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#196 誰でもできるからこそ奥深い

生きていて一番嬉しいと思えること。
それは、自分の紡いだ文章を褒められることである。
これは何にも代えがたい喜びだ。

物心ついたときから僕は物語を書いていた。
幼少期から少年時代は漫画を描いていたし、
青春時代はライトノベルを書いていたし、
今は趣味で小説と、noteでエッセイを書いている。

だから書くことというのは僕にとって呼吸とほぼ同じだ。
常に隣り合わせにあり、いつだってできることである。

だからこそ、書くことというのは奥深いと思うのである。

誰でもできることにも「質」がある

僕の同僚に、同い年の男性でとても仕事ができる人がいる。
図書館のことはなんでも知っているんじゃないかと思うくらい博識であり、人望もあり、趣味もかなりたくさんある。
とても尊敬するその人からこう言われたことがある。

「立竹さんって、文章が書けるじゃないですか。
 羨ましいんですよね。僕、本当に文才がなくて……」

この手のことは何度か言われたことがある。
かつての僕は、「文章が書けない」という言葉の意味がわからなかった。
え、誰だって文章くらいは書けるやん、と思っていたのだ。

もちろん今ならその言葉の意味がよく理解できる。
確かに誰だって文章は書くことができる。
だけど、文章には「質」というものが存在する。

人に読んでもらう文章、何かを伝えるための文章。
「文章が書けない」という人は、その水準に達する文章が書けないということなのだ。

それに気づいてから、僕は文章作成の深淵を感じるようになった。
その奥深さについては、noteを始めてから毎日感じている。

誰でもできるものこそ奥深いんだ

書くことのように気軽に始められること。
言いかえれば、誰にでもできること。
こういったものこそ奥深いものなんだと僕は思う。

書くことは呼吸と一緒と書いたが、呼吸だって奥深い。
子どもの頃は、呼吸に意識することなんて全くなかった。
だけど、今はかなり呼吸を意識するようになっている。

緊張していると自然と呼吸が浅くなるので、深く呼吸することを意識する。
喉を乾燥させないように、口呼吸ではなく鼻呼吸を意識する。
胸で呼吸せず、お腹を意識しながら呼吸する――などなど。

呼吸だって誰でもできることだが、やり方一つで体調もかなり変わる。
当たり前にやっていることが奥深いということもあるのである。


書くこと、息をすること——それ以外にも誰にでもできて、当たり前にやっていることはきっとたくさんある。
だけど、その奥深さに挑むことだって当たり前ではない。
ましてや、それを続けられることは当たり前ではない。

どんな頻度であったって、noteで書くことを続けることも、書くことへの奥深さへの挑戦だと思っている。
そんな自分たちを、もっと肯定していいと僕は思うのである。


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立竹落花
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