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#118 理解者がいてくれたなら

自分で自分のことを認めるのは、とても大切なこと。
メンタルヘルスのことを調べると、自己肯定の重要性が多く語られている。
僕のnoteでもそれは何度も書いた。

けれど、よりよく生きるには、誰かからの承認や理解というのもどうしたって必要になってくるのだと思う。

もし、周囲の人たちが誰も話を聞いてくれなかったり、理解もしてくれなかったりすれば、どう感じるだろう。

やはり寂しい……
そして苦しい……
もしかしたら周囲に怒りを覚え、狂気に憑りつかれるかもしれない。

それが描かれているのが、映画「ジョーカー」である。
アーサーという孤独な男が、ジョーカーという狂気となった物語だ。

「ジョーカー」はこんな話

1981年のゴッサムシティは、貧富の差が激しく、失業者や犯罪者に溢れ荒れ狂っていた。
そんな街に住むアーサー・フレックは、体が不自由で認知症の母親を介護しつつ、街頭ピエロとして日銭を稼ぐ生活をしていた。

いつかコメディアンになりたい。
憧れの芸人マレー・フランクリンが司会を務めるトークショーを観て、自分が出演するのを夢想する日々。

しかし、現実はあまりに厳しかった。
不良に無惨にも暴力を振られたり、雇い主から話をろくに聞いてもらえず一方的に解雇されたり、何もかもがうまくいかない。

おまけに彼には持病があった。
気分が高揚すると、勝手に笑い出してしまう病気だ。
そのため定期的なカウンセリングを受けているのだが、そのカウンセラーもろくに話を聞いてくれないのだった。

一方的に仕事を解雇され、ピエロの恰好のまま地下鉄へ。
するとスーツの男3人が、女性に絡まれているところに遭遇した。
そんなつもりじゃないのに、笑いの発作が出てしまうアーサー。
見かねたスーツの男たちはその様子に不満を持ち、アーサーを暴行し始める。

そして、アーサーは元同僚からもらった拳銃で、反射的に彼らを射殺してしまったのである。
とんでもないことをしてしまったという表情を見せるアーサー。

しかしその事件は、貧富の差が激しいゴッサムシティにおいて、こう捉えられるようになった。
貧困層から富裕層に対する復讐である、と。

荒れ狂う街に生み出される、ピエロへの暴力的な共感と理解。
それが後々、アーサーの心に狂気を生み出すことになるのだった。

誰も話を聞いてくれないという辛さ

僕がこの映画から感じたのは、「他人からの理解や共感の重要性」だった。

アーサーはとてもひたむきに生きていたように思う。
夢であるコメディアンを目指して、日々ネタをメモしている姿。
認知症気味の母親を献身的に支えようとする姿。
解雇を言い渡され、誤解であることを伝えようとする姿。
そして、「お願いです。この仕事を愛してる」と言っていた。

しかし、それでも誰も彼の話を聞いてはくれなかった。
色濃く映るのはひたむきな姿より、社会から見捨てられた姿だった。

印象的だったのが、カウンセラーに対して言い放ったこの言葉だ。

僕の話は? 聞いてないよね、何ひとつ。
毎週同じ質問ばかり――”仕事で落ち込んでない?”
もちろん落ち込んでばかりさ。
でも、何も聞いてくれない。

映画「ジョーカー」の日本語翻訳より引用

アーサーが抱く世間や他者への不満の一つが、この言葉にあると思う。

全く他者と関わろうとしていないのに、この不満を抱くのなら話は別だ。
しかし、彼の場合はピエロとして働こうとしているし、カウンセリングにもちゃんと出かけているし、彼なりに行動をしているように思う。

それでも、自分の話を誰も聞いてくれない。
それでも、誰も理解をしてくれない。
それでも、誰も認めてくれない。

一人でもアーサーを深く理解してくれる人がいたのなら――
彼は、ジョーカーという狂気に憑りつかれなかったのかもしれない。
そう思えてならないのである。

そして、アーサーがジョーカーとなってしまった理由もまた、「他人からの共感と理解」にあるのだと思う。

ひたむきに生きるアーサーよりも、
世の中への憎悪に走ったジョーカーの方が共感され、理解されたのだから。

自分で自分を肯定し、理解することもとても大切なことだ。
だが、他人から理解されることや共感されることも、生きる上で絶対的に必要なことなのである。

余談ではあるが、ジョーカーを心から理解し、彼自身も理解してくれると強く思ったのが、今公開中の続編に登場するレディー・ガガ演じるリーだ。

アーサーもといジョーカーとリーは、互いに理解し、愛していく。
その先に何が待ち受けるのかは、是非続編を観ていただきたい。

現代に欠乏する「理解と承認」

本作がここまでヒットした理由は、もちろんさまざまな要素がある。
テンポのいい脚本、監督の技量、映像の見せ方、緊張感ある音楽——
そして、ジョーカー演じるホアキン・フェニックス氏の怪演は並々ならぬ狂気が感じられる素晴らしさだった。

その中で僕は、アーサーの、そしてジョーカーへの同情と共感がヒットをもたらした理由の一つなのではないかと思えてならない。

人間は、自分を理解してほしいし、共感してもらいたい生き物なのだ。
だが、どうしたって人生うまくいかないことばかり。
なかなか他人から理解や共感を得るのは難しい。

終盤でジョーカーは大衆にこう言い放つ。

僕が歩道で死んでも踏みつけるだろ。
誰も僕に気づかない。
(中略)
(ゴッサムシティでは)誰もが大声で罵り合ってる。
礼儀も何もない!
誰も他人のことを気にかけない。
ウェイン(ゴッサムシティの市長。本作では富裕層の象徴といったキャラクター)みたいな奴らが僕の気持ちを考えるか?
他人の気持ちなど考えない。
こう思うだけさ。”黙っていい子にしてろ””狼にはなれない”

映画「ジョーカー」の日本語翻訳より一部改変して引用

隣人の顔も知らない近所づきあい――
顔も本名も声も知らないSNSでの人間関係——
それが当たり前になった現代には、理解や共感が欠乏しているのではないかと思う。

日本では貧富の差が激しくなっているとメディアは言う。
その通りだと思う。
日本は全体的に、ゴッサムシティになりつつあるのかもしれない。

ジョーカーはとても魅力的ではある。
けれど、現実に生み出してはいけない存在でもある。

まずできることは、自分から誰かを理解し、共感することだろうか。
少なくとも、もし今自分のことを理解してくれる人がいるとしたら、その人のことを全力で理解し、感謝することがまず大事なのだと思う。

綺麗事かもしれない。偽善かもしれない。
それでも自ら動くこと以外に、解決策が思いつかないのが現状である。



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