#61 NO MORE 言葉の暴力
最近、「誹謗中傷」という言葉をよく目にする。
オリンピック選手に対する誹謗中傷——
タレントへの誹謗中傷——
ネットを開けば、必ず攻撃的な言葉を目にするようになった。
当人同士でもないのに外野から容易に罵詈雑言を発することのできる昨今に、正直辟易してしまっている。
戦争反対、核兵器反対など武力や物理的な暴力に関する反対は声高らかに行われている。
それと同じように「言葉の暴力反対」ももっと声高らかに行ってもいいのではないだろうか。
言葉は誰でもどこでも使える刃物
武器は、それを持っていないと使えない。
暴力は、相手が目の前にいないと振ることはできない。
けれど言葉の暴力は、言語能力を持っていれば誰でも振れるし、ネットが広がってからはどこでも振れるようになった。
言葉は、誰でもどこでも気軽に使えてしまう刃物になりうるのである。
実際、僕もネット上の言葉で傷ついた経験は数多ある。
直接ぶつけられた経験もあるし、間接的に傷つけられたこともある。
しかもネットにおける言葉の暴力で厄介なのは、残りやすいことにある。
SNSには削除機能こそあるけれど、誰かがスクリーンショットをしていればその機能はほとんど意味をなさなくなる。
ネットは人々の生活を豊かにした反面、誰かを傷つけやすくもしている側面があるなと最近強く思う。
見ているだけでも心は傷ついていく
例えば、誰かと誰かが喧嘩を始めたとする。
それを見て楽しんでいる人もいるかもしれない。
けれど僕の場合は、怖いと思ってしまう。心がざわついてしまう。
それと同じで、ネット上の攻撃的な言葉というのも何気なく見ているだけでも、心が傷ついていくし、疲れていってしまうものだ。
しかも、その傷つきや疲弊は、無自覚に進んでしまうことも多い。
僕はネットサーフィンをダラダラしていると、物凄く疲れてしまう。
これはブルーライトのせいだけではない。
ネット上に散りばめられている攻撃的な言葉を目にすることで、徐々に心が擦り減っていることに気づいた。
特にHSPの特性を持っている場合は要注意だと思う。
あまり自覚なく、しかし確実に心は敏感に反応し、疲弊していく。
攻撃的な言葉が飛び交う場所から目を逸らす。
残念ながら、それしか今のところ対策はないのかもしれない。
言葉の暴力は心を貧しくする
言葉の暴力は、暴力をふるう自分自身にも負の連鎖を与えると思う。
1.言葉の暴力を放つ
2.一旦はスッキリする
3.暴力を放ったことで、心が貧しくなっていく
4.スッキリしたくて誰かを傷つけたくなる
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かくいう僕も学生時代、攻撃的な言葉を使いまくっていた時期がある。
学生時代はとてつもなくストレスフルだったので、それを発散するための攻撃だったのである。
しかし、攻撃的な言葉を使って一度はスッキリしても、自己嫌悪に陥るし、またもイライラしてくる。
言葉の暴力を振るうことは、ストレス発散にはならない。
むしろストレスが蓄積するし、心が貧しくなっていく。
言葉の暴力がない世の中になってほしい
幸い、noteは治安がよくて、暴力的な言葉をほとんど見ない。
けれど全く見ないわけではない。
戦争だって、物理的な暴力だって、言葉の暴力だって一つとしてあってはならないことだと思う。
しかし、言葉というのは難しい。
自分に自覚がなくても、誰かを傷つける可能性だってある。
とは、誰もが知るMr.Childrenの名曲の一節だ。
かといって、あまりに気を使いすぎても何も話せなくなる。
そこの匙加減が難しい。
結局は、相手を思いやる心が大事なのだという、まるで学校の道徳の時間のような結論に行き着いてしまった。
何にせよ、言葉の暴力がない世の中になってほしい。
そのために僕は、言葉の暴力反対を記事という形で唱えたい。