【連載】C-POPの歴史 第1回 C-POPはどこから来たの? 1920年代〜 老上海「時代曲」の時代
これまで、卒業論文が書けるぐらいここ数年研究してきたC-POPについて、歴史や時代背景を含めながら連載として書き記すことにします。いつか有償にして電子書籍化したいと思ってますので、お財布に余裕がないよ、という方は連載中にぜひ読んでください。大体全20回!ぐらいの予定です。楽園の地図の通常回と違い、かなり研究的な内容になってますが、Youtubeのリンクなどふんだんに使い、なるべく読みやすいテキストを心がけます。
当連載におけるC-POPの定義
C-POPとは、中国語(多くはマンダリンと呼ばれる普通話・標準語ですが、香港を中心に使用される広東語の楽曲もかなりの量が作られていて、主にこの2つの言語の楽曲をこの後紹介していきます)で歌われるポップス全般を指します。日本の歌謡曲がいつの間にかJ-POPと呼ばれるようになったように、C-POPもせいぜい00年代頃から一般化した言葉だと思います。ではその前まで中国語のポップスはなんと呼ばれていたかというと、マンドポップ、広東ポップなどと呼ばれていました。この連載においては狭義の00年代以降の商業的なポップスではなく、広義の意味、中国語・あるいは中国人・台湾人・香港人が作ったポップス全般と定義して紹介していくことにします。なお、中国本土のアーティスト、楽曲名は簡体字、香港、台湾のアーティストは繁体字で記すため、連載全体を通して簡体字と繁体字が混ざることをご了承ください。
C-POPはどこから来たの?
さて、中国のポップスはどこで生まれ、どこからスタートしたのでしょうか。時計の針を100年戻して、1920年代の上海に飛びましょう。
当時の上海には、租界と呼ばれる外国人居留地がありました。1842年の南京条約によって開港した上海は、大英帝国をはじめヨーロッパの大国との貿易が始まって以降、中国の人口密集地に近い立地であること、当時北京と並ぶ二大都市の一つ南京から近いこと、中国で最も大きな大河、長江の河口であり、ここに川の流域から集まった貿易品が集まったことなどの地理的な要因で、中国随一の港となりました。外国人居留地には貿易業を営むイギリス人、フランス人、アメリカ人、そしてのちに日本人など様々な人種の人々が暮らし、国際都市となりました。事実上、この租界地は当時の中国清朝の法が適用されない治外法権となっていて、独立した市議会を持つ自由な場所として、一旗上げようと当時の列強のビジネスマンも多くこの地にやってきたわけです。彼らは貿易で莫大な富を得ました。成功した彼らは地元の中国人を雇い、日常的な世話をさせたり妾を作ったりしました。1920年代の上海租界には100万人が暮らすようになり(外国人10万人、中国人90万人)、東洋のパリと呼ばれるようになりました。
参考文献: 上海 多国籍都市の百年
さて、こういう土地で生まれた音楽が、中国の伝統的な歌唱に、西洋で流行していたジャズのメロディや、映画音楽を取り入れたようなポップスでした。この楽曲は当時は時代曲(Shidaiqu)という名前で親しまれました。では、最古のC-POPと思われる、毛毛雨(1927年)を聴いてもらいましょう。
毛毛雨/黎锦晖(Li Jinhui)(1927年)
もちろん、これ以前にも中国には民謡や流行歌の類はありました。しかし、それらは口述で伝えられていました。こうやって作詞作曲され、譜面を元に録音されレコードが作られ、それを商業目的で売るという意味で、現代の意味でのポップスが最初に作られたのは、1927年の毛毛雨が最初であったと言われています。女性ヴォーカルが現代的な感覚ではちょっと不快なほど高音で張り上げるタイプではありますが、演奏は西洋の流行を取り入れたビッグバンドジャズ風で、当時としてもレベルが高いように感じます。こうしてみると中国最初のポップスは、東洋と西洋の要素が混じり合うハイブリッドな音楽で、それは上海という国際的な街でしか生まれなかった音楽だと言えるでしょう。
毛毛雨は日本語で言えば霧雨という意味です。
演奏家にはひょっとしたら外国人が混じっている可能性はありますが、作詞・作曲者の黎锦晖は湖南省生まれの中国人ですし、歌っている女性も中国人なので、この曲がC-POPのルーツ、起点となると思います。
それにしても、それまでポップスを聞いたことがない100年前の中国人が生まれて初めてこのモダンな曲をどんな気持ちで聴いていたのでしょうか。
時代曲の最盛期(1940年代)と七大歌星(歌姫)
こうして上海を中心に広がっていた都市文化と時代曲は、1940年代に入り絶頂期を迎えます。当時ヴォーカルを担っていた女性は歌星(ミュージックスター)と呼ばれ、大変な人気がありました。特に人気だったの7人の女性歌手を七大歌星と呼ばれるようになりました。
七大歌星
・白虹(Bai Hong)1931年デビュー
代表曲/醉人的口紅
・周璇(Chow Hsuan) 1932年デビュー
代表曲/何日君再来(この後詳しく紹介します)、天涯歌女
・龚秋霞(Gong Qiuxia)1933年デビュー
代表曲/夢中人
・姚莉(Yao Lee) 1935年デビュー
代表曲/玫瑰玫瑰我爱你(後述)、 恭喜恭喜(後述)
・李香兰(Lei Heunglan) 1938年デビュー
代表曲/苏州夜曲(後述)、夜来香(後述)
・白光(Bai Guang) 1943年デビュー
代表曲/等着你回来
・吴莺音(Wu Yingyin) 1945年デビュー
代表曲/大地回春
7人の歌手のうち、特に人気があったのは周璇のようです。彼女の歌声は、金嗓子(ゴールデン・ボイス)と呼ばれ親しまれていました。周璇は、当時の中国の美の基準と呼ばれ、親しみやすい庶民的なイメージも相まって、絶大的な人気を誇ったようです。
参考文献:チャイニーズ・ポップスのすべて
この後、七大歌星の曲を中心に、当時の大ヒット曲や、現在でも支持される名曲を中心に、当時の名曲を5曲ほど紹介します。
何日君再来/周璇(1937年)
これぞ中国国民のソウルミュージックでしょう。何日君再来(ホーリー・ジュン・ザイライ)は、「三星伴月」という映画の挿入歌として劉雪庵の作曲によって作られた、中国最古のヒット曲の一つと言えるでしょう。途中入る男性の語り? 呼びかけ? の部分もイカします。素朴なバンドネオンの伴奏に哀愁を感じます。この曲は挿入歌でしたから(主題歌ではなく)、この曲がこれほど長く愛される楽曲になろうとは作曲者も考えなかったでしょう。歌詞は、「今夜別れた後、またあなたに会えますか?」と歌っていて、明日どうなるかわからない2人の関係性を歌っています。切ないですね。
この曲は現代ではどちらかと言えばのちにカバーしたテレサ・テンの曲として有名です。何日君再來は少し歌詞を変更し、1978年に発表されます。原曲の発売から40年経って再び注目を集めました。周璇ヴァージョンと比べると歌声も伴奏も現代的になってますが、それでも40年も前の楽曲です。
上海で作られた曲が台湾のアーティストによってカバーされヒットしていることで、この曲が中華圏全体で愛されていることを証明していると思います。
玫瑰玫瑰我爱你/姚莉(1940年)
作詞:吴村、作曲:陈歌辛(Chen Gexin)、姚莉(Yao Lee)の歌唱による、玫瑰玫瑰我爱你は、当時たくさん作られた時代曲の中でもとびきり成功した楽曲だと思われます。先ほどの毛毛雨や何日君再来の甲高い歌声にちょっとビビった人も、この曲は快く聞けるのではないでしょうか? すごくキャッチーな曲だと思います。姚莉はその歌声から銀の喉と呼ばれました。彼女は七大歌星の中でも最も長く活躍した歌手の1人で、時代の荒波を乗り越え1970年代頃までスターとして君臨します。歌唱力も他の七大歌星より高く、差し詰め日本で言えば美空ひばりみたいな人だと言えそうです。
この曲はよくできた楽曲だったからか、のちに様々な人にカバーされます。中でも、1951年にフランキー・レイン(Frankie Laine)というアメリカの歌手が「Rose, Rose, I Love You」としてカバーした楽曲は、アメリカのビルボードチャートで3位になるなど大ヒットしました。時代曲が国境を超えた例です。
英語の楽曲になった時に、アメリカの古い音楽と言われても違和感がないことに気づくと思います。当時の上海歌謡界の楽曲レベルの高さが感じられます。
苏州夜曲(蘇州夜曲)/白虹(1943年)
蘇州夜曲は、後述する李香兰がオリジナルですが、私はこちらの白虹さんバージョンが好きなのでこちらで紹介します。
蘇州とは、東洋のパリ・上海から長江沿いに内陸に向かった隣の都市で、大小様々な湖があり、そこに多くの運河を作って船を公共交通機関として走らせたので、東洋のナポリと呼ばれる街です。そんな蘇州の夜を歌った蘇州夜曲は、エキゾチックなムード満載の名曲です。
実はこの楽曲を作曲したのは日本人で、服部良一です。
もちろん日本語バージョンも存在します。こうして、日中の音楽業界が1940年代の時点で交流があったことが驚きです。
どちらも素晴らしい楽曲ですが、楽曲単体なら、白虹が歌う中国語版に軍配が上がるような気がしますがいかがでしょうか?
夜来香/李香兰(1944年)
夜来香(イェライシャン)とは、キョウチクトウと呼ばれる甘い香りの花です。当時の上海の時代曲、いや、100年の歴史を持つC-POPの中でもとびきりの名曲ではないでしょうか。彼女も当時の中国の女性歌手らしく高音で歌いますが、よく統制されたソプラノ風の発声で、キャンキャン声ではありません。そのことがこの曲のアダルトなムードによくハマってます。
李香兰(繁体字では李香蘭、日本語名は山口淑子)は満州に渡った日本人の両親から生まれた日本人の歌手ですが、彼女の人生を追うことは中国と日本の歴史を知ることと同義です。1932年当時、日本の傀儡国家として誕生した満州国の国営放送で、日本語、中国語が堪能でルックスもよく歌もうまかった彼女は、テレビで歌を歌う歌手に抜擢されました。類い稀ない才能を持った彼女はなんと、満州でも日本でも中国でもスターとなってしまうのです。戦後は共産党支配下となった中国から撤退し、日本の芸能界で活躍しました。が、今でも李香兰が中国人だと信じている中国人も多数いることでしょう。
この曲も玫瑰玫瑰〜と同様、何度もカバーされている、いわば中国人のソウルミュージックと言えるのではないでしょうか。そしてこの曲が、日本にルーツを持つ歌手によって歌われていたことは、日中の不思議な縁を感じずにはいられません。
香港の歌手、方逸華が1960年代に歌った夜來香。原曲と違い、低めのキーで歌われていて、ムーディな歌い方です。英語と中国語で歌われていて、上海の国際ムードを戦後引き継いだ香港のエキゾチックなムードによく合ってます。
大胆なアレンジが光る、1980年代の香港の大スター、サンディ・ラムのカバーも最高です。彼女のウィスパーボイスが合っていて、ひょっとすると彼女のために作られた楽曲なんじゃないかと思うほどです。戦前のある期間だけ存在した往時の上海の儚げなムード、かつて世界最大の国際都市であった往時の上海を鎮魂するような不思議な色気を纏った楽曲です。この曲のアレンジは再び、日本人である久保田麻琴(元久保田麻琴と夕焼け楽団、サンディ&サンセッツのリーダーで、80〜90年代の日本のワールドミュージックブームに貢献した人物)です。
恭喜恭喜/姚莉、姚敏(1946年)
この曲は中華圏では新年に歌われる定番の曲で、様々なアーティストがのちにカバーしますが、原曲は「時代曲」時代の1946年に生まれます。この曲の作曲者は玫瑰玫瑰〜と同様、陈歌辛で、この方の希代のポップセンスがこの上海時代曲時代の音楽を支えていたと言えるでしょう。姚莉とデュエットする男性ヴォーカルの姚敏は、姚莉の兄にあたり、次回紹介する香港時代の時代曲において、楽曲制作の中心人物になる存在です。
この曲は今もたくさんの人に親しまれ、ちょっと面白いところではラップの曲中に引用されるケースもあります。
共産党支配と上海歌謡界の終焉
こうして様々なスターと様々な名曲を生み出してきた上海歌謡界ですが、1949年に突如としてこの繁栄は終わります。皮肉にも終焉のきっかけは第二次世界大戦が終わったことでした。まず、上海に駐留していた日本人は敗戦をきっかけに引き上げます。さらにそれまで協調してきた国民党と共産党が中国の支配をかけて争うことになりますが、結果としてはソ連の後押しを受けた共産党が中国を支配することになります。追われた国民党は台湾にわたり、新政府を樹立します。共産党はこれら時代曲を国民を堕落させるものとして快く思わず、歌星たちの活動も厳しく監視されることになります。こうして歌手活動、音楽創作活動ができなくなった上海のミュージシャンたちは、新天地、香港に向かい、そこで活路を見出します。一方、上海や中国本土からは、共産党のプロパガンダ楽曲やせいぜい民謡をポップス化したものしか作られず、改革開放が進められる1980年代頃まで暗黒時代を迎えます。
第2回では、舞台を香港に移し、戦後、香港で生まれた時代曲たちを取り上げます。恭喜恭喜で綺麗な歌声を披露していた姚敏が大活躍する時代の始まり。乞うご期待。