積極的分離ー善と愛の違い
↓前編はこちら
熊です。
このNOTEの世界だけかもしれないが、
積極的分離理論に興味を持つ人が増えている気がする。
もちろんどんな解釈も個人の自由ですが、
いくつかの言葉に対する本熊の見解を述べます。
人格
積極的分離理論では人格という言葉をよく使っている。
人格の定義は様々であり、
文化や分野によって解釈も異なってくる。
「複数の人格を持ち、人格が変わると記憶も能力も変わる」という描写は映画やアニメ、漫画、小説などでよく見かけるが、それは積極的分離理論で使われている人格とは全く関係のない話である。
我々は赤ちゃんの頃から成長と共にこの世界をありのままで直視するのを恐れ始める。
世界が理不尽だからだ。
しかも成長とともに我々の欲望の種類と量が増えていく。
欲望を満たすために無力感をどうにかする必要がある。
ほとんどの場合、その「恐れ」に蓋をするために人間は世界を自分にとって有利なように解釈したり、自分に有利な方向に誘導したり、自分に有利な範囲内で生きたりする。
他者にとっての価値、
他の生き物にとっての価値、
他の時代にとっての価値は視野から外されていく。
自分の責任範疇を減らせば、
失敗に感じる経験も当然少なくなる。
他人の失敗を自分の失敗と思いませんよね。
逆に「たくさん失敗していること」が
「視野が広いこと」や「責任感が強いこと」、
「積極的分離が進んでいること」では無いので、
ご注意ください。
積極的分離理論の人格とは「価値観の集合体」です。
物事に対する認知は脳内で投票に近しい現象から成り立っており、人間は認知に対して主導権を持っていない。
イルカショーでイルカを見たらそれはイルカであり、
パンケーキに見ることはできない。
中立だった認知は人間の欲求に応えるよう、
様々な価値観に変化して定着していく。
「動物に触れ合う機会」
「人間と動物の絆と信頼関係」
「信頼か脅迫か洗脳か」
「イルカ可愛い」
「これがショーなのか刑なのか」
「イルカの知能が興味深い」
「勝者は生殺与奪の権を握る」
「イルカは感情をどこまで持ってるのか」
「人間は怖い」
「早い段階での分離」および
「神経発達レベルが低い個体の分離」は大した苦痛を伴わない。
上記二つとも短期間かつ速やかに価値観が分離し、自分の短期的な損得と関わる部分だけが残っていく。
この場合は当事者が分離の過程を主導しているわけではないため、積極的分離とは言わない。
熊はこれを「夢遊病」や「夢落ち」と称する。
一方、脳内での分離に気づいて分離の方向性を干渉しようとすると「積極的分離」が始まる。
そして積極的分離理論の統合とは「劇的に相容れしない価値観同士を如何に健康を損ねずに脳内に保持し続けるか」とのことです。
本来ならば全ての価値観は問題解決のヒントやインスピレーションの源泉、セフルケアの武器などとなり得るため、保持の仕方により脳の弾力性と拡張性が上がる。
意志と欲求の違い
皆さんは第三因子の話を覚えていますか?
頭の良い人は退屈に感じやすいと言われている。
そして退屈と一緒によく登場される言葉が刺激と創作欲です。
しかし、
「何かを成し遂げたい意志」と
「何かを作りたい気持ち」は違う。
創作欲は言わば自己顕示欲である。
余談ですが、熊は現代美術が嫌いです。
上手いか下手かという問題ではない。
全てではないが多くの現代美術は流行りの社会問題を流行りの手法で表現する。
もしくは芸術っぽさをアピールするために余計な工夫をする。
「そのメッセージ、絵じゃなくても伝わるよ?」
芸術はクイズ番組ではない。
「芸術にするほうが自分の存在を気づかれやすいのか?」
自己顕示欲の暴走とはこういうことである。
本能的な欲求ではなく、
磨きのかかった動機は人間に多彩な視点を提供してくれる。
より大きな目的、かつ行動とともに蓄積した能力はより複雑な価値観の集合体を安定させることができる。
善と愛の違い
本熊はもうアニメに興味を持っていないが、
去年かなり流行ってたフリーレンを少し見てみた。
・・・やはり合わなくて途中で辞めた。
3回辞めてジ・エンドだ。
どのあたりで辞めたかというと、
頭撫で撫でのくだりかな。
何回かあったよね。
人間は自分のわがままに苦しむ。
彼らのわがままに合わせることを愛もしくは慈愛と称する人も居るが、少し違うと思う。
それは苦しみと承認の無限ループになるだけではないか。
彼らが自分の欲求を乗り越える方法を提供し、
乗り越えるまで側に居てあげるべきではないのか?
彼らに拒否反応が出たり、もがいている姿を見るのに耐えられなければまずは自分の課題に向き合うべきだ。
「褒められると嬉しい」と
「褒められないと悲しい」は違う。
後者を増長すべきではない。
慈愛やアガペ、博愛精神、自己犠牲などはよく美徳と評価されたり、混同されたりするが、上記の一部には様々な問題点がある。
積極的分離の善は善良という意味ではない。
日本語で「最善」という言葉があるよね。
それだ。
最善が善良に見えるかどうかは、
相手から物質的・精神的な利益を得ているかどうかによる。
また、最善は「愛」と同義ではないし、
愛と関係するとも限らない。
ただ、実際に最善を尽くす場合は
「愛のバランス」をよく考える。
しかし「愛のバランス」と「一般社会の愛」は本質的に違う。
場合によっては同じ結果かもしれないが、そうでない場合は愛として観測されないかもしれません。
「次の世界は存在しない」で良い
次の世界、天国、魂は生まれ変わる
こういった言葉はどの国にも存在している。
それを言っている人が本当に信じていれば、
いつでも行けるようであれば、
今ここに残る必要はないだろう。
次の快速電車の時刻を調べれば、
ゴールに行けるじゃないのか。
次の世界がゴールだったら、
この過渡期である現世に時間を費やす必要はない。
「現世に残っている人々のため?」
どっちみち皆がゴールに行けるなら、
現世が幸せかどうかは何故重要なのか?
「現世の有限の苦」と「天国の無限の楽」なら、
苦も無視できる。
お分かり頂けましたでしょうか?
人間の言行不一致というのは。
次の世界を謳歌している人々は、
実は自分の言葉を信じていないのだ。
自爆テロのほうがある意味有言実行だが、
あれも違う意味で愚かだが。
映画も小説も漫画も、
人間が創作した作品では必ず意味のあるエンディングを作る。
仮にバッドエンドでも意味がある。
しかし現実世界では意味の分からないバッドエンドがたくさん存在している。
そもそもバッドかどうかが分からないエンディングも多い。
それぐらい皆が恐れているんだ。
この世界をありのままで見るのを。
もしこの世界に意味があるとしたら、
もしこの世界の意味を最大限にしたいなら、
それはこの世界の事だけを考えて生きていくことである。
楽になりたい、
承認されたい、
自己肯定感を得たい、
優越感を感じたい
といったフィルターを通して世界を見たいように見ることもできるが、積極的分離が進まなくなる。
過去に感謝し未来が見える人は異なる時代を繋げようとする。
成し遂げたいだけではなく、成し遂げさせたい。