【連載】C-POPの歴史 第12回 香港の90年代。返還と困難の中で輝くオリジナリティ
中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は台湾の90年代の音楽の裏面ということで、ライブシーンのスター、ウーバイ(伍佰)や、台湾の少数民族(原住民)が歌う曲、台湾語や客家語を使った楽曲などを紹介しました。
今回は、90年代の香港音楽の歴史を振り返りたいと思います。香港がイギリスから中国に返還されたのが1997年のこと。激動の時代、香港の音楽はどんなことがあったんでしょうか?
今回考えたいのは、世界でも類を見ないカバー曲天国だった香港が、2000年代以降、オリジナルな楽曲を作る風潮が生まれたこと。オリジナルソングを重視する傾向はどこで生まれたのでしょうか。重要なきっかけはなんだったのでしょうか? あるいは香港が中国に返還されることは、音楽業界においてどんな意味を持ってたんでしょうか?
香港の80年代は第6回で紹介したように、以下のような感じで、アラン・タム、レスリー・チャン、アニタ・ムイ、サンディ・ラムなど大スターが登場する煌びやかな時代でした。音楽界というよりも、ザ・芸能界。そんな雰囲気の1980年代です。その気分のまま90年代に突入します。
今回は、返還前(1990〜1997年6月30日まで)と返還後(1997年7月1日〜1999年)で明確に時代を分けました。と言っても返還後の2年半はワンブロックのみです。前半と後半で音楽の雰囲気も微妙に異なるので両者の雰囲気の違いも感じてください。
香港の音楽産業は、絶頂期の90年代を最後に、2000年代以降は、売り上げ規模や知名度の面でも台湾勢に敵わなくなります。ただ、同時に2000年代以降は、それまでのカバー曲頼りだった音楽界を離れ、香港に真にオリジナルな音楽が登場する時期でもあります。90年代はいわば、時代の変遷期。では、その時期に何があったんでしょうか? 今回は香港がカバー曲偏重を脱するきっかけについて考えてみましょう。
【返還前】「四大天王」の時代
さて、1990年代はじめ。特に人気のあった4人の男性歌手をまとめて「四大天王」と呼ばれていました。ここで4人の天王を紹介したいと思います。皆様のお好みは4人のうち誰でしょう?
每天愛你多一些/張學友(Jacky Cheung)(1991年)
張學友(Jacky Cheung/ジャッキー・チュン)は、四大天王の中でも頭ひとつ抜けた存在かもしれません。1994年にはビルボード・ミュージックアワードでアジアで最も人気がある歌手として紹介されました。翌、1995年にはレコード・CDの売り上げがあのマドンナを上回り、マイケル・ジャクソンに次いで世界2位だとニューヨークタイムズで紹介されました。(中国人の人口を考えても、すごくないっすか? この記録。)
この曲は、サザンオールスターズの「真夏の果実」に、広東語の詞をつけたものです。アレンジも抑制が効いていて、おしゃれだと思います。オリジナルの歌唱も素晴らしいですが、ジャッキー・チュン版もかなりいいと思います。不思議と中国歌謡にこの曲がハマってます。
国外に移住するアーティストも多い中、ジャッキー・チュンは今も香港に住民票を置き、香港で活動を続けています。大きな病気もなく、精神を病むこともなく、特定の政治運動に思い入れることもなく、現在も勢力的に香港、台湾、中国の全地域で活動中。一貫した芸能活動は、ある意味で最もプロフェッショナルなシンガーと言えるかも。
真我的風采/劉德華(Andy Lau)(1992年)
劉德華(Andy Lau/アンディ・ラウ)も、ジャッキー・チュンに並ぶとも劣らない大スターでしょう。1985年から活動をはじめ、1990年代初めには香港の人気歌手の1人としての地位を固めました。
「真我的風采」は、アンディ・ラウ初期の名作。愛する苦労を歌った曲は、香港、中華圏はおろか、遠く離れた当時の日本の女性にも刺さったことでしょう。中国らしい伴奏も楽しい。
アンディ・ラウは、四天王の中でも、特に俳優としての評価がとても高く「欲望の翼」(1990年)、「インファナル・アフェア」(2002年)、「桃(タオ)さんのしあわせ」(2011年)など、名作への出演が多く、世紀を跨いで活躍中です。
夏日傾情/黎明(Leon Lai)(1993年)
黎明(Leon Lai/レオン・ライ)。甘いマスクに信頼感がおけそうな表情、やや甘ったるく優しい歌声。さぞかし当時の女性は好きだったろうな(今もダンディだけど)。
私にとってやはりレオン・ライもシネマの中の人という感じで、「天使の涙」(1995年)、「Love Song」(1996年)など数々の名作に出演しています。
ちなみに現在のレオン・ライは、A Musicという芸能プロダクションを経営中。所属タレントで有名なところでは、のちにこの連載でも取り上げるジャニス・ヴィダル(衛蘭)などがいます。
火熱動感La La La/郭富城(Aaron Kwok)(1992年)
四大天王、最後の1人は、郭富城(Aaron Kwok/アーロン・クオック)。彼は四天王の中でも舞王(ダンス王)という愛称があり、ダンスに定評があります。この曲の原曲は爆風スランプの「東京ラテン系セニョリータ」。爆風スランプの1人、ファンキー末吉は90年代に単身、北京に渡って活躍するのですが(第9回参考)、それはまた別のはなし。
アーロンはとにかくダンスが売りで、たとえば香港でパラパラダンスのブームがあったときは、Para Para Sakura(パラパラ桜)という映画に主演し、主題歌も担当してます(Para Para Sakura MV)。舞王、ここにあり。
香港芸能界はスターになればなるほど、病気や精神疾患、政治的な問題で活動を制限されるなど不幸に見舞われがちですが、四大天王に関しては大きな不幸もなく、順調な芸能活動を続けられているようです。
【返還前】その他90年代返還前の香港ポップス
Happy Together/鍾定一(Danny Chung)(1997年)
ダニー・チュンは、1960年代から「D'Topnotes」というバンドのキーボーディストとして活躍し、1970年代には、「New Topnotes」と名前とメンバーをリニューアルしてバンドを再結成しました。結構いいカバー出してるんですよ(→こんな感じ)
一貫して英語の曲を歌っていたため、あまり表舞台に出てくることはなかったようです。この曲、Happy Togetherは、同名英語タイトルの映画、日本語名「ブエノスアイレス」の主題歌となったことで、一躍世界中で聞かれることになりました。ブエノスアイレスの監督といえば、そうです、ウォン・カーウァイです。ウォン・カーウァイの琴線に引っかかったから、ずっと香港の地下で演奏を続けてきたダニー・チュンもメジャーになりました。
男性ソロが四大天王を中心に回っていたとすれば、女性ソロは実力派シンガーが多数いたという印象です。
飄雪/陳慧嫻(Priscilla Chan)(1991年)
陳慧嫻(Priscilla Chan /プリシラ・チャン)は、1984年にデビューし、翌1985年には日本語でもデビューしたことから、日本での知名度も高いシンガーの1人。
この曲は、花咲く旅路(サザンオールスターズの原由子のソロ)のカバー。この曲も桑田佳祐の作曲です。この曲といい、ジャッキー・チュンの真夏の果実といい、桑田佳祐の曲はどうして広東語や中国語にしっくりハマるのでしょうか。エキゾチックなムード(日本でも西洋でもない、東洋的なムード)があり、最初から広東語や中国語で歌われるために作られた楽曲なんじゃないかと疑うほどです。
さて、ここでフェイ・ウォンと、あと1980年代でも紹介したサンディ・ラムの90年代の楽曲も紹介したいのですが、長くなりますので次回以降、個別回で紹介することにします。お楽しみに。
また、女性ソロシンガーについては、返還後に活躍するアーティストも多いので、そちらは後半で取り上げます。
【返還前】広東語のHip Hopの始祖、軟硬天師について
第7回の台湾80年代で紹介したブラックリスト・スタジオ、また第10回のLA Boyz、第11回の豬頭皮(Jutoupi)、第9回で紹介した90年代中国本土の某某人(Mou Mou Ren)など、1989年から1990年代初頭にかけて、C-POP界にもラップという黒船が上陸してきました。香港も例外ではありません。
香港Hip Hop界の始祖ははっきりしてます。軟硬天師(Softhard/ソフトハード)。1991年のデビュー曲を聴いてもらいましょう。
川保久齡大戰山本耀司/軟硬天師(Softhard)(1991年)
日本を代表するアパレルブランド、コムデギャルソンの川久保玲と、ヨウジヤマモトの山本耀司の名前を冠したデビュー曲。とにかくおしゃれな服を買うために奮闘する若者の姿をコミカルに表現した楽曲。たくさんブランド名が出てくるので数えてみてください。
なお、この曲はカリフォルニアのヒップホッパー、ミックスマスターズ(Mixmasters)の、Don't Cha Wanna Be Lovedという曲をサンプリングしています。
廣播道FANS殺人事件/軟硬天師(Softhard)(1993年)
1993年の廣播道FANS殺人事件は、ソフトハードの代表曲と言っていいでしょう。廣播道とは、香港に実在する通りの名前。放送局がたくさんあったことから、メディアを意味する広東語の名前がつけられた通りです。とにかくたくさんの香港スターの名前を読み上げていて、ファンであることを何度も連呼しています。実はソフトハードは元々ラジオDJとして活躍していましたが、そのキャラクターにあった曲だと思います。あなたは歌詞中の有名人を何人見つけられましたか?
請勿客氣/軟硬天師(Softhard)feat. 王菲(Faye Wong) (1993年)
ヒップホップといえばフィーチャリングですよね。feat.◯◯とかってクレジットしてシンガーとコラボして。この曲はおそらく中華圏のHip Hopで初めて、歌手をフィーチャリングをした楽曲です。しかもなんと、あのフェイ・ウォンをフィーチャリング。フェイ・ウォンが大ブレイクする直前だったのでギリギリ実現したというところでしょうか。
前述の2曲がうるさいってことであまりお気に召さない方も、若き日のフェイ・ウォンのヴォーカルが入ったこの曲はお気に召すのではないでしょうか。
歌詞は、「私たちは子供の頃から好きな人に好きと伝えることを教わらなかったけどなぜだろう?なぜ好きと言うのを躊躇するんですか?」というソフトハードの疑問から始まります。フェイ・ウォンは続けて「恋人に秘密を打ち明けて、愛してると大声で伝えてください」と歌います。なるほどメッセージ性ある楽曲。あなたは恋人に秘密を打ち明けて、愛してるとちゃんと伝えていますか?
私はこの曲、いまだにたまに聴いてしまう。いい曲。原曲は、Galliano(ガリアーノ)という90年代クラブジャズを代表する、Prince Of Peaceという曲。
最菲精選/林海峰(Jan Lamb)(1997年)
ソフトハードは2枚のアルバムを発表し活動を休止しましたが、その後1997年(ギリギリ返還前)にメンバーの1人、林海峰(Jan Lamb/ジャン・ラム)はソロデビューします。こちらはソロのデビュー作より。
デビュー当時のソフトハードはDJ上がりのおふざけラッパーという感じですが、その後作品のクオリティを上げていき、香港最初のHip Hopを体現したという事実も含め、香港では大変尊敬されているミュージシャンです。確かに少しずつ曲のクオリティが上がってる気がします。
この曲はフィリピンから来た「エルマー」と言う名の家政婦が、香港の家庭で奮闘する話と見受けられます。移民や家政婦さんが一般的な香港を象徴する曲と言えるでしょう。
こうして、ソフトハードから始まった香港のHip Hopは、2000年代になり一気に花開くことになります。お楽しみに。
【返還前】Beyondの悲しい結末/香港バンド物語
男性ソロ、女性ソロ、楽しいヒップホップグループと様々な表現があるなかで、残念ながらロックバンドは不作でした。90年代といえば世界的にバンドブームの時代なので、この時期ですら香港には活躍するバンドの数が少なかったと言うのははっきり言って異常だと思います。そのなかで成功したのは、Beyondと達明一派(Tat Ming Pair)でした。
第6回、80年代の香港の回の最後で紹介したBeyondは、90年代には香港のトップバンドとなりました。
長城/Beyond(1992年)
この「長城」という曲は、Beyondの代表曲です。中国的な意匠が施された前奏がかっこいいですよね。香港音楽、C-POPに興味がない方でも、前奏で流れるイントロに聴き覚えがあるかもしれません。この曲は、90年代日本の人気バラエティ番組「進め!電波少年」のオープニングで使われた曲です。
Beyondのことを紹介するにあたって、日本人としてはどうしても知っておかなければいけない事件があります。実はBeyondは、バンドが少なく、切磋琢磨し合えない香港の状況に嫌気がさし、1991年に日本に移住し勝負をかけます。しばらく芸能活動を続けた1993年、フジテレビのコント番組「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」の収録中の事故で、バンドのリーダーであり、ボーカル、多くの曲の作曲者でもある黃家駒(ウォン・カークイ)が死亡してしまうという痛ましい出来事がありました。この事件後もBeyondは活動を続けますが、残念ながらフロントマンを失った代償は大きく、以降はウォン・カークイが生きていた時代ほどは活躍できませんでした。
香港と日本の芸能界にはこの事件以前にはかなり親密な付き合いがありましたが、この事故は後の両地域の芸能界の友好関係に大きなヒビが入りました。
每日一禁果/達明一派(Tat Ming Pair)(1996年)
さて、Beyondと同時代のバンドで、より実験精神を打ち出したペアが、達明一派でした。一聴してわかる通り、様々なギミックが使われた曲です。似たり寄ったりの曲が多かった香港音楽界に一石を投じたかったであろうことは、彼らのキャリアと、楽曲を聴けばよくわかります。
達明一派は2021年に再結成し、アルバムを発表するなど勢力的に活動していますが、香港の雨傘運動以降、常に中国政府を批判する立場を貫いたため、中国本土では彼らの曲を聴くことはできません。
香港にバンドが少ないのは、2024年現在まで一度も変化がありません。香港音楽界が台湾に水をあけられた状況は、中国返還もあるかもしれませんが、そもそも面白いバンドをあまり生み出せなかったのが大きかったかもしれません。数少ない希望の星だったBeyondも不慮の事故に遭遇してしまいましたし。。。
【返還後】香港音楽冬の時代を彩る女性シンガー
ここからは、1997年7月1日以降。ついに中国領となった香港の音楽を紹介したいと思います。これまでたくさんの曲を発表してきた香港スターたちも、1997年以降は明らかに発表の機会が減りました。残念ながら香港音楽は一時的に冬の時代に入ってしまいます。でもちゃんといい曲はあります。むしろ、音楽をやりたい人だけが残ったと言えるかもしれない。
Di Da Di/李玟(CoCo Lee)(1998年)
李玟(CoCo Lee/ココ・リー)は、中華圏を代表するシンガーの1人。1975年に香港で生まれ、10歳の頃にアメリカ・サンフランシスコに移住します。その後1993年に香港に戻り歌手活動を志すも、香港より先に台湾で1994年にデビューが決定します。さらに翌1995年には英語のアルバムを発表。NBAバスケットボールのハーフタイムショーで初めて歌った中国系女性シンガーでもあり、その活躍はアジア圏にとどまりません。
紹介したこの曲は、彼女のシンガーとしての実力を感じられる大人なR&B。普通話(中国語)で歌われてます。この曲はマリア・モンテル(Maria Montell)というデンマーク人シンガーの同名曲のカバー。これもカバーといえばカバーなんですが、その中にココ・リーの個性も垣間見れます。
Love yourself/莫文蔚(Karen Mok)(1997年)
そして、日本でもお馴染みの莫文蔚(Karen Mok/カレン・モク)です。カレン・モクは返還後の香港を代表するシンガー。彼女は1993年にデビューしますが、曲が本格的にヒットしたのは、この1997年10月(返還後!)発売の「Love yourself」から。そして、返還後に登場した香港ミュージシャンとしては数少ない、日本でもそこそこ知名度の高いシンガーです。
カレン・モクは、その存在感からアイドル歌手と誤解されることも多いのですが、この曲では自ら作詞を手掛けています。一方、作曲は日本人の作曲家、当時、アイドルのSPEEDなどの楽曲提供で知られていた伊秩弘将です。何度もカバーか否かにこだわってしまって恐縮ですが、香港から日本の伊秩弘将に発注して作ってもらったオリジナル楽曲です。
返還後の楽曲としてココ・リーとカレン・モクの曲をピックアップさせていただきましたが、彼女らもやはりカバー曲を歌ってますが、どことなくそれまでの世代よりも、自分たちの表現を模索することに意識的な雰囲気は感じます。彼女らは香港の音楽史に当てはめると、より自分たちの表現を突き詰める時代に向けた移行期だと思います。
変化を乗り越えて、次世紀へ
さて、こうして駆け足でいろいろあった香港90年代を振り返ってみましたが、やはり最も大きなトピックは香港の中国返還、そしてBeyondウォン・カークイの不慮の事故死でしょう。大きな喪失に日本が関わっているというのは、とても悔しい気持ちになります。
ただ、彼の死は無駄だったのでしょうか。香港を代表するスターであり、有能なソングライターでもあった彼はなぜ日本に行くことになったのでしょうか。自作曲をバンド演奏してもあまり求められない香港音楽界に嫌気が指し、自分たちの音楽をきちんと評価してくれる人に出会うために日本に進出したと言われています。つまり、香港の音楽業界にオリジナリティを生み合い、評価し合える土壌があれば彼らは日本に行かなかったかもしれない。そう考えた香港音楽業界は、少しずつオリジナル楽曲を増やす方向に邁進します。
日本人でC-POPを紹介している数少ない同士の投稿を見ると、「日本の◯◯という曲のカバーです!」という投稿をよくみます。日本人として、日本の曲が海外で使われているというのは大変誇らしいことです。それに、そうやって多くの日本人が理解できる話題を投稿することで、より多くの人に、C-POPを知るきっかけになっていると思うので、素晴らしいことだと思います。
ただ、ヴィッキー・チャオ大好きー! フェイ・ウォン大好きー! な軽薄な私でも、Beyondのことを考えると、自分たちの音楽を模索しようとした地元のアーティストの味方をしたいなと考えています。これは私の個人的な嗜好の問題であり、私が正しいと言いたいわけではありません。音楽に正解はないよ。アシカラズ。
次回予告
今回の90年代の香港で、あえて紹介しなかったフェイ・ウォン。そして彼女と匹敵する歌姫であるサンディ・ラムについて、次回で紹介します。