読書は仲間外れの娯楽
「読書は娯楽の中で仲間外れなのではないか」と思うことがあります。
本日のテーマは「どうして読書が仲間外れの娯楽なのか」「仲間外れが原因で、文章を書く際に何を気にしているのか」についてです。
受け取る娯楽と楽しみを生む娯楽
娯楽は大きくわけて、受け身の娯楽と楽しみを生む娯楽の2種類があると思っています。
受け身の娯楽の例
音楽鑑賞や映画鑑賞は、誰かが創ったものを受け取って楽しむ娯楽です。
TV視聴やYouTube視聴もそうではないでしょうか。
これらは黙っていても、受け身の姿勢でも情報が入ってきます。
したがって、音楽鑑賞や映画鑑賞、TV視聴、YouTube視聴は「受け身の娯楽」といえます。
楽しみを生む娯楽の例
楽しみを生む娯楽にはどのようなものがあるでしょうか。
たとえば、「絵を描く」、「小説を書く」などです。
これらの趣味は、みずから何かを生み出し、誰かに娯楽を提供するので「受け身の娯楽」ではなく「楽しみを生む娯楽」といえるでしょう。
スポーツもみずから身体を動かしますし、観戦という形で誰かに娯楽を提供します。
したがって、「絵を描く」、「小説を書く」、スポーツは「楽しみを生む娯楽」といえます。
読書はどっちつかず
それでは、読書はどちらなのでしょう。
誰かが創ったもの読むので、どちらかといえば「受け身の娯楽」ですね。
でも、音楽鑑賞や映画鑑賞のように完全な受け身で楽しめるでしょうか。
音楽鑑賞や映画鑑賞は自然と情報が入ってきます。
YouTubeもつけた後は黙っていても情報が入ってきます。
しかも家にいながら楽しめるので非常に楽でお手軽な娯楽です。視聴者が多いのもうなずけます。
それに対して、読書は自然と情報は入って来ません。
目で文字を追って読み、都度ページをめくる行為が必要になります。
音楽やYouTubeのように、椅子に座って黙っているだけで情報が入ってくる状況と読書では感覚が違うことが伝わるでしょうか。
誰かが創ったものを受け取るにもかかわらず、完全な受け身でもいられない。
このようなことから、読書は少し仲間外れの娯楽だと思うのです。
だから、文章を読んでもらうのは難しい
読書は受け身の娯楽の中でも黙っていても楽しめない、完全な受け身になれない娯楽なのです。
仕事として文章を書くようになって、この違いを意識するようになりました。
世の中には、隙あらば文字を読みたくして仕方ない人はいますが、おそらく少数派です。
文章は、完全な受け身で楽しんでもらえるものではない。
だから、タイトルやリード文で興味を引かなくてはいけないのだと思います。
さらに、相手の読む負担を減らすため、わかりやすい・読みやすい文章が重視されるのでしょう。最近、その傾向が強すぎる気がしますが、必要性は理解できます。
このように書くのは簡単ですが、実践するのは難しいですね。
そのため、ここまで読んでいただけるのは非常にありがたいことなのだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。