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【連載】C-POPの歴史 第10回 台湾90年代-A面 世紀の変わり目に、台湾音楽のクオリティを上げた真犯人は誰?
中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は中国本土の90年代の音楽を紹介しました。
今回は、場所を変えて90年代の台湾のポップスを振り返ります。前々々回(前前前世みたい)、80年代の台湾音楽を紹介しましたが、今回はその続きの世界がどうなったかです。
断言しちゃいますと、C-POPの中心地は、戦前(1940年代まで)は上海、戦後から20世紀いっぱい(50〜90年代)が香港、そして21世紀からは今のところ台北が中心となっていると思います。2000年以降は、C-POPと聞いてまず思い浮かべるのは、台湾の曲です。
90年代の台湾は、いわば台湾が香港からトップの座を奪う直前の時代と言えます。それは、セールス(売上)においても、クオリティ(仕上がり)においても。そこで今回は、
C-POPの中心地、台湾はいかにしてトップの座を奪ったのか。
台湾の音楽レベルを上げた張本人とは誰なのか?
この記事ではスリリングな犯人探しをしたいと思います! おい! 台湾音楽をおしゃれにしたのはいったい誰なんだよう!?(諸説あります)
金曲奨/ベルヌ条約/普通話
台湾でも1990年から年間の優秀曲を表彰するアワード「金曲獎」が開かれるようになります。
香港では同様の賞が1978年に始まりますので(第6回参考)、少し遅れてスタートしたことになります。ただ、香港のアワードは、曲を評価して順位づけすることが主題でしたが、こちらは部門ごとにかなり細かく賞を作りました。たとえば、作詞賞や作曲賞、アレンジャー賞、さらにミュージックヴィデオ(MV)に対する賞なども最初から設定されていました(のちに香港のアワードも似たようなことをはじめますが)。途中からは曲単体でなく年間の最優秀アルバムを決めたり、言語別(中国語、台湾語、原住民語<台湾に住む少数民族の言葉>)の賞を作ったり。このように、多種多様な側面から評価するスタンスでした。さらに、台湾のアーティストが優遇される面はありますが、香港や別の地域のアーティストも評価対象となったことも大きいです。結果的にこの賞は、C-POPでいちばん権威のある賞になりました。台湾の楽曲のMVは、賞を作り出した1990年から1999年までの間でも格段にセンスがよくなっているのですが、それはアワードのおかげかもしれません。
また、台湾の人々にも遅ればせながら、著作権意識が芽生えて来ました。現在、国際的な著作権法と言えばベルヌ条約とされています(ベルヌ条約は1886年に発足。日本は当初からの加入国でしたが、多くのアジア地域は最初は未加入でした。現在はミャンマー、アフガニスタンなどごくわずかな国を除いて加入済み)。台湾は、事実上の国家でありつつも、国家として国際的に認められていないというアンビバレンスな状態のため、現在もベルヌ条約に未加入です。ですが、1997年には国際水準の著作権保護法を制定(参考PDF)し、法整備も固まって来ました。こうして、歌手や作曲家をサポートする体制も徐々に近代化していきました。
さらに、台湾の人々が中国語(普通話)ユーザーだったことも、香港にはないアドバンスでした。1990年代は、台湾に限らずアジア諸国全体が豊かになっていく時代にも相当します。C-POPの主なリスナーとして、香港、台湾、そして中国本土が挙げられますが、人口、市場のサイズとしては圧倒的に中国本土が大きいので、どの地域のアーティストも中国本土のリスナーを無視できなくなってきました。さらに、華僑、華人と呼ばれる、中国を離れ、世界各地で暮らす中国系の人々も主たるC-POPリスナーですが、かつてはその省の言葉(広東省出身者なら広東語、福建省出身者なら福建語といったように)を話していた人々が、先祖の居住地を離れ過ごすうちに、地元の言葉の使用が減り、すべての人が使用でき、またメディアの言葉でもある普通話(中国語)を利用する割合が増えてきたことも挙げられます。こうして、広東語中心の香港のポップスよりも、普通話中心の台湾のポップスのほうが需要が大きかったことも大きく関わっていると思います。
このようないくつかの条件が重なり合って、準備ができたところに、才能ある若いシンガーが出てくるようになりました。
ではそんな激動期のポップスを見ていきましょう。
グループからソロまでポップスは活況
台湾のポップスは、特に日本の影響が強く、例えば日本で少年隊が流行ったと聞くと、それの台湾版である小虎隊がデビューしたりしました。小虎隊から台湾音楽のメジャーシーンの音楽を振り返ってみましょう。
愛/小虎隊(Xiao Hu Dui)(1991年)
アイドルグループが歌うにふさわしい、愛に溢れた曲だと思います。小虎隊は1989年にデビューし、90年代中盤あたりまで台湾音楽シーンで活躍した、いわば90年代台湾音楽を代表するグループと言えそうです。作曲は陳大力という、当時の台湾音楽を多数手掛けたポップス職人です。
鴨子/蘇慧倫(Tarcy Su)(1996年)
一気に飛んで1996年。90年代も後半に入ってくると、台湾音楽もさらに垢抜けています。蘇慧倫(Tarcy Su/ターシー・スー)は、台北市出身の、等身大の台湾女性というイメージでしょう。小虎隊や、少女隊のような、多少作られたアイドルイメージではなく、どこにでもいそうな女性をイメージした歌手の登場に、進化の過程が見えます。MVも非常に現代的です。
この曲は韓国のロックグループ、Juju Clubの、나는 나(I'm me)という曲のカバーです。原曲はしゃがれ声のガールズロックという印象ですが、台湾人らしいソフトなカバー。個人的にはターシー・スーの方が聴きやすいかも。歌はめぐります。
放手/那英(Na Ying)(1998年)
那英(Na Ying/ナー・イン)は、90年代の中華圏を代表するシンガーの1人です。出身は中国の瀋陽。中国本土での活動を経て、1993年に台湾に移住します。以降は、台湾を本拠地に中華圏全体で活躍する彼女。この曲ではラテン風味にアレンジされた楽曲がおしゃれです。
ここまで紹介して来た台湾のシンガーのなかでも、本格派というイメージが強いです。ま、ポップスに本格派も邪道もないとは思いますが。。
ナー・インは他に、CHAGE & ASUKAのGIRLという曲をカバーした、相見不如懷念 ( I’d Rather Miss You)という曲もあり、それもいいです。
妙妙妙/徐懷鈺(Yuki Hsu)(1998年)
徐懷鈺(Yuki Hsu/スー・ホワイユー)は、元気いっぱいの女性シンガー。彼女は漢民族と、少数民族であるタイヤル族のミックスです。
台湾という土地は、実は少数民族が多数暮らす土地で、アミ族、パイワン族などさまざまな民族が同居しています。特にポップスシーンにおける少数民族の役割は実際の人口比より大きく、今後様々な形で紹介することになると思います。
この曲は、韓国のClon(클론)という男性ダンスグループの도시탈출(City Escape)という曲のカバーです。C-POPはカバーが多いので、原曲と比較してどうか、という批評になってしまうことが多いのですが、この曲は男性が歌う原曲より、女性がカバーした方がいい、と考えたプロデューサー(?)にセンスを感じますね。「♪ルルララルルララ」のところがかわいい。ちなみに本編から少しズレますが、この曲をきっかけに台湾と関わりを持ったClonのメンバー、ク・ジュンヨプは台湾の大Sという女優と2022年に結婚し(リンク)ました。そんなこんなで台湾ではこの曲が再びクローズアップされたとか。なんか、ロマンチックな話〜。
これまで紹介してきた通り、C-POPはJ-POPのカバー曲が多いのですが、台湾に関しては、K-POPからのカバーが多いのも台湾の特徴かもしれません。距離的な近さが原因かもですね。
ここまで、90年代台湾の典型的なポップスを見てきましたが、メジャーシーンでは、それまでの「歌謡曲」スタイルを一新し、ポップスと呼ぶにふさわしい曲が多い印象です。
台湾流R&BとHip Hopのゆくえ
あらゆるタイプの音楽を飲み込んできた台湾音楽界とC-POP界ですが、90年より前の段階では、いまだR&BとHip Hopについては、芯を食ったアーティストは登場してないように思います(第7回、つまり80年代台湾で登場したブラックリストスタジオは方法論としてラップやヒップホップのサンプリング手法を取り入れてましたが、アメリカのそれとはかなり距離がありました)。
そんななか、LA Boyz(中国語名:洛城三兄弟)なる謎のグループがC-POP界に突如登場します。彼らはLAと言ってますが、90年代台湾に現れたグループです。
Jump 跳/L.A. Boyz(1992年)
※先方都合により埋め込みリンクでは見れないようなので、Youtubeに飛んで閲覧してください。
どうでしょう、このクオリティ。英語のラップで捲し立てる彼らこそ、アメリカで生まれたヒップホップの、C-POP界での正式な伝道者と呼ぶにふさわしい存在であると思います。こう書くと、LA Boyzが偉くて、ブラックリストスタジオが偽物のように聴こえるかもしれませんがそうではありません。例えば洋食を日本に広める際に、オムライスとかナポリタンといったメニューを日本人は開発しました。オムライスやナポリタンは日本発祥の洋食で、本来の意味でのフランス料理やイタリア料理ではありません。でも、本格派フレンチやイタリアンも美味しいし、オムライスやナポリタンも美味しい。単にコンセプトの違いであって、そこに優劣はないと思います。ただ、LA Boyzのやろうとしたことは、米国で流行ってるHip Hopをそのまま台湾に持ち込みたかったというところでしょう。
落雨的晚上/L.A. Boyz(1992年)
これは個人的に非常に好きな曲です。先ほどの跳(Jump)と同じアルバムに入ってる曲ですが、この内省を刺激するHip Hopはなかなかの完成度。日本出身で世界的に評価を得ているnujabesとかの雰囲気にも近い、とかっていうと言い過ぎでしょうか。全編のほとんどが英語ということもあり、そもそも1992年にこの路線は早過ぎたのか、話題になることはなかったようです。
就是那樣(That's the way)/L.A. Boyz(1994年)
就是那樣(That's the way)はKC & The Sunshine Bandのカバー(原曲はこれ)ですが、原曲にはない工夫も随所に見られ、台湾式ニュージャックスウィングといった趣です。
L.A.Boyzは結局のところ、セールス(売上)では台湾の歴史に名を刻むことはなかったと思いますが、上記の曲を聴いて分かる通り台湾でもかなり初期の90年代初頭に、うまくHip Hopを翻訳し、のちに続くヒップホップ世代に繋いだ功績があると思います。ただ、彼らは洋楽のモノマネにすぎない、と言ってしまえばそうとも言えますが。
この曲では作曲のクレジットに陶喆(David Tao/デイヴィッド・タオ)がクレジットされていますが、彼こそ90年代台湾音楽を「黒っぽく」、おしゃれにした存在だと思います。では、デヴィッド・タオの曲を紹介しましょう。
飛機場的10:30(Airport in 10:30)/陶喆(David Tao)(1997年)
うん、これぞR&Bですよね。ここでは、LA Boyzのような海外で流行ってるもののモノマネで終わることなく、あるいはブラックリストスタジオのように方法論を拝借してオリジナルを作る、ということでもなく、台湾人にとってのR&Bとは何か、というところまで到達しているように思います。つまり、よくできてる。
デイヴィッド・タオは、まだまだダサかったC-POP界のレベルを、間違いなくグッと上げたアーティストの1人です。R&Bを正しく台湾に導入した、台湾の久保田利伸のような存在と言えるかも知れません。
十七歲(Our Love)/陶喆(David Tao)(1997年)
同じアルバムより。この曲では、冒頭で中国の楽器である二胡をフューチャーしている他、曲のいたるところに中国の意匠が込められていることに気づくはずです。
デイヴィッド・タオは台湾人ですが、香港で生まれ、台湾ではアメリカンスクールに通い、音楽業界に入るまではアメリカに住んでいたこともあるようです。この経験で彼はR&Bを好きになったのだと思いますが、彼の作品に込められたもう一つのメッセージは、華人(台湾人)としてのアイデンティティだと思います。いや、これもR&Bと言えばR&Bだし、中国の曲といえばそうだし、いい曲ですよね。
普通朋友(Regular Friends)/陶喆(David Tao)(1999年)
冒頭のギターソロ、痺れるなあ。リンク先は2003年に歌われたライブバージョンですが、この曲の発表は1999年です。この頃になると、デイヴィッド・タオはR&Bの要素とC-POPの要素を組み合わせて、ミディアムスローの曲を主に発表するようになります。
この曲が含まれたアルバム「I'm Ok」は台湾では43万枚、アジア全域では200万枚を売り上げたそうです。
この、R&BとC-POPを融合させた雰囲気のあるミディアムスローな曲を歌い上げるというスタイルは、特にのちに登場する男性ヴォーカリストにかなり影響を与えたといえます。2000年代以降登場する周杰倫(ジェイ・チョウ)や林俊傑(JJ・リン)、王力宏(ワン・リーホン)などのスタイルも、基本的にはデイヴィッド・タオの曲の延長上にあると言えるからです。つまり、デイヴィッド・タオは「のちにC-POPの普通となる曲のスタイルを90年代終わりに完成させた」という功績があると思います。デイヴィッド・タオはリアルタイムでも評価された存在ですが、この点を踏まえるともっと評価されてもいいように思います。
ここまで読んできたあなた。最初の命題を思い出しましたか? 台湾音楽のクオリティを2000年前後にあげた真犯人がいるって。台湾音楽をおしゃれにした張本人、おしゃれ泥棒はデイヴィッド・タオで決まりじゃないですか? うーん、お前、怪しいぞ。御用御用。
次の項目に進みます。
大物ミュージシャンは1996年〜2003年に立て続けに現れた
台湾音楽シーンの特徴として、2000年前後から活躍するアーティストがことごとくメジャー化、大物化するという傾向がありまして、これは、張惠妹 (A-Mei Chang/アーメイ、1996年デビュー)、蔡依林(Jolin Tsai/ジョリン・ツァイ、1999年デビュー)、五月天(Mayday/メイデイ、1999年デビュー)、周杰倫(Jay Chou/ジェイ・チョウ、2000年デビュー)、林俊傑(JJ Lin/ジェイジェイ・リン、2003年デビュー)などに当てはまります。C-POPの中心地が香港から台湾に移動したのは、結局のところ今紹介した人たちがことごとく人気になったからです。
90年代の彼ら、彼女らのデビュー当時はどんな感じだったのか、振り返ってみましょう。
和世界做鄰居/蔡依林(Jolin Tsai)(1999年)
まずは台湾を代表するシンガー、蔡依林(Jolin Tsai/ジョリン・ツァイ)です。この曲はデビュー曲です。彼女はのちにかなりキャラチェンジしていって、ファッションアイコンのようになっていくのですが、この時点ではまだ初々しさが残ります。
この曲は、世界平和を求める曲です。羽を広げて、世界に飛び立てる、という曲。この曲に限らず、C-POPの楽曲には「ここから飛べる」「空に飛んでいって自由になる」というイメージの曲が昔から多いように思います(例:天空/フェイ・ウォン(香港)、飞了/崔健(中国)、隱形的翅膀/アンジェラ・チャン(台湾)あるいはバンド名にそもそも願望が含まれるMy Little Airport(香港)など)。ポップスというのは基本的に自由を希求する音楽で、世界中にそういった音楽は存在すると思いますが、それにしても日本より圧倒的に多い気がします。
これは私の推測に過ぎませんが、中国/台湾/香港人は分断され、台湾は国とも認められない。この状況はベストじゃない。垣根なく飛んでいきたい。そういうニュアンスがひょっとすると根底にあるのではないでしょうか。
擁抱(Embrace)/五月天(Mayday)(1999年)
続いて、台湾、いや、C-POPを代表するバンド五月天(メイデイ)ですね。この曲はデビューアルバムの中の代表曲です。メイデイが本格的にブレイクするのは翌2000年のことなので、これは大ブレイク前の曲です。が、とてもいい曲です。
メイデイは、ほぼすべての詞はヴォーカルの阿信が書いています。この詞もそうですが、年頃の女性が書いた詞のようです。壊れそうな感覚がとても女性っぽい。のちに台湾女性の心を掴むのもうなづけます。
今回はあくまで90年代のまとめ。ジョリン、五月天については2000年代以降に改めて紹介しますのでお楽しみに。
A-Mei(アーメイ)が築いた、本当の意味での台湾の調和
さて、先ほど紹介した大物ミュージシャンでも、最も古くから活躍していたのが張惠妹(A-Mei/アーメイ)です。ここで彼女の曲をいくつか紹介してこの回を締めたいと思います。アーメイは、少数民族(台湾では原住民と呼ばれます)のプユヌ族です。ここまでも登場したように、台湾の音楽界は、原住民と呼ばれる少数民族が活躍しています。しかし、かつて原住民は差別の対象でもありました。
一方で、多くの少数民族がそうであるように、彼ら、彼女らはオリジナルのリズム、ノリを持っていて、それは時に大変魅力的でもあります(沖縄民謡に日本人が魅力を感じるのも同じ理由です)。別の項目で紹介しますが、彼ら、彼女らの中にはインディーズシーンで音楽活動を行なっている人もいました。ですが、広く台湾の大衆に届くことはありませんでした。アーメイは、原住民としてのアイデンティティを持ったまま、ポップスの世界で活躍した最初のアーティストです。つまり、私の理解では「漢民族の住む台湾」と「原住民の住む台湾」をつなげた人と言え、アーメイ以降は原住民アーティストがメジャーシーンで活躍する機会が増えました。
姊妹/張惠妹 (A-Mei)(1996年)
こちらはアーメイのデビューアルバムに含まれている曲です。アーメイのすごいところは、いきなりアルバムが売れたという点が挙げられます。フォークソングの世界などを除くと、アルバムから売れるというのはあまり例がないケースだと思います。
この曲を聴くとデビュー曲の時点ではかなりプユヌ族っぽさを前面に打ち出していると思います。母親や姉妹がコーラスで参加するなど、家族の存在をイメージさせる楽曲です。それにしても、アーメイの歌声の力強さはデビュー曲とは思えません。
そしてここにも歌詞中に「飛ぶ」モチーフが登場します。この曲の作曲は80年代から活躍していた台湾のシンガーソングライター、張雨生(Chang Yu-sheng)。
聽海/張惠妹 (A-Mei)(1997年)
「姉妹」から1年後、アーメイは初期の最高傑作とされるアルバムをリリースします。タイトルは「Bad Boy」(Wikipedia)。台湾だけで138万枚ものアルバムが売れたそうです。台湾の人口(2300万人/日本の約5分の1)という人口を考えると、とんでもないヒットだったことがわかります。そんなBad Boyの代表曲が「聽海」で、彼女の初期の代表曲のひとつです。
Bad Boyのアルバムの制作者のクレジットを見ると、張雨生、伍思凱、陳志遠、劉志宏、鍾興民など、当時の台湾の最高峰の制作者が多数関わっていて、彼女に対する期待値は相当高かったようです。
High High High/張惠妹 (A-Mei)(1998年)
この曲はアーメイの代表曲と呼べる曲ではありませんが、なかなかエキゾチックでいい曲だと思いませんか? ラテンっぽさにR&Bっぽい要素もあって、アーメイの曲としてもかなりおしゃれ。
む? R&B? おしゃれ? なんか匂うな。制作者のクレジットを見てましょう。陶喆(デイヴィッド・タオ)だ(わからない人は最初から読み直して)! この曲は作詞、作曲、編曲、制作(つまりほぼ全体)でデイヴィッド・タオがクレジットされてます。この曲はタオが持つR&B要素と、アーメイの歌唱力が綺麗にハマっていて、とてもダンサブルで色っぽく(つまり洋楽っぽいと言えるかも)、極上のR&B風味、ラテン風味のC-POPの一つとなっています。この曲はアーメイの代表曲とは言えませんが、こういったクオリティの高い楽曲を積み重ねてきたのが、彼女の人気に繋がっていたのだと思います。
不要騙我/張惠妹 (A-Mei)(1998年)
同じアルバムより、こちらもタオワークス。アーメイの息遣いが耳元にまで聴こえてきそうな、色っぽい曲です。ヘッドフォンで聴きたい音楽ですね。
曲のクレジットではデヴィッド・タオがバッキング・ヴォーカルとしてクレジットされてますが、コーラスの他にラップの声も明らかにデイヴィッド・タオです。これだけR&B風味なのに、薄く中国の楽器の音色も聴こえてくるし、これはアーメイのアルバムの中の曲ですが、タオの90年代の総決算とも言えるような曲です。とても1998年の台湾製とは思えない、現代的な仕上がりになってます。
つまり、おしゃれ。うーん。やっぱりお前だなデイヴィッド・タオ。捕まえたぞ!
まとめ
歴史とはさまざまな検証のされ方があり、正解は一つではありません。私は記事にエンタメ性を持たせるために、ある1人のシンガーソングライターがすべてを変えた(真犯人)のような書き方をしてしまいましたが、事実はそうではなく、さまざまなミュージシャンの努力の結果、あるいはアワードの創設やら著作権保護のような裏側の整備までがつながった結果、台湾音楽のクオリティは間違いなく90年代に大きく前進しました。これが事実です。そこに鎮座したのが、アーメイのような90年代から活躍するスター、あるいはジェイ・チョウなど2000年代以降やってくるスターです。彼らの前には、ヒップホップを直訳したLA Boyzの試行錯誤もあったし、R&B風味のC-POPというのちのスタンダードを作った、デイヴィッド・タオの大きすぎる影響があったことは、C-POPファンであれば覚えておいてもいいかもしれません。アーメイがなしとげた、原住民と漢民族の融合も、台湾音楽界において大事すぎる一歩です。
さてここまで書いてきまして、なんとこれは実はこれは90年代のメジャーシーンの歴史であります。この裏には、インディーズシーン、ライブシーンの90年代があります。いわば今回の記事が90年代台湾のA面なら、B面があります。インディーズとは、単にマイナーというわけではなく、現在まで続く台湾の重要な文化なので、ここにもスポットを当てる必要があります。乞うご期待。ライブシーンから現れた伝説の男とは?
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