#49 オタクに愛をこめて
歩いていて楽しい街・秋葉原
今日は私用で、上野と秋葉原へ行ってきた。
どちらもしばしば足を運ぶスポットだが、歩いていて飽きない街だ。
特に秋葉原の電気街は、平日でも人で賑わっている。
アニメやゲームに興味津々の人たちの笑顔を見ていると、なぜだかこっちまでほっこりしてくる。
とても暑い中だったが、アキバ散歩を楽しんできた。
こういう場所に来ると、インバウンドの凄まじさを感じる。
秋葉原を歩く人を大別すると、
オタクの皆様、外国人の方、メイドさん、その他……の4種類な気がした。
この中でも、僕はオタクの皆様に尊敬の念を抱いている。
憧れを持っているといっても過言ではないかもしれない。
今の世の中ではオタクが勝つ
オタクとは——
アイドルだったり、アニメだったり、ゲームだったりが熱中する対象物なのが一般的なオタクのイメージかもしれない。
僕が尊敬するのは、一つの対象物に対して、尋常ではない情熱を注げるところである。
自分の身を滅ぼすほどに過度なのはよくないかもしれないが、それでも一つのことに熱中できることそのものが、僕は才能だと思うのだ。
そしてその才能は、今の世の中を引っ張るものだと思っている。
有名人の方だったら、さかなクンやなかやまきんに君なども言ってみればオタクに入るだろう。前者は魚オタク、後者は筋肉・健康オタクだ。
それで大学の教授になったり、YouTubeの情報発信で多くの人の参考になったりしているわけだ。
アニメやゲームのサブカルに熱中する人も、ネットを使った情報発信によって多くの人を魅了しているケースは枚挙に暇がない。
自分の中で完結している人たちだって、それを生きがいにして楽しく生きているように僕は見える。
楽しく生きることは、世の中への貢献だと僕は思うのである。
それに、そんな姿を見て僕はほっこりしているわけなので、世の中に貢献している……と言えなくもないかもしれない。
実は「オタク」の辞書の説明には続きがある。
1980年代半ばと書いてあるが、90年生まれの僕も「オタク」という言葉は学生時代ではまだネガティブな意味を持って使われていたことを覚えている。
元々はオタクというのは、どこか後ろめたいものだったのかもしれない。
しかし、時代は変わった。
オタクというのは、いわばその道の専門家に近い存在だと思う。
現代では、オタクであることを誇りに持つべきだと僕は思っている。
そもそも最近では「オタク」という言葉もさほど使われなくなったのが、その表れなのかもしれない。
熱中できることが羨ましい……
とにかく彼らに尊敬と同時に、羨望の念も抱いている。
僕には、好きなものはあるけれど、熱中するものがないからだ。
そして何より図書館司書をしていると、知識を欲する瞬間がたくさんある。
一つのことであっても専門的知識を持っているというのは、この職業でも大きな大きな強みなのである。
ただ、小説執筆にnote執筆と、文章執筆に熱中していると言えなくもない……のかもしれないけれど、あまり自信を持てない。
いや、熱中することに自信も何もないかもしれない。
僕は文章執筆オタクになるべく、今日も明日もnoteを書き続けよう。
例のごとく余談①
例のごとく余談②
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?