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【連載】C-POPの歴史 第2回 「時代曲」は香港へ、そして国際化するC-POP。 1940〜60年代の香港
前回は、C-POPの歴史の始まりとして、1927年に上海で制作された毛毛雨から、1949年、共産党の支配力が高まり上海のポップス「時代曲」が終焉したことを書きました。第2回では、その後上海の作曲家や歌手たちが自由に活動できる香港に移住したあとの話を記したいと思います。1947年から1969年あたりまでの香港の楽曲を紹介しながら、歴史を進めたいと思います。
香港に移住した、上海の「歌星」たち
中国大陸は共産党が支配を強め、歌手活動ができなくなった歌星たちは1949年から、続々と香港に移住を始めました。当時の香港はイギリス領だったので、これまでと変わらない歌手活動ができたのです。奇しくも、上海の租界と同じく、香港はその島と半島すべてが租界地のような場所だったわけです。1946年頃からじわじわと香港に移住するアーティストが増え、しばらく上海の時代曲をリリースしてきたレコード会社、百代唱片公司も1952年に正式に香港で発足されてからは、その地位逆転は決定的となります。
その後発表された楽曲たちは、基本的には上海時代の時代曲の延長にありました。歌詞も上海と同じく普通話で歌われてました。しかし変化の兆しもあります。上海はモダンな雰囲気がありつつも、中国文化の伝統を受け継ぐスタイルでしたが、香港はイギリスの植民地である上に上海から見ると当時はまだ田舎で、中国文化よりもイギリス文化がより強い場所でした。当時、香港の人々は欧米のポップスを聴いていたそうです。
それでもやがてかつての上海チームが香港の芸能界、音楽界の中心になるにつれ、再び時代曲は作られるようになりました。しかし、すべてがうまく移行できたわけではありません。
花樣的年華/周璇(1947年)
上海で最も人気だった「歌星」周璇は、他のアーティストより早く、1946年に香港にやってきて、曲をレコーディングし、香港制作の映画「長相思」の主役も務めました。どことなく悲しみを帯びているのは、すでに往時の輝きを失ってしまった上海のことを偲んでいたのかもしれません。私の愛しい祖国(可愛的祖国)と歌われる祖国とは、上海のことかもしれません。
周璇は上海が忘れられなかったらしく、1950年には再び上海に戻ります。しかし、その決断は彼女の歌手人生、いや、人生そのものを奪うものだったのかもしれません。最初は上海で中国映画に出演するも、すぐにフェイドアウト。1957年には脳炎で37歳の若さで死亡してしまいます。上海とともに輝き、上海が光を失うとともに活動に終止符を打った周璇は、ありし日の上海の象徴のような人物かもしれません。
この曲は周璇の最後のヒット曲であるとともに、香港歌謡界の出発点になるような曲でもあります。のちに香港を代表する映画監督のウォン・カーウァイは、この曲を1文字だけ変えた「花樣年華」というタイトルの映画を発表します。舞台は1960年代の香港でした。この曲は香港の人にとっても、ありし日の曲というイメージが強いのでしょう。香港を愛したウォン・カーウァイが、ありしの上海に思いを寄せたであろう曲で、ありし日の香港を描いたことは、ちょっと不思議な縁を感じずにはいられません。なお、この曲を書いたのは、夜来香と同じく、黎錦光です。
作曲家、姚敏(Yao Min)の時代
周璇のように上海に帰る歌手もいるように、誰もが香港に移住、定住したわけでもありません。第1回で紹介した作曲家の陈歌辛(玫瑰玫瑰我爱你、恭喜恭喜の作曲者)や、先ほどの黎錦光(夜来香や、花樣的年華の作曲者)は香港に渡らず、上海に留まる選択をしました。
この結果、香港の歌謡界は作曲者、制作者不足に陥ります。そんな中、香港に移住した作曲家、姚敏(Yao Min)は香港でさまざまな歌手に楽曲提供するようになります。彼は第1回で「七大歌星」の姚莉と一緒に恭喜恭喜をデュエットしていますが、作詞、作曲、そしてボーカルもできる多彩な人だったようです。姚敏の作った素晴らしい曲を一部紹介しましょう。
The Second Spring (第二春)/周采芹(Tsai Chin)(1959年)
香港はイギリス領でしたので、楽曲や歌手名には中国名と合わせて英語名があることも多いです。せっかくですので、なるべくどちらも紹介したいと思います。
先ほどの花様的年華と打って変わって、この曲は楽しそうなムードですよね。歌詞中で出てくる「Ding Ding(叮叮)」とは、香港島を走る2階建てのトラムを指しています。結局は上海にとどまってしまう黎錦光らと違い、姚敏は新天地、香港が割と気に入ったのでしょう。彼は上海時代より多くの楽曲をここ香港で制作しています。
歌手の周采芹(Tsai Chin)も天津で生まれ上海で育った女性ですが、15歳で香港にやってきて香港歌謡界のスターになりました。しかし香港にとどまらず、彼女はイギリス・ロンドンに渡り、女優としての才能を開花させます。
神秘女郎/葉楓 (Julie Yeh)(1960年)
1960年代に入りました。こちらは第二春と変わって、落ち着いた雰囲気の曲。謎の女、みたいなタイトルの曲ですが、謎というよりも落ち着く雰囲気の曲です。姚敏が作った曲は、歌いだしに特徴があると思っていて、紙飛行機を飛ばすようにゆっくりと歌いだす感じが特徴な気がします。この歌い出し、好きです。
これからこの連載では、さまざまな時代のC-POPを紹介していきますが、中国の人は、香港人だろうが台湾人だろうが、スローテンポのゆったりとした曲が基本的には好きという特徴があるように思います。その傾向は、姚敏の時代に確立したんじゃないかと思っています。
この曲も長く中華圏で愛されている曲の一つで、その後台湾の蔡琴(Tsai Chin)にカバーされます。このバージョンも大好きです。
ちなみに、台湾の蔡琴と、香港の周采芹は、どちらもアルファベット表記にしたときにTsai Chinなので注意が必要です。蔡琴は台湾で1980年代に活躍したフォークシンガーです。
情人的眼淚/姚苏蓉 (Yao Su-jung)(1968年)
さあ、第1回から長らく続けてきた「時代曲」の時代はそろそろ終わりつつあります。最後に紹介する曲は、これも姚敏の作曲で、この曲もたくさんのアーティストにカバーされてる有名な曲です。姚敏の代表曲と言っていいかもしれません。楽しいことも悲しいこともたくさんあった、1927年から続く上海がルーツの時代曲の、終止符に相応しい曲です。
この曲はもともと、シンガポールの潘秀瓊のために作られた曲ですが、私はこちらの姚苏蓉の方がより好きです。
カバーで好きなのは、やはり香港の1980年代の歌手、サンディ・ラム(林憶蓮)のバージョンです。これはかなり大胆なアレンジが施されています。
これも曲調と相まって、過ぎ去りし日のレクイエムって感じがします。「どうしてあなたのことを思うと涙が出るの?」というシンプルながら心のど真ん中にくる歌詞にも注目です。編曲を担当したのは日本の久保田麻琴と、中華系シンガポール人で、シンガポールの大スターであるDick Lee。当時のアジア歌謡界最高の布陣って感じです。
私は中国語がわからないのですが、歌詞を和訳したブログがあるので紹介しますね。
情人的眼淚 『Lover's Tears』(愛C-POP研究所)
1960年代、香港大カバー曲時代
さて、姚敏は上海時代曲の出身ながら香港に移動して、活動を縮小していく他のアーティストに代わって1960年代いっぱいまで名曲を生み出しながら息の長い活躍をします。しかし、彼以外に目立った作曲家はこの時点では多くなかったようです。やはり、著名な作曲家が上海に残ったことは、制作の上でかなりの痛手でした。
一方、1960年代にもなると香港はかなり裕福になり、中産階級が増えてポップソングがたくさん必要とされます。経済的に言えば、需要は増えたが供給が減った状態といえます。
この状況を解決すべく、実に香港らしい方法が編み出されます。「曲が作れないなら、よそから持ってきて中国語(C-POP)に加工すればいいじゃない」。つまり、カバーソングを作ることにしたわけです。
香港の作曲者不足、制作不足のための苦肉の策ではありますが、個人的には、この時代のカバー曲には不思議な魅力があります。どんなによその国の曲を持ってきても、なぜかC-POP、香港の曲になってしまうのが不思議です。一部の曲を紹介しますね。
Sukiyaki/江玲(Kong Ling) (1963年)
これは日本人なら誰しもが知ってる、坂本九の上を向いて歩こう(Sukiyaki)のカバーですね。坂本九バージョンは男性らしくこぶしを効かせたような歌い方をしますが、江玲という歌手の女性バージョンはとても柔らかく、人生の機微を優しく包むような歌声です。
江玲は、1960年代香港を代表する歌手です。
More than I Can Say/江玲(Kong Ling) (1963年)
これはアメリカのBuddy Hollyの同名曲のカバーです。この曲では最初に英語で歌い、2番を中国語で歌っているようです。江玲は英語もうまいですね。容姿も美しかった江玲は、「香港の恋人」と呼ばれるようになりました。
この時期の香港の楽曲はこのように、半分を中国語で歌い、もう半分を英語で歌う曲が多いです。中国から香港に渡ってきた移民と同時に、駐留していたイギリス人も多くレコードを買ったのかもしれません。
Bengawan Solo(梭羅河畔)/ 潘迪華(Rebecca Pan)(1963年)
Bengawan Solo、あるいはBungawan Soloは、意外なことにインドネシア民謡だそうです。インドネシア感(が何かは私にもよく分かりませんが)があまりないように思います。どこかハワイアンやブラジル音楽のような趣もあります。海があって港がある香港によく似合う曲だと思います。この頃のエキゾチックなカバー曲の中でも、私の大のお気に入りの曲です。
歌手はRebecca Pan(潘迪華)。彼女も1931年に上海で生まれ、49年に家族で香港に移住してきた女性歌手です。第1回で紹介した上海の「歌星」より下の世代ですが、その後は英語と普通話をうまく使いこなし、その後活動が消極的になっていく先輩に変わって、スターの座にのし上がっていきます。彼女の人気は凄まじく、1964年には香港ではなく、イギリス本国のEMIと歌手契約を交わし、香港で最初にファンクラブができたシンガーだと言われています。エキゾチックなムードが外国人にもウケたのかもしれません。
この曲も先ほど紹介したウォン・カーウァイの映画「花様年華」の挿入歌として使われています。ウォン・カーウァイはこの時代の香港が大好きだったんでしょう。
蘭花女 (La Violetera)/ 潘迪華(Rebecca Pan)(1967年)
再びRebecca Panの楽曲です。この曲は、José Padilla Sánchez(ホセ・パディーヤ・サンチェス)というスペインの作曲家の同名の楽曲で、チャップリンの映画、ライムライトで使われた楽曲です。不思議なことに、原曲よりもRebeccaバージョンの方がよりラテンミュージックっぽいです。
それにしても、香港という都市は、ラテンミュージックから日本のスキヤキから英語のオールディーズポップスまでを飲み込むたくましい雑食性を感じます。
你怎能瞞過我(Bang Bang)/鍾玲玲(Betty Chung)(1968年)
この曲はフランスのシェールという歌手のBang Bangという曲のカバーです。先ほどの2曲より新しく1968年となっていて、原曲と比べるとアレンジも少しロックな感じがします。
しかしこうしてみると、ここまで紹介した5曲だけでも、当時の香港は、日本、アメリカ、スペイン、フランス、そしてインドネシアの楽曲など、さまざまな地域の楽曲を翻訳し、発表していたことになります。
この頃、日本は高度経済成長期でしたが、香港も同じように中国で生産された農産物などをパッキングしたり少し加工を加え、世界中に卸すことで富を得るようになってきました。当時の香港は加工貿易の拠点だったわけですが、曲も「加工」を加えて発表していたわけですね。
ここまで紹介してきた2つの系統、古い上海時代曲の伝統を伝える楽曲と、当時の海外の楽曲のカバー。これらはこの時点ではそれぞれ別個に存在した印象ですが、伝統と舶来を混ぜたのが香港の魅力だと私は思っていて、その二つの要素はすでに60年代には存在したことになります。この後60年代から2000年代ぐらいまでが、香港や広東ポップの黄金期ですが、香港が他の地域より優れた作品を生み出せたのは、このハイブリッドな魅力があったのかもしれません。でも、まだ香港が中華圏全体を引っ張るにはまだ解決しなければいけない問題があります。それは借り物の土地である香港のアイデンティティの問題でした。
「香港に住む中国人」から「香港人」へ
Kowloon, Hong Kong ~第二春〜 The Reynettes(1966年)
こちらは(資料が少ないのですがおそらく)カバーではなくオリジナルの英語の曲です。当時のアメリカをはじめとする世界ではロネッツなど女性3人組によるガールズポップが流行ってましたが、The Reynettes(ザ・レイネッツ/ザ・ロネッツに名前がソックリ)は完全にそれらに影響されたグループと言えそうです。Kowloonとは九龍、つまり九龍半島を指し、主に九龍と香港島の二つのエリアからなる香港を讃える歌でしょう。作曲はAlfonso Garciaという名前ですが、あまり情報がなく、この曲がどういう経緯で書かれたのか分かりません。ただ、20世紀の香港の繁栄の原点の曲のような気がするんですよね。辛い戦争が終わった後の平和と繁栄を謳歌する香港がイメージされます。The Reynettesで検索すると60年代当時のモダンなジャケットやファッションが見れて楽しいですよ(今回の表紙はそれを使用しています)
さて、上海の人から辺境だと思われていた香港は、この頃には中華圏の中でも先進的な地域、憧れの都市という認識に変わってきます。それと同時に、香港住民の意識も変わってきたのです。
香港に住む私たちは、中国人か、香港人か
1840年代のアヘン戦争でイギリス領になって以降、香港という土地は実に1997年までイギリスの統治下にありました。戦前は貿易業を営むイギリス人が多く暮らしていましたが、中国国内で動乱があるたびに、中国本土の難民、移民を受け入れて街は成長してきました。やがてイギリス人を数で中国人が圧倒します。香港は、イギリス人が支配する、中国人の地域だったわけです。
この辺りの感覚は、民族と領土と統治が一致する日本人には理解し難いですが、香港という街の住民は、親の代、親の親の代に中国のどこかからやってきた人たちの子孫でできた街で、自分たちを中国人だと思い、香港人だとは思っていませんでした。しかし、第二次世界大戦後、共産党支配下で大きく出遅れる中国(大陸)を尻目に、豊かになりつつある国際都市香港は、中国より明らかに先進的な地域になりました。ちょうどこの頃、私たちは中国人ではなく香港人である、というアイデンティティのようなものが芽生えつつあったのです。
私たちが普段購入する工業製品には、Made in Chinaとか、Made in Japanなどと、生産国が刻印されています。戦前までは香港もMade in Chinaとして製品を作っていて、そのことに違和感を覚えることもなかったようです。なぜなら香港の工場で働いているのは、中国人に他ならなかったからです。1951年、朝鮮戦争をきっかけに、国連で中国(大陸)と北朝鮮に輸出入禁止措置が取られます。現在のロシアのように、制裁目的で敵国と貿易してはいけないというルールができたわけです。しかし香港に住んでいるのは確かに中国人ではありますが、香港はイギリス領であり、朝鮮戦争に加担してませんから禁輸措置は必要ありません。そこで香港で生まれた製品には、中国(大陸)の製品ではない、という意味の産地証明証をつけるようになります。同じ頃香港では「香港人は香港製品を買おう」というスローガンが街中で聞かれるようになりました。地産地消みたいなことでしょうか。
こうして、香港は中国(大陸)とは別の地域であり、私たちは香港人である、という勢力が登場するようになります。なお、私たちは中国人か、香港人か、という問いはいまだに決着がつかず、現在もなお、両者が混在するのが香港という地域の特性です。
参考文献: 香港と「中国化」
なぜ広東語の楽曲がないの?
ここまでのC-popを振り返って疑問が湧いてくると思います。香港で発売されている曲なのに、なぜ広東語ではなく、中国語(普通話)の曲ばかりなのか。この問いに答えるのは難しいのですが、どうも広東語というのは抑揚が特殊で難しい言語なのでポップスにするのに不向きと思われていたようです。上海から来たスターたちは、そもそも広東語で歌うことを嫌がっていたという証言もあります。しかし、それを崩すミュージシャンがついにこの後登場します。第3回では、「真の意味でのMade in 香港ポップス、広東語ポップ誕生の日」と題して、中国語(普通話)ではない広東語のポップスの登場を書いていきたいと思います。それは香港は香港である、というアイデンティティの目覚めの後に登場しました。次回は時計の針をさらに進めて、1974年からスタートします。お楽しみに。