【後半クローズ中】紫陽花の浜の絵
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サバイバー仲間の散鞠ざくろさん @c_m_zkr / 企画用アカウント 甘く仄暗い泡沫さん@sweetdarkfrothが企画されている同人誌に寄稿いたします。東京文学フリマ販売予定のようです。私を含め、ネット連載小説に投稿されている約20名の方が参加される同人です。
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紫陽花がいちばん青く染まった、そのときを切って花束にしよう。ピンクのやみどりの混じったのは選ばずに、目を打つように青いのだけを。
花束を浜にしいた。
この浜はどこだろう。金の夕暮れが近いが、まだ夕暮れではない。しらなみが波うさぎに見えると教えてくれた人がいて、それから、しらなみがたくさんのものに見えるようになった。崩れていく波の花、波の鳥、波の風。
きみのこと。
私の胸には長らくぽっかりと穴があいていた。その暗闇の向こうに、きみはいろいろと姿かたちをかえてずうっと棲んでいた。いや、たぶん、私が棲まわせていたのだろう。きみを失って、ほとんど立ち直れないと感じるほどの黒い穴が、底が見えないほどに切り裂いた傷口のようにパッカリとあいた。だからそこに脱脂綿のように、きみを、きみの言葉をおしこめ、その脱脂綿は最初、積乱雲が千切れたように陽を受けてキラキラとしていて、やがて黒い穴に溜まるなにかを吸い込み、きみはわたしの紡ぐ言葉のなかで、さまざまな形をとって。
私の精神年齢が三歳と五歳で言語で社会適応していると診断され、世界が生きるか死ぬか、白か黒か、味方か敵か、という全て切断されかけてバラバラなのを、美しい言葉で結びつけていたあのころ。大人になって生きることを選択したいまの私にとって、あの頃紡いだ言葉は、ピンとはった、いまにも弾けそうな糸だった。緊張しきった虹色の糸を、蜘蛛の糸のように張り巡らせて、生のほうへとつなぎとめていた。
すべてが詩だった。
こころが嵐だった、小さな失敗にも死のうと思い、夕暮れが来るたびに心細くて泣き叫びそうになるのを胸を痛くして唇を噛んでこらえるのだ。赤ちゃんのたそがれ泣きというのがある。人がむかし猿だったころの記憶があって、夕暮れになると、獣がやってきて食われるかもしれない恐怖を思いだしておそろしくなるのだという。だからこそ、恐怖なく、幸福に生きている一瞬、というものを、強く強く、目に、記憶に焼き付けようとしているうちに、私の文章は詩的と呼ばれるように、均一でピンと張って幸福な一瞬を書き留めるようになっていったのだった。
駄文だ。ここまで書いてもうわかっている。なんのモノにもならない。
それでも私は私のために、この駄文を連ねよう。きみを埋葬するために、深く、深く、からだをつきぬけて異界へとくらくあいている、胸の穴を、内臓をひっくりかえして、ぶちまけてやれ-きみを殺したこの世界へ、限りない愛憎とともに。
きみが死に、私は吸血鬼のように傷を探し求めて歩いた。きみにかわる完璧な友人を探しさ迷い歩いた。そう、詩人になりたくて、なれなくて、生きられなくて、二十歳きっかりで自殺したきみの生を、詩と言わずしてなんと呼ぶか。三十を過ぎて、ただきみの残した夢の足跡を追い、詩人などと呼ばれるようになった私の生より、きみはなんと生きていることだろう。
思い出は、ものに命を与える。数十年前に北欧でつくられたオイヴァ・トッカの、グレーの取っ手つきグラス。取っ手のところに致命的なヒビが入っているのを昔のバイト先で安く買って、花を飾ったり、埃をかぶって少し曇っているのをただ眺めたりする。
あれは、きみだ。思い出に命を与えられた美しい毀れかけた、きみだ。
百円均一のコップは、私みたいだ。ほどほどに量産され、ほどほどの人生を歩み、やがて誰にも忘れられて死んでいく。いまの私に、才能はおろか、こころの不具合によって努力する才能すら失くしたことを、私は誰よりも見つめているのだ。-そのこころの不具合のひとつがきみの死なんだからね! きみは、オイヴァ・トッカのグレーのグラス、藍色の空の光線をやわらかく、しかしクリアに通す、ひび。
きみが、粘膜に絡みつくトロリとした涎をまとわりつく舌が内側をなぞるようにして内側に入り込んで、詩を書かせるんだよ。いつだってうちがわから暗い衝動に突き動かされているんだ。
本来私は詩人ではない、小説家のなりそこないの、くたばり損ないでさ。いま読んでみれば、きみの詩だってそう大したもんじゃなかった、ひらがながやわらかく、私と違ってたくさんのものを愛し、みずからをささげるような恋をして-きみの詩そうして死と、私がそのころ持ち合わせていた特異な文才とが重なり合っていくつかの奇跡がうまれた。
きみのもたらした空白が、いまだ私にもたらすもの。
「わたしは死によっていっそうの高みへと昇る。」
高らかな、生への告別のことば。
私は一体なんなんだ? 何者だ?
雨雲がやってくる。この窓から見える、見飽いた景色……それでも、荒れ果てた土のガラスの破片を拾って、黒土を買って埋めて、雑草を抜いているうちに、いつの間にか瑞々しい紅葉が生えてきている。電柱と電線、もう何年も手入れされていない、さび付いたような隣家の屋根の色と。退屈な台所をせめていろどりよくしようと買った赤いケトル、もうすぐ雨が降り出すのだろう、何か呼吸が重苦しい。
きみの人生を自分勝手に引き受けて、自己を侵食されて、それに甘い疼きをおぼえる。
雨がふりだした。台所の窓ガラスの向こう、茶とグレーのくすんだありきたりの背景に、ま白い線が奔っている。
失恋によって自分を殺せるほど、私はだれかを愛せたことがあったろうか。亡くなった愛しい人、殺したいくらい愛しかった人を忍んで手首も首も切ったことはあったが、あとをおえたことは一度も、ない。
雲はずいぶん雨を落したようで、呼吸が楽になってきた、もうすぐやむだろう。
私は泣きたいと願っている。きみの死を思いだし泣けるようになりたいと。それはつまり、忘れる、ということだ。すべてとうとうと、閉ざされていた雪山から氷雪が流れだし、春のきた小川の、澄んだ水のその上に桜の花が淡く反射するように、彩られる、ということだ。その桜の花びらもまた、赤いガクを落しながらはらはらと崩れ落ち、流れゆく日が来ることを……。
きみは火傷だった。背負えた火傷だった。胸にあいた大火傷だった-のに、いつしかそこに、あの肉芽がはったんだ。いつもいつも、見慣れた、あの薄い肉芽が。
もし火傷が治るとき、それは、きみに似た人を又喪うときだろうと思っていた。そのひとの喪失によって、上書きされることでしか、回復することはないだろうと、あるいは今度こそ致命傷を負って、微笑んで死んでゆくことでしか、治癒しないものであろうと。
ところが言葉の浜にやって来て、叫ぶように書いていたら、いくらかの人が、光の滴りのような言葉をくれたんだよ。いろんなことがあったけど、それらの甘い、健やかな、乳のような滴りが、胸の穴を照らし出して。-そこには花が咲いていて、きみが笑っていて、長らくきみをそこに閉ざしていたのは、私自身だったと、気付かされてしまって。
もう、ふさがっていくんだね。ふさがっていくから、なみだが出てくるんだね。さようならのリボンが投げられて、おびただしいキスとともに船に渡されて、びりびりと千切れていく、千切れて、手元に残るのと、海に漂うのと-。
十二年近く、あいていたそれ。
「がい骨みたいな手の人の目がね、ちぇしゃ猫みたいで。」古びた紙のにおい。
これ以上、ひととあたたかく交われば交わるほど、私は変化していくのがおそろしいのだ。小学生のときに祖母をうしなった無力な少女のままでいたかった私が、多くのものによって育てなおされ、通常の言語を身に着け、思春期がきて、母になり、とうとう大人になり、いまさらになってきみの喪失まで喪ったら、いったい私は何者になるんだろう。
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