転生的想像力について

 これはほんの思いつきを語ることに過ぎないが、可能世界的想像力というものがあるのに対し、今の世界では転生的想像力というものが軸になっているのではないか。

 可能世界的想像力は素朴にいえば「こうでないこと(自分)もありえた」と考えることであり、分析哲学以外に起源を求めれば虚構に関連する様々な思考と紐づけることができるから、おそらくギリシャまで遡ることができそうだ。とはいえ、ゲームのような全ての人間がプレイヤーとして「別の生」を体験できる営みが発達した現代において理解しやすくなった概念であろう。

 僕が好きな例は小林秀雄がマルクス主義文学を批判して述べた「様々なる意匠」での物言いで、まあ論文として考えたら本当に胡乱な文章という感じだが、実に批評らしい文章でもあって、他のものの方が知見的には興味深いと思うが、煌めきという点ではさすがに諸々詰まっており面白い。で、そこでどんな物言いをしているかというと、いろいろな職業でありえたにもかかわらず「彼は彼以外のものにはなれなかった」というものである。これは小林の議論としては「宿命」とはそういうものだという理路になるのだが、逆に読めば、彼は彼以外のものにはなれなかったが、それ以外の様々なものになりえた、という話でもある。これはちょうどクリプキ(とラッセル)の議論にも似ていて、職業というのは確定記述の束であり、「宿命」とは固定指示子のようなものである。おそらく重要なのは、どんなものになれなかったとしても結局彼は彼でしかない、というような文法で語ることを許さないことである。結果として彼は何かにはなっているが、「現に」何かである彼の総体が交換不可能な「彼」だという話であって、難しい話だが、ある意味でここでは主体が二重化しており、彼は彼でしかありえない「宿命」を背負っているのだが、にもかかわらず彼は他のような様態でありえたのである。議論が混乱することを承知でいえば、たとえば同じ魂をもった全く別人の見た目であったとしたら、彼は彼でなくなるのだろうか。ともあれ、小林はそういう風には言っていないが、階級闘争を重要な課題としたマルクス主義の文学を「様々なる意匠」の一つとして批判したこの評論が、そういうことを述べているのは興味深いものである。

 資本家を打倒して公平な世界を作り出すことは、個人における成功とベクトルは類似している。現状を財産的に豊かに変えることだからだ。もちろんエンゲルスのような資本家がこの成立に尽力したことを考えれば、話は複雑にもシンプルにもなるのだが、資本家はすでに金銭を獲得しているから「成功」は「革命」になるが、個人における「革命」は世界の革命とは限らない。それはセカイの「革命」かもしれないし、単純に成金のことかもしれない。

 自分を変えたい(そのために資本主義のゲームで勝つ)というのと、世界を変えたい(そのために資本主義のゲームを壊す)というのが、ある種の革命のベクトルとしてあるとして、そのゲームに勝っていないときに思うのが可能性についてである。夢といってもいいかもしれない。さてそういったときに、転生的想像力というものが別路線として現れてきているように思われる。

 転生的想像力というのは「なろう小説」に典型的に表れているようなものではあるし、世を儚んで死ぬのではなく、特に「リセット」によってやり直すというゲーム的な発想はおそらく20世紀末に洗練されたものであって、「チート無双」はその帰結である。が、現実と不連続の場所に放り込まれる話は最近に生まれたわけではない。なかったと考える方が不自然だろう。とはいえここでその起源を追いかける余力はないので、ここでは別な話をしたい。転生的想像力について考えるとき、自分が選んで転生できるパターンもあるかもしれないが、自分の意思とは無関係に世界が変わってしまうということもある。本来これこそが世界の基本的条件であって、たとえば自分が起こしたわけではない戦争や災害によって自分は同一なのに自分の世界が、なんとなれば自分というものが変わってしまうということはありえる。このとき、『Steins;Gate』由来の世界線という概念を用いれば、これは世界線が変わったのだろうか。変わっていないのだろうか。考え方によってどちらとも言えるような状況だろう。ただ、自分自身が「世界線が変わった」と思わなければ、おそらくそれは同一の世界線なのである。変わったと思えば、たとえば災害や戦争でなくとも、ちょっとした出会い一つによって想定していた人生とは異なった動きになることはあるし、そのときに「変わった」と思うことがあるかもしれない。

 ところが、こういった変化をある程度外形的に想像させる状況というものがある。日本においては、元号変化を伴う時間経過である。これがあるからこそ天皇(制)や憲法というものが極めて日本においては重要な意味を持つのだと思うが、たとえばそういった表現が多いのだろうとされる架空戦記ものの一種ともいえる、原典が手元にないのでうろ覚えだが、押井守原作『犬狼伝説』では「昭和70年」というような表現が出ていた気がするのだが、この記憶が正しければこの世界では昭和が終わっていない。また我々にとっても身近なところだが、「令和」という元号が出る前の世界では、まことしやかに未来の予定は「平成35年」というような表記で想像されていた。

 もちろん元号は概ね今上天皇の寿命に同期しているから、いずれは御代の終わりが来るわけだが、我々は中身は一切変わっていなかったとしても、昭和や平成がもっと続いていたかもしれない世界を想像することができる。果たしてその世界は今と同じ世界線なのだろうか。たとえば村上春樹『1Q84』では道路の道を一つ脇にそれただけでいわば「Q」の世界に行ったともいえるし、そこで言えば「序破急」の構造で想定されていた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の世界は、突如として「Q」の世界に移行した。そこで描かれていた世界は「破」で予告されていた物語とは異なる、もしくはそれが飛ばされたものとしてものだった。

 こういう「9」が「Q」に読み替えられることによって起きる世界線の変更は形式的なものだが、それゆえに象徴的であり、たまたまそれが令和前後の大きなコンテンツで描かれていたことは興味深いとも言えるし都合がいいとも言える。まるで時代符号的に描かれたかのようであるからだ。

 他方、どう考えても想定されていなかった大事件としてコロナ禍がある。戦争も災害も想定外だったり甚大な影響があったりするが、文明が成熟した社会においてここまでの伝染病が流行った事例はなく、その影響は空前絶後だったと言える。事実として、そして結果として、我々の日常は大きく変容した。街並みが変わり、風景が変わり、人の動きが変わり、働き方が変わった。もちろん戻りつつあるものもあるが、ここまで全世界的だった変化はやはり特別だ。このような経験は、我々に「世界線が変わった」と思わせるものではなかったか。

 こうしてみると、可能世界的想像力というものは、この現実の交換の効かなさに対して、それを読み替える戦略だったと言える。たとえば『少女革命ウテナ』における「革命」にもそのような読み替え戦略的なところがあって、ポスト・エヴァンゲリオン的作品だったこのアニメが暴いたのは、セカイ系的枠組が一人か二人の力で革命を実現させる欲望だったということである。だからこそ「妄想」や「超越」との兼ね合いで語られることが多いのだが、たとえばただの少年がニュータイプに覚醒して一騎当千の活躍をする『機動戦士ガンダム』のような作品であっても、富野由悠季のリアリティにおいては、実際に一人の力で戦争が終わらせられるわけではないし、むしろその無力や政治力学の存在感を強くさせる形になっている。そこでは戦争が読み替えられているわけではないのである。

 もっとも、変えたいと思って変えるわけではない場合もある。つまり、自分の意図とは別に変わってしまった世界を「戻したい」と思うのもその願望形式であって、ちょうど『シン・エヴァ』はそのようなポケットにすっぽりと入った作品だったのではないか。

 これに対応するとまでは言えないだろうが、"「なろう小説」的なもの"と言っても多様性があり、たとえばその先駆けとして『SAO』や『オーバーロード』のような作品を見ると、これらは転生ではなくVRMMOという別世界を描いているがゆえに、その中で描かれる時間に歴史性が低いが、内容が肥大する傾向にある「なろう小説」の中でも最大のものの一つと言える『無職転生』などでは、転生後の「歴史」とでも言えるものが描かれていると言える(それはとりわけ「子を成す」という要素によって支えられている)。そこでは夢が叶う万能のユートピアというよりも、より地盤の硬い「もう一つの世界線」が現れているようである。

 多数派の転生ものが一種のシチュエーションものとして定番化して一大産業と化しているのを前提とした上で、チート主人公に同一化してある種の「夢小説」(ここでは「夢」をだいぶ拡張的に捉えている)的な世界体験を楽しむことの先の想像力がここに現れつつあり、その、いわばまだ未踏の大陸の地図を描くような営みであるところにこそ転生的想像力の可能性があるのではないかと思うが、ここまでに挙げられたような作品のさらなる掘り下げによって、それはより具体的に描けるだろうと考えている。

 その上で蛇足的なことを述べれば、たとえば『葬送のフリーレン』のような純然たるファンタジーめいた作品が支持を集めることには、フリーレンの時間観と現代の組み合わせに批評的なインパクトがあったからのように思えてならない。この構造自体は本当に昔からあるものだと思ったが、長命のエルフであるがゆえに仲間が自分と同じような時間間隔で活動できず、就中、自分よりも早く老いて死んでいくのを看取るにあたって、その経験によってフリーレンが人間的感情を手に入れていく様子には、まさに転生的想像力に対するアンチテーゼ的なものを感じるし、僕はまだ読んでいないのだが、最新刊付近ではまさにそれを地で行くような演出もあるようである。

 しかしながら、エルフのように人生が長く続くということは、それ自体がすでに転生的想像力を内面化あるいは物質化しているとも言える。特に、見た目も能力も変わらないのであれば、経験を踏まえてやり直すことができるからだ。それは別に過去に戻ってやり直すことではない。しかし、結果として、ある意味でエルフであれば過去に失敗しても未来で成功することができる。実際には、多くの転生作品は過去の取り返しのつかない失敗を取り戻したいと思っているとは限らない。それは、別に先々で無限に再チャレンジできるのであれば、それで解消されるような問題だった可能性があるのではないか(直感的にはその可能性が高い、と言いたいところだが。)だとすれば、転生的想像力の真なる問題は、転生しても取り戻せないものをどう取り扱うか、ということになるだろう。そしてそれは、翻すまでもなく、我々の現実そのものの問題なのである。


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