル・ホイが70年代に広東語でサラリーマンの哀愁をポップスを歌って、それが香港のアイデンティティとなったように、89年、ブラックリスト・スタジオが台湾語でやはり生活を歌にして、複雑な経緯を経て一つの島が一つの国家に準ずる体制として独立した台湾という存在を、一つの共同体として鼓舞していこうという思いがあったのではないかと思います。中国という地域のなかでも、台湾に限定された、台湾らしい音楽というものは、羅大佑がそのきっかけを作り、そしてブラックリストスタジオによって完成されたというのが私の見立てです。そしてブラックリストスタジオの存在が、その後の台湾のインディーズバンド天国の出発点になったのではないかと思います。そういう意味で、台湾歌謡界はブラックリストスタジオ以前・以降に分かれるというのが私の見立てです。

そして香港ではBeyondがオリジナル曲を演奏するバンドとして80年代終わりに登場したことを紹介しましたが、ここで香港と台湾で同じ時期にそれぞれの地域の始祖となるようなバンドが登場したことは面白い一致だと思います。

さて、振り返ってみると、80年代の台湾はまだまだ世界的な流行からすると遅れを感じますが、海外からのカバーに頼っていた香港に比べ、独自性を獲得できていたように思います。そしてそれは、台湾ではカレッジフォークブームが、香港より大きかったからかもしれないと私は仮定しました。この違いは、のちにインディーズバンドの多い台湾と、ザ・芸能界という雰囲気のシンガーが多い香港というキャラクターの違いに反映されていくと思います。

さあ、香港に次いで、台湾の音楽界も独自の発展を遂げてきました。この時点で完全に遅れをとっていた中国本土(中華人民共和国)の80年代のポップスシーンはどうだったのでしょうか。次回検証します。

【C-POPの歴史 バックナンバー】

第1回から読むと中国の歴史にも詳しくなれるよ!

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