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【連載】C-POPの歴史 第6回 絶好調の80年代香港ポップス

さて、前回の第5回では、台湾が産んだ奇跡の歌姫、テレサ・テンについて、のちの世代がHip Hopの楽曲でサンプリングされたりする例を挙げながら、手垢がついているように感じるテレサ・テンが歌う曲の楽曲としての強さや、歌声の魅力などに論点を絞って紹介しました。もし気になる方がいましたらご一読ください。

第6回では、再び香港に舞台を戻し、第3回の70年代の香港から時間をすすめて80年代の香港へ。この時期、中華圏全域のポップスの発信基地となっていた香港制作の広東ポップスについて紹介します。


十大中文金曲頒獎音樂會(Top Ten Chinese Gold Songs Award Concert)

第3回、1970年代の香港ポップスのなかで、香港を代表する歌手でありマルチタレント、サミュエル・ホイが広東ポップという新たなジャンルの音楽を切り拓き、世界的にブームとなった香港映画とともに海外に輸出される状況を説明しました。このような時代の上昇気流に呼応するように、香港の音楽シーンはますます活発になります。当時の香港のヒット曲を探す上では、1978年以降はとても楽です。なぜなら、日本で言えばレコード大賞のような、年間のトップ10を決めるイベントが毎年開催されるようになったからです。(十大中文金曲頒獎音樂會)

しかし、日本のアワードもそうですが、ここに出ている楽曲が実態をすべて反映しているかというとそうではありません。一つ目の問題は、映画の主題歌となった楽曲が多く選ばれていて、映画がヒットすれば主題歌が楽曲の良し悪しに関係なく評価されるという現象が散見されます。さらに、香港では海外の曲に広東語の詞をつけたカバー曲が多く歌われていますが、研究家、リスナーとしては香港で100%制作されたオリジナルの楽曲があればそれをクリエイティブ面で評価したいのですが、そういう配慮はこの賞にはないように感じます。

そこで、このアワードにはこだわらず、広東語を理解しないリスナーが現在の観点で聴いたときに聴きどころがある楽曲を中心に紹介したいと思います。

1984年、香港は中国に返還されることが決定する

その前に80年代当時の香港の状況について、重要なトピックがあるので紹介します。

元々イギリスが中国から借りた「租借地」だった香港ですが、かつて中国がイギリスに土地を租借した際に、99年という期間を設定したことを理由に、中国の鄧小平は香港返還を要求します。当時の英国首相、サッチャーは当然反対しますが、中国は譲りません。当時、過密都市だった香港は、自力で市民に水を供給する能力がなく、中国側からの水の供給に頼っていましたが、もしも返還しないなら香港への水の供給を止めると脅されたサッチャーは、1997年に香港を中国に返還することにサインしたのでした。これが1984年のこと。寝耳に水だった香港市民は大変驚きました。香港市民は共産主義だった中国の惨状を知っていたからです。

こうして、1984年以降は、香港でビジネスで成功した人は国外への脱出を検討を開始します。中国の統治では自由にビジネスができないと判断した人が増えたからです。もちろん、歌手や作曲者、芸能関係者も他人事ではありません。この時期のアーティストの特徴として、5〜10年ほど活躍して富を得たら、カナダやアメリカに移住してしまい活動を休止、あるいは制限するアーティストが多いのです。広東ポップのアーティストのWikipediaを見ると国籍が掲載されていますが、香港以外に多くの国の永住権・市民権を持っている人が多いです。アラン・タムはイギリスレスリー・チャンはカナダといった具合に。ずっと香港で現役で活躍する方が少数派だと言えます。

ただ、後から振り返ると、返還が決定した1984年から、実際に返還される1997年までは、香港芸能の黄金期と言えるかもしれません。不思議なもので、香港の返還が決定されたことは1984年以降のポップスに芸術的深みを与えたようにも思えます。

アラン・タム、レスリー・チャン。香港スターの時代

1980年代に入ると、香港には続々と国民的な歌手が登場します。なかでもアラン・タムとレスリー・チャンは大変な人気でした。

我愛雀斑/譚 詠麟(Alan Tam)(1984年)

アラン・タムは1981年〜1987年にかけて、「金曲奬」を23曲も受賞するなど、とにかくこの時代、売れに売れまくってました。どちらかと言えば地味なバラードが多いのですが、香港民の琴線に刺さったか、あるいはルックスが良かったのか、とにかく80年代の香港とはアラン・タムの時代でした。この曲には原曲があります。原曲はイタリアのGazeboというアーティストのI Like Chopinという楽曲。日本でも「雨音はショパンの調べ」という曲名でヒットしました。

朋友/譚 詠麟(Alan Tam)(1986年)

朋友(和訳:友達)は、1986年に発表された楽曲で、香港が中国に返還されるのがきまったあとの楽曲。そんなことも知りながら聞くと、香港人の孤独が感じられるかもしれません。これはカバー曲ではなく、オリジナルの楽曲ですが、日本人の作曲家、芹澤廣明がクレジットされています。

MONICA/張國榮(Leslie Cheung)(1985年)

レスリー・チャンも80年代香港を代表するスターです。彼の最初のヒット曲、「MONICA」は、日本の吉川晃司の同名曲のカバー。原曲が素晴らしいので吉川版もなかなかかっこいい仕上がりですが、レスリー・チャン版も負けずノリノリです。

H2O/張國榮(Leslie Cheung)(1986年)

レスリー・チャンからもう一曲。これも日本人ならお馴染み、沢田研二(ジュリー)のTOKIOのカバー。H2Oとは当然「水」を意味しますが、とにかく恋をして心がホット、喉もカラカラ、早く水で冷ましてくれ! だいたいそんなようなことを歌ってる楽曲です。曲はわかるから歌えるんじゃないかと思って一度カラオケで歌おうとしましたが、広東語が難しすぎて歌えませんでした。広東語の発音の難しさを考えるにはもってこいの1曲です。

香港や中華圏はおろか、日本や韓国でも大人気となったレスリー・チャンですが、残念ながら2003年に香港のマンダリンオリエンタルホテルで自殺し、その短い生涯を終えました。

80年代に活躍した男性のシンガーは、この2人の他に、ジャッキー・チュン(1985年デビュー)、アンディ・ラウ(1985年デビュー)などがいますが、これらのシンガーは90年代に四天王と呼ばれるようになるので、90年代の項目であらためて紹介します。

アニタ・ムイ、サンディ・ラム。当時のトップ女性ヴォーカリスト

男性の大スターがアラン・タムとレスリー・チャンなら、この時代の女性歌手の筆頭はアニタ・ムイ、そしてサンディ・ラムでしょう。

夕陽之歌/梅艷芳(Anita Mui)(1989年)

アニタ・ムイのこの曲は近藤真彦の「夕焼けの歌」のカバー。香港でも大ヒットしました。この曲はプリシラ・チャン(陳 慧嫻)にも千千闋歌という別のタイトルでカバーされています。よほど香港人の琴線に触れるメロディだったのでしょう。確かにこの曲は最初から香港で作られた広東ポップスに聴こえます。

是這様的 (Jungle Drums)/梅艷芳(Anita Mui)(1990年)

こちらは1990年の曲なので厳密に言えば80年代の曲ではありませんが、アニタ・ムイの代表曲に違いないので紹介させてください。とてもエキゾチックで、どこか切なくて、極上のポップスに仕上がってると思います。中国人が大好きなスローバラードでありながら、アレンジが凝ってるので飽きないですし、アニタ・ムイのドスの効いた歌声と謎めいた雰囲気が楽曲の無国籍、多国籍感によく似合ってます。

この曲は、中国語で『阿飛正傳』、英語で『Days of Being Wild』、日本語で『欲望の翼』と名付けられたウォン・カーウァイ監督の映画の主題歌でもあります。『欲望の翼』、『恋する惑星』、『花様年華』などの監督で知られるウォン・カーウァイは、80年代〜90年代の香港を代表する世界的に名声を得た映画監督です。ウォン・カーウァイは何がすごかったのでしょうか。それは、70年代の項目で紹介したジャッキー・チェンやサミュエル・ホイがエンターテイメントに終始したとすれば、映画に芸術を持ち込んでそれが世界的に評価された中華圏最初の監督だと言えるからだと私は考えます。『欲望の翼』は、そんなウォン・カーウァイ監督の2作目にして、今もファンに語り継がれる名曲です。ちなみに、この映画の主役は先ほど紹介したアラン・タムです。特に80年代〜90年代において、ウォン・カーウァイの作品を見れば、その頃の香港のスターが全員出ていたと言っても過言ではありません。

この曲はザビア・クガート(Xavier Cugat)という、スペイン生まれでアメリカで活躍した音楽家の同名曲(Jungle Drum)という曲に、広東語の詞をつけたものです。スペイン、アメリカ、香港など様々な要素が混じり合っていることが、曲が持ってる無国籍感の正体かもしれません。

激情/林憶蓮(Sandy Lam)(1987年)

80年代後半の香港の歌姫と言えば、サンディ・ラムを置いて他にいないでしょう。

そして、この曲も先ほどの曲に続き、ウォン・カーウァイの映画、監督デビュー作である『いますぐ抱きしめたい』(中国語題:旺角卡門)の主題歌です。アニタ・ムイとサンディ・ラム。そしてこれは90年代の話なのでのちに紹介しますが、フェイ・ウォンもウォン・カーウァイの映画の主題歌を担当しています。広東ポップというジャンルのなかでも、特に女性ヴァーカリストの発掘という意味で、映画監督のウォン・カーウァイが果たした役割はとても大きかったと思います。

この映画はモンコック(旺角)という香港の渋谷のような繁華街が舞台で、当時の香港の雰囲気を味わうにはぴったりの映画だと思います。

そしてこの曲はBerlin(ベリルン)というアメリカのバンド(ややこしい)の「Take My Breath Away」という曲のカバーです。原曲も素晴らしいですが、サンディ・ラムのカバーは明るいのに影がある感じがして、その二面性がとてもいいと思います。

三更夜半/林憶蓮(Sandy Lam)(1988年)

この曲は、これまで紹介してきたカバー曲や、朋友のような外国人作曲家を招いた作った曲と違い、作詞作曲アレンジすべて香港で行われた、香港オリジナルの楽曲です(作曲・アレンジはアンソニー・ルン(倫永亮))。この曲はそこまで売れた曲ではありませんが、この時代の香港においてはカバーではなくオリジナル曲のヒット曲ということでこの項目で紹介させていただきます。

さて私はこの記事で紹介するどのアーティストよりも、サンディ・ラムが好きです。この記事と言わず、香港の歌手の中ではサンディ・ラムが一番かもしれません。

時世的にあまりルックスの話を書きたくないんですが、ここまで紹介してきたアラン・タム、レスリー・チャン、アニタ・ムイが美男美女であれば、サンディ・ラムは残念ながら美女というタイプではありません。ただ、彼女の歌声が持つ魅力は他に類型がありません。とにかくこの時代の歌手のなかではずば抜けて歌が上手いと思います。この曲のようなアップテンポの曲でも、バラードでも、歌声が安定してるように感じます。

不不不/林憶蓮(Sandy Lam)(1989年)

こちらは、Nancy Martinezというカナダのアーティストの「For Tonight」という曲のカバー。

70年代後半から80年代前半までがディスコの時代であれば、この頃はディスコからクラブへ移行する時代です。サンディ・ラムの曲は当時のクラブで流行っていたハウスやエレクトロの雰囲気を掴んでいて、当時の人からするとかなり新しい音楽に聴こえたと思われます。

香港という街は湿気がひどく、夏なんかに香港に遊びに行くと小籠包のせいろの中みたいに蒸し暑いです。とても感覚的な話なのですが、サンディ・ラムのヴォーカルはどことなく香港の湿度に似ていると思うんです。私はサンディ・ラムの歌声を聞くと、香港の湿気を思い出します。

たかがカバー曲、されどカバー曲

それにしても香港のヒット曲はカバー曲が多いです。この傾向は1990年代中盤ごろまで続きます。カバー曲のすべてがいいものとは言い難く、安易なカバーも目立つ80年代広東ポップの世界ですが、これはいいというカバーも存在します。いくつか紹介します。

輕輕嘆/葉德嫻(Deanie Ip)(1981年)

こちらはデニー・イップというシンガーの曲です。Dr. Hookの、Sexy Eyesという曲のカバーです。こちらは今聴いてもとにかくおしゃれなアレンジで、地元のDJの間でも頻繁にプレイされる楽曲です。

この曲は香港のレアグルーヴとしてのちのコンピにも収録されています。(→Hong Kong Disco)。

雨中交響曲/甄妮(Jenny Tseng)(1986年)

ジェニー・ツェンという女性歌手による、杉真里の「バカンスはいつも雨」という曲のカバー。原曲もシティ・ポップ感があって最高ですけど、ジェニーのカバーも負けず劣らず素晴らしいです。

ジェニー・ツェンは、国際都市、香港という街を象徴するような人物で、1953年にマカオで生まれます。母は上海生まれ、父はオーストリア人。その後1971年に台湾でデビューし、のちに香港と台湾、両都市で活躍するようになります。そして現在はカナダと台湾の国籍を持つそうです。彼女のように台湾でデビューしてから香港に拠点を移すアーティストは他にも多数いました。

愛的味道/Agnes Chan(陳美齡)(1985年)

我らがアグネス・チャンはこの時代にもしっかり活躍しています。こちらは矢野顕子の「ひとつだけ」のカバーです。70年代の項目でも紹介しましたが、アグネスの歌手としての功績についてはもう少し日本で評価されてもいいのではないかと思います。

ソロシンガーは多いが、バンドは不作

さて、ここまでアーティストがすべてソロだということは気がついたでしょうか。香港のアーティストは、カバー曲が多いという特徴の他に、バンド形態が少ないという特徴が挙げられます。これは日本や、台湾、中国本土などと比べて顕著だと思います。

おそらく、当時の香港は映画制作を頂点とした芸能活動のなかで歌手も行うというニュアンスで、『アーティスト』思考ではなかったからかもしれません。また、一つの都市が一つの国になったような場所ですから、インディーズアーティスト、地下アーティストのようなものが存在する余地がなかったのかもしれません。

1980年代も後半になって、ようやく香港には本格的なバンドが登場します。彼らの名前はBeyond。

大地/Beyond(1988年)

Beyondを含むバンド、ミュージシャンが本格的に活動するのは1990年代に入るのを待たなくてはいけません。ということで、次回以降に紹介させていただきます。

1980年代の香港の楽曲を紹介しましたが、次回は同じく1980年代の台湾、そして中国本土の音楽はどうだったのかを紹介したいと思います。

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