【連載】C-POPの歴史 第9回 90年代中国本土の音楽。音楽後進国の中国は外来のロック、ポップ、ヒップホップをどう表現した?
中国、香港、台湾などで主に制作され、中国語(時に広東語、台湾語、あるいは地域内の少数民族の言語を含む)で歌われるポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、それの歴史を、1920年代の上海の租界地で生まれた時代曲というジャンルの音楽から振り返り、最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は中国本土の80年代の音楽と、崔健というロッカーの話を軸に書かせていただきました。
第9回の今回は、前回に引き続き、90年代の中国本土の楽曲を紹介させていただきます。三地域(中国本土、香港、台湾)で最も遅れていた中国本土の音楽は、いかにして現代化していったのでしょうか?
北京で根付いたロックとバンド活動
前回紹介した崔健のおかげで、特に首都北京では、バンドを組んでロックを演奏する若者が急増しました。なぜ北京だったのでしょうか。それは、北京に音楽学校や芸術大学があり、広く中国内から芸術や音楽を勉強したいという若者が集まったこと。また、大使館やグローバル企業の中国支社が多数あり、外国人が多く居住したこと。そのおかげでライブハウス文化が賑わったことが挙げられます。
この頃はまだ、大衆的なロックはまだ数えるほどしかありませんでしたが、現代まで中国本土の音楽の中心地は北京です。それは、全国放送を行うテレビ局がほとんど北京にしか存在しなかったことが大きいです(これは、日本における東京の優位性と似てますね)。逆に現代はインターネットが発達して、地方にいながら全国的に活躍したり、中には世界的に活躍するアーティストも登場するようになりましたが、それはまだ先のことです。
彼らは夜な夜なライブハウスで、自分たちの表現を演奏しながら模索しました。ですので、最初から大衆にウケることを狙った(つまり商業化した)音楽ではなく、ライブハウスに来るロックファンに対する硬派な音楽が中心でした。
中国でいちばん成功したロックバンド。黒豹について
彼らの中で、最も人気を誇ったのが黒豹(Black Panther)というバンドでした。黑豹乐队とも書きます。「乐队」=バンドです。中国語で、◯◯乐队、あるいは◯◯樂隊と書かれていたとき、それは楽隊=バンドだと認識していただければ間違いはありません。
黒豹は1987年に結成され、1991年には黒豹という同名タイトルのアルバムを発表しました(Wikipedia)。このアルバムこそ、正規版(当時の中国では海賊版、つまり偽物がたくさん売られていました)だけで150万枚の売り上げを誇る大ヒット作で、未だ中国のロックバンドで最も枚数が売れたバンドとされています。まあ、中国本土には10億人以上の人が住んでますので、中国本土の1位=中華圏の1位ではありますが。ではそのアルバムの中の代表曲を聴いてもらいましょう。
Don't Break My Heart/黒豹(Black Panther)(1991年)
曲を聴いて、歌詞を見ると、ああ、これは1位にふさわしい楽曲だなという気がします。中国人に限らず、日本人にも、いや世界中の人に伝わる普遍的なメッセージではないでしょうか。「私の心を傷つけないで!」って。とても心に沁みます。
彼らは北京のバンドでしたが、実は最初に彼らがアルバムをリリースしたのは香港でした。香港の方が制作面でも流通面でも優れていたのか、あるいは北京の政治的な事情を恐れてかはわかりませんが(おそらくその両方)、彼らは香港でデビューします。
当時の香港を代表する歌姫といえばフェイ・ウォン(Faye Wong/王菲)ですが、彼らの演奏を聴いていたく感動した彼女は、Don't break my heartをカバーします。やがて、黒豹のヴォーカルで当時のバンドのフロントマンだった竇唯(ドウ・ウェイ)と恋仲になり、結婚した彼らは、娘を授かります。彼女の名前はフェイ・ウォンとドウ・ウェイの本名を組み合わせた竇靖童(リア・ドウ)。でもそれは別の時代の話。この連載中でいつか出てくるのでお楽しみ。
音楽活動も波に乗る、1991年。さらなる自分の音楽を追求したくなった竇唯は黒豹を脱退します。その後も黒豹は現在までメンバーチェンジを繰り返しながら活動を続けますが、竇唯在籍時のような活躍は難しかったようです。
中国ロック黎明期に活躍した、意外な日本人ドラマー
さて、この時期のロックについて、日本人の私たちにどうしても知っておきたい事象があります。実はこの時期、日本の音楽業界のど真ん中で活躍しながら北京に居住し、北京のロックを支えた1人のドラマーがいました。彼の名前はファンキー末吉(すえよし)。たぶん40代後半より上の方であれば誰でも知ってる爆風スランプというバンドがありますが(Runnerという曲で有名です。若いリスナーのためにThe First Take版もリンクさせておきます)、彼はそのバンドのドラマーであり、主だった曲の作曲担当でもありました。あらためてこのバンドの楽曲を聴いてみましたが、激しいドラムがバンドの鍵ですね。
90年代のある時期、日本の芸能界での音楽活動に閉塞感を感じていた彼は、1週間という約束で休息を得ます。彼は海外に旅をすることにし、そして北京を旅の目的地としたのでした。芸能界に嫌気がさしていた彼でしたが、音楽が嫌いになったわけではありません。そこで、北京のライブハウスに行ってみることにしたのです。そこで演奏していたのは、まだメジャーになる前の黒豹でした。ファンキー末吉からすると、彼らの演奏テクニックはそれほどじゃなかったようですが、彼らは自分がなくしたバンド演奏に対する純粋な心を持っていたように感じたのでしょう。興奮した彼は飛び入りでバンドに参加します。次に驚いたのは、黒豹とライブハウスの観客です。明らかに演奏レベルの違う、金髪で無名の演奏家が突如現れたからです。「また絶対に中国に戻ってくる」と彼らに言い残したファンキー末吉は、有言実行で本当に単身北京に移住しました。
彼は中国と日本を往復しながら、一枚のアルバムを発表します。「亜洲鼓魂」(直訳すると、アジアン・ドラム・ソウルですかね)と名付けられたアルバムから、2曲ほど聴いてもらいましょう。
亜洲鼓魂/Funky末吉(1996年)
こちらはアルバム表題曲。私からすれば、わかりやすい爆風スランプよりも、この、アジアのロックを表現するという高い志と、音楽を始めた頃のような衝動、そしてなんだかわからないアジア的カオスを感じるこの曲の方が素晴らしいと思いますが、みなさんはいかがでしょうか?
ファンキー末吉はドラマーで歌は歌いません。この曲でヴォーカルを歌ってるのは、中国本土のシンガーソングライター、孫国慶です。彼のキャリアを見ていると、とにかく中国本土のあらゆるミュージシャンと共演しています。
R&Rオヤジ/Funky末吉(1996年)
こちらはシンセをフューチャーしたイントロがキャッチーで、タイトルからしてもかなりポップな楽曲であることにはかまいませんが、一方でサウンドは非常にロックで、ファンキー末吉らしい技巧に富んだ楽曲だと思います。この曲でヴォーカルを取ってるのは在日韓国人の朴保。この曲は韓国語で歌われてます。この無国籍感覚。まさにアジアン・ソウル。
ちなみにこの楽曲は、香港を代表するバンド、Beyondのギタリスト、黄貫中。黒豹の李彤。さらに唐朝乐队というこれも当時の中国を代表するバンドのギタリストの劉義君をゲストに迎えていて、中国三大バンドのギタリスト集結!という売りでもあるそうです。
私は彼が日本の芸能界に嫌気がさしたこと、そんな彼が未開拓だった中国本土のロックに出会って行動をともにした理由がなんとなくわかるんですよね。ですので、世代はかなりおじさんですが、とてもシンパシーを感じます。ちなみにバランスを取るために解説しておきますと、この中国でも日本でもない、アジアとしか形容できない摩訶不思議な名アルバムは、日本の芸能プロダクション、ホリプロの協力がなくては完成しませんでした。日中の才能やら資金やらが結集した作品。今こそ聴かれるべきだと私は思ってます。
中国の人口のようにロックバンドが増えていく。。。
こうして崔健、黒豹、あるいはFunky末吉の活動のおかげもあり、中国本土ではバンドブームがやってきました。これ以降に活躍するバンドについては、正直数が多く、また似たり寄ったりなところもあり特筆することが難しいので、日本語で紹介されてる中国ロックで最も充実した中国揺滾DATABASEというサイトを紹介させていただきます。
人口の多い中国を反映して、とにかくバンドの数が多いです。最後に一曲だけ紹介して90年代中国ロックブームの項目は終わりにしましょう。
晩安、北京 (Good Night, Beijing) /鮑家街43號(No.43 BAOJIA STREET)(1997年)
このバンドは、大差がなくなってしまったロックバンドの中でも、ブルースの香りがして好きです。晩安、北京。グッナイ・北京。このバンドのメインヴォーカルだった汪峰(ワン・フェン)は、その後ソロデビューし、北京を代表するシンガーソングライターに成長します。これはそんな彼の、バンド時代の貴重な足跡であり、当時の北京の夜を想起させる楽曲でもあります。
女性シンガーソングライター、艾敬。そして、ダワワ。
さて、とにかくたくさんのロックバンドが出現しました。ただしロックバンドは男性中心の社会で、女性のプレーヤーはほとんどいませんでした。そんなとき、シンガーソングライターの艾敬(アイ・ジン)は颯爽と登場し、我的1997という曲で1992年にデビューします。当時23歳の彼女の初々しい歌をどうぞお聴きください。
我的1997/艾敬(Ai Jing)(1992年)
どの世界にも天才はいるんだなと思わせるといいますか、1989年に崔健が自分のアルバムを出してからわずか3年後、1992年にこの曲を発表した艾敬の「我的1997」は、中国、香港、台湾だけでなく、日本を含む地域でヒットしました。日本では、TBS夜のニュース番組「NEWS23」の当時のエンディングテーマになります。この曲は、彼女のそれまでの人生そのものです。
瀋陽の音楽一家に生まれた艾敬は、大きな夢を持って北京に上京します。途中上海に寄り道しつつも、彼女が向かったのは南の大都会、広州でした。広州からは香港に向かう鉄道があります。ですが、一般の中国人は当時、香港に行くことはできませんでした。私の恋人は香港にいます。1997年になったら、私も香港に遊びに行きたい。
だいたいそんな内容の歌詞が歌われてます。
黄孩子(Yellow Children)/朱哲琴(Dadawa)(1992年)
さて、そんなピュアな艾敬ではちともの足りないというお方はこちらなんていかがでしょうか。世界観!って感じですよね。朱哲琴(ダダワ)は、自分で作詞作曲をして、また自分で歌を歌いますので、シンガーソングライターという概念には当てはまりますが、彼女をシンガーソングライターと言ってしまうのは、ちょっと彼女の活動を過小評価してるように思います。彼女はサウンドアーティストとして、音楽を使った芸術表現を行なっていたり、上海の大学の准教授として中国人に音楽を教えていたり、中国本土に多数存在する少数民族の音楽や文化を、自ら曲をカバーしたりすることで保存活動も行っています。
また、この曲「Yellow Children」というタイトルもそうですが、彼女は海外のリスナーに作品を届けることに意識的であったように思います。どうやらリスナーの数も、国内より国外の方が多いように思います。アーティストが国外で評価されることを目指す際に、外国で流行ってる音楽的手法を自分の作品に取り入れてオリジナルを作っていく方法と、◯◯人であるというアイデンティティを突き詰めて世界に発信していく方法があるかと思いますが、彼女は明らかに後者です。
彼女のような中国人としてのアイデンティティを問う音楽形態は、00年代には萨顶顶(Sa Dingding)というアーティストに引き継がれていきます。それはまた別の時代に紹介させていただきます。
中国本土最初のHip Hop登場!
啦啦啦(La La La)/Xie Dong(谢东)(1993年)
ヒップホップは、ニューヨークのブロンクスという地域で生まれ、sugarhills gangの、rapper's delight(1979年)という楽曲の登場で、MCが一つの曲になったというのが誕生の経緯です。この音楽技法は世界中に広まり、今ではラップしない、ヒップホップの存在しない国はないでしょう。日本では80年代中盤にはすでにヒップホップは歌われていますが、中国本土にラップがやってきたのはラッパーズ・ディライトから24年後の1993年でした。
そうは言っても、この曲は、中国本土最初のヒップホップというだけで、それ以上の価値はないと私には思います。谢东は当時、3人で某某人(Mou Mou Ren)というチームを作っていました。その某某人では、私は以下の曲の方がより好きです。
好了歌/某某人(Mou Mou Ren)、尹相杰(1993年)
この曲では、中国人の子供たちによるラップがフューチャーされてますが、中国の伝統的楽曲と混ざっていて、なんか好きなんですよね。どこにもない、90年代の北京にしか存在しない曲と言えるし。みなさんはどう思われましたか?
この曲は、中国の小説「紅楼夢」から詞を引用しているそうです。90年代のレペゼン中国ポップス/ラップでした。
中国本土最初の国民的アイドルって誰?
さて、ここまでやってきて、そろそろこの項目も最終ブロックですが、何か足りないと思いませんか? やっぱりポップスというのであれば、歌って踊れてルックスも良くて、そう、アイドルの存在ですよね。それまでも様々な女性歌手、男性歌手がいましたが、最初の国民的アイドルといえば、赵薇(Vicky Zhao)でしょう。ヴィッキー・チャオは、国際的には「少林サッカー」や「レッドクリフ」などの中国映画の主演女優として有名ですが、彼女は1999年に中国本土で歌手としてデビューします。
Saturday Night/赵薇(Vicky Zhao)(1999年)
あー、かわいいよねヴィッキー・チャオ。かわいいよねヴィッキー・チャオ。かわいいよねヴィッキー・チャオ。かわいさのあまりに他の言葉を失ってしまいました(笑)。この曲はWhigfieldというアーティストの同名曲です。普通、カバー曲って少なくてもオリジナルを上回ってほしいのですが、この曲はどうでしょう、とかって思わなくもないですが、ヴィッキー・チャオがかわいすぎるのでよしとします。
救生圈 Sha La La/赵薇(Vicky Zhao)(1999年)
あー、僕のチャオ。ねー、チャオは中華料理だと何が好き? 君の大好きな料理を回る円卓の上にたくさん並べて、2人で円卓に乗って回りあってさ・・・(以下略)
大変失礼しました。いやでもね、私はとてもいいと思うんですよ。急に硬派な話になりますが(落差すごい)、1989年には天安門事件で学生が多数殺された中国が、1999年にはこのようにアイドルが登場しているというのは、ここまでの歴史を振り返ると、中国もようやくここまで来てよかったという気持ちでいっぱいです、私は。これは私の持論ですが、政府が最高だというプロパガンダ楽曲が流れる地獄のような世界よりも、逆に政府はよくないという政治ソングが流れる硬派な世界よりも、能天気なポップスが流れる世界こそ平和な世界であると思います。そうして世界は戦争や争いなんかせず、誰彼構わず愛し合えばいいのです。少なくてもそういう気持ちになることは、自分たちの将来を考えるのと同じか、それ以上に重要なことです。ね、チャオ(もういいか)。
一直下雨的星期天(Raining Sunday)/赵薇(Vicky Zhao)(2004年)
ここまでどちらかといえば楽曲の良さというより本人の魅力で乗り切ってきた感ありますが、この曲は楽曲も含めとてもいいと思います。これは2004年。1990年代の曲ではなくなってしまいましたが、この回の主役はヴィッキー・チャオかなという気がしましたので、ここで取り上げさせていただきました。
曲の前奏時、あるいは間奏時に流れる、揺らぎのある、ドリーミーなフレーズがたまりません。5年経って少し大人になったMVの中のチャオにも注目です。
ちなみに、ヴィッキー・チャオは2001年に雑誌でとある衣装を着たところ中国政府のお冠に触れたようで(当連載はあくまで音楽の話題がメインなので、ゴシップ的なこの話題については深く触れません。気になる方は調べてみてください)、その後も様々なことで活動を制限される事態が増えます。彼女はそれに対抗するためか香港や台湾、あるいはシンガポールなどで居住したり仕事するケースを増やしつつ、現在にいたるまで中国最高峰のスターであり続けています。
まとめ
中国本土の90年代は、音楽後進国だったこの国に、ロック、ヒップホップ、シンガーソングライター、そしてアイドルなどが続々登場し、ポップスを構成する主な要素は出揃ったかなという状況です。00年代では、どのような変化がこの国に待ち受けているのでしょうか。乞うご期待です。その前に、台湾、香港の90年代もお忘れなく。90年代の台湾と香港はすごいんだから。
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1927年から、100年分のC-POPを一気に振り返る野心的な連載です!