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超芸術トマソン 2024.10.26

表題の「コトバ」、ご存じない方はまずはwikiとかをご参照ください。
ちなみにタイトル写真は、とても美しい「高所ドア」です。

まさに芸術ですね。芸術の秋。

ツタ?がドアを避けながら絡んでいます。ドアにはツタが絡んでいないことが最高にイイです。これ。
きっと誰かが、時々このドアから出入りしているんですよ。だからツタがからんでないのです。
・・・・・・・・?本当に?

「超芸術トマソン」の主催者のひとり、赤瀬川 原平さんが亡くなってからとうとう10年が経とうとしています。
日本国内で一時的ながらも「トマソン」ブームがあったあの頃、私もついつい夢中になって自宅周囲の路地・また別の路地を次々と徘徊&踏破し、トマソンを探し回ったものでした。

wikipedia トマソンから画像引用

そして令和時代になって、はっきりと感じることがあります。
日本人はトマソンの精神を失いつつあります。
街中で大切に保存されてきたトマソンは、いま、足早に次々と破壊されています。
破壊後は、金網でかこまれた更地になったり、あるいは「キラキラ」してるいかにも「令和デザイン」な新ビルが建ったりしています。

私個人の好みの問題なんですが、私は猥雑でごちゃごちゃしてる、ちゃんとしていない街並みのほうが好きなんです。
トマソンという存在は「猥雑さが残った街並みなのかどうか」のリトマス試験紙のような意味合いがあると思っています。
そして、トマソンのことは、無条件に好きです。

私にとっては、トマソンも、猥雑なごちゃごちゃした街並みも、同じようなモノ。同等なモノなのでしょう。きっと。

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さて、ひるがえってボードゲームには、こういった猥雑さとか、ごちゃごちゃとか、「無用性」とかを扱ってるものはあるんでしょうか?

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SF小説では「ニューロマンサー」とか、「ブレードランナー」とかの作品のなかに、ごちゃごちゃ&猥雑感のある街並みの描写とかを見ることができます。
しかし改めて考えてみると、ボードゲームの世界では、そういうのは見たことがないような気がします。

っていうか、ボードゲームの世界の中で「無用性」って何?と気づきました。
絶対ありえないことを書いてしまった気がします。

唯一思い出せたのは、Kadon社の「Proteus」かなあ・・・?という体たらくでした。
ほかにはちょっと思いつかないかも。です。


Kadon社HPから画像引用

とは言っても、Proteusは、ルールが「複雑」なだけです。
「猥雑」とか「無意味」、ましてや「無用性」とかはないですから、上述の条件には、かすってる程度の関連性しかありません。

ちなみにこのゲームでは、勝利条件を「ゲーム進行中」に「自分の力で変更」できます。
ですから、どういう先読みをしたら勝ちに結びつくのか?勝利への戦略はどんな風に考えればいいのか?そのあたりのことが、ルールを読んだばかりの初見では全然考えつかず、途方に暮れてしまいました。
その後、このゲームを研究続行していないため、勝ち筋や戦略等、いまだにまったくわからないままです。

トマソンの探索だったら、喜び勇んで裏路地を走り回れるのに、Proteusの勝ち筋の研究は、なんだかめんどくさいと感じてしまって、やる気が起こらない。

お互いに近似性(類似性)はあるのに、どうしてこんなに対応に差が出てしまうのでしょうか。
そして、Proteusというゲームは、いったいどんなタイプの人向けにそのニーズがあるのでしょうか?
すべては謎です。
これはもはや、心理学的な研究課題と言えるのかもしれません。

ゲームシステムのデザイナーって、何なの?どういう意味? そんな疑問は、私の記事群によってご理解いただけるものと期待してます。 ラジくまるのアタマの中にある知識を活用していただけるお方、サポート通知などお待ちしています。