No.8 面河の人口はなぜ10分の1になったのか?
みなさん、こんにちは。面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回は、渋草地区が中心部として発展していった流れを、一緒に見ていきました。そこでは昭和20~30年頃に面河地区の人口がピークを迎え、さまざまな施設やお店が並んでいたお話をさせていただきました。
また以前のNo.2では、近年人口減少により無人の集落が現れるようになったことに触れておりました。
(前回の渋草地区に関するお話はこちら↓)
(無人集落にもふれた面河地区の概要編はこちら↓)
今回は、そんな人口に関するお話にしっかりと踏み込んでいきます。
そもそも面河地区にはどのくらいの人が住んでいたのか?そして、いつ頃まで大勢の人がいて、いつから人口減少が始まったのか?可能な限りその理由にもふれながらお話していきたいと思います。
ぜひ、令和5年12月末の人口が421人であることを念頭にご覧ください。(※1)
江戸時代の人口
面河地区の人口に関する最も古いデータは寛保元年(1741年)頃(※2)、江戸時代のものです。面河村誌によれば、「久万山手艦」と呼ばれる書物に当時の大味川村・杣野村の人口やその内訳について記録されていたようです。
この久万山手艦も一般家庭にあった書物を寄せ集めたもののようで、この年のものは土居通清という人物の蔵本を写したとされています。
そこに書かれていた人口は、なんと1860人! 現在の約4.4倍もの人が、江戸時代の面河地区にいたというのは大変驚きです。
久万山手艦は一冊ではなく、何年置きかに数冊発行されていたようです。
明和8年(1771年)に発行されたもうひとつの久万山手艦(那智氏所蔵)では、両村の人口は2156人。
寛保元年から数えると、約30年間で296人増加しています。これは享保の大飢饉(1732年)の打撃を受けたのち、そこから回復する流れによるものだったのではないか?と面河村誌では分析されています。
そして明治時代に入ってすぐの明治5年(1872年)頃の人口は、地理図誌稿という書物の中で、両村合わせ2451人とされています。約100年間で295人の増加となりますが、年数からしてほぼ横ばいと考えてよいでしょう。
ちなみに全国的にみても、享保の改革(1736年)頃から明治維新までの人口は、わずかに増加してはいますが、ほぼ横ばいとなっています。
よって、江戸時代中期以降から明治時代に入るまでの面河地区の人口は約2000人前後で横ばいに推移していたと結論付けられるでしょう。
明治から大正期の人口増大
明治維新後、全国的には出生率が高いまま、死亡率が低下したことによる人口爆発が起こりました。
この時の面河(2村時代から杣川村時代)は果たしてどうなっていたのでしょうか?
結論から言うと、全国を後追いするような形で、面河でも人口が増大しています。
明治5年頃に2451名だった人口は、明治時代末期の明治43年(1910年)には3693人に。そのわずか5年後、大正4年(1915年)には4210人にまで増大しました。
130年以上横ばいで動いてきた人口が、この約40年間だけで1.7倍まで膨れ上がっており、明治維新がもたらした影響の大きさを感じさせられますね。
ちなみに明治43年から全国的に統計がとられるようになり、大正9年(1920年)には本格的に国勢調査が始まっています。そのため、これ以降のデータはかなり信頼できるものといえるでしょう。
さて、そんな大正9年の人口はというと、3907人と5年前から約300人減少しています。その後大正14年(1925年)には3504人、昭和2年(1927年)には3228人と変遷。大正4年のピーク時と比較すると、約1000人減少していることがわかります。
この人口減少の理由については面河村誌で明確にされており、第一次世界大戦後の不景気による人口流出によるものと記されています。
面河地区からは、主に北九州の炭鉱や銅山へ向かって人口が流出したそうです。
ここまで読んでいただくと、人口の最盛期は大正4年頃だったかのように思われるでしょう。ですが、最大のピークはこの後の時代にやってきます。
昭和の人口最盛期
時代は昭和に入り、第一次世界大戦による不況の影響が少なくなってからは、再び人口が増え始めます。昭和5年(1930年)は3859人、昭和10年(1935年)には4285人と、この時点で大正4年の人口を上回っています。
昭和15年(1940年)は日中戦争の影響か、少し減って4274人となりました。ですが太平洋戦争が終わった直後の昭和22年(1947年)には、4935人と再び増加に転じています。(※3)
そして、この次に行われた昭和25年(1950年)の国勢調査によって打ち出された4973人という数字。これが面河地区の記録に残る最大の人口になります。(なお、地域の皆さんによれば5000人を超えたこともあるとのこと。この調査の直後=昭和26年~昭和27年頃が本当のピークになるのかもしれません。)
この期間は、太平洋戦争による犠牲者も相次ぎましたが、それ以上に疎開者(都市部から、空襲等の被害を避けるために移住した方)、復員者(戦地から戻り、軍人の役目を終えた方)、一時帰農者(戦後の食糧生産のため、農業に従事した方)が大勢面河へ入られました。
戦争による影響だったというのは大変複雑な気持ちですが、このような事情で面河地区の人口は最盛期を迎えることとなりました。
人口減少の始まり
全国的にはまだまだ人口が増加していきましたが、面河村の人口はここを境に減少していくこととなります。
昭和30年から昭和60年までの、5年おきの人口を一気に見てみましょう。
昭和30年(1955年) 4764人
昭和35年(1960年) 4500人
昭和40年(1965年) 3273人
昭和45年(1970年) 2465人
昭和50年(1975年) 1795人
昭和55年(1980年) 1464人
昭和60年(1985年) 1323人
昭和30年代中頃までは4000人台に留まっていた人口ですが、昭和40年代に入って一気に3000人台まで減少。昭和50年代には江戸時代よりも少ない1000人台まで減少しています。
この時代に人口減少が進んだのは、もはや説明不要かとは思いますが、高度経済成長の影響です。
農村部での仕事では収入を得ることができず、大勢が松山市や大阪などの都会へ流出していきました。
特に、昭和35年から昭和40年にかけての減少は突出しており、5年間で1320人近くも減少しています。
これには、高度経済成長以外に二つの大きな理由があります。
一つ目は集落の人口過多によって移住が推奨され、一気にブラジルやパラグアイへ人口が流れたことが挙げられます。
もう一つの大きな理由は、面河ダムが昭和38年(1963年)に完成したこと。ダムに沈んだ集落から381名もの人が面河を離れ、ダム工事で面河に来ていた人たちも次の場所へ向かいました。さらにダムが建設された笠方地区が、巨大な穀倉地帯だったことも、減少を加速度的に進めた要因となったようです。
進む人口減少
平成に入ってからも、その速度は落ちたものの、人口減少は進む一方でした。この頃には、すでに地方の過疎化が重大な問題として取り上げられるように。それを可視化するためか、この時期以降の広報おもごには、戸籍上の人口が毎月掲載されるようになりました。
なお、国勢調査で出される実数とはズレが生じるため、ここでは国勢調査のデータのみを並べたいと思います。
平成 2年(1990年) 1135人
平成 7年(1995年) 1142人
平成12年(2000年) 964人
速度は緩やかになっていますが、確実に人口減少の進んでいることがわかります。平成12年にはいよいよ1000人を下回るまでになってきました。(ちなみに戸籍上では、平成12年2月に初めて1000人を下回っています。)
そして久万高原町へと合併した平成16年(2004年)の人口は881人。ピークを迎えた昭和25年からおよそ半世紀で、4000人の減少という現実と向き合わされる形となりました。
合併の影響と現在
久万高原町へ合併した翌年、平成17年から令和2年までの国勢調査のデータを、同じように並べてみましょう。
平成17年(2005年) 779人
平成22年(2010年) 644人
平成27年(2015年) 546人
令和 2年(2020年) 445人
合併直後の5年間では135人もの減少がみられ、平成22年以降は、5年ごとに約100人ずつ減少していることがわかるかと思います。
やはり、多くの仕事が面河外に出ていった影響などによる、合併直後の人口減少が目立っています。
その後の減少も止まりませんが、これはいくつかの事業所が閉鎖したことが要因として考えられます。また、三坂道路の開通などによって交通の便が良くなり、地域外に住んでいても面河の家族や知人に会いやすくなったことも影響しているでしょう。
いずれにしても合併から15年ほどで、さらに面河地区の人口は半減することとなりました。
そして、最新のデータとなる昨年末・令和5年(2023年)12月の人口は421人。これは戸籍上の人数ですので、実際は400人を切っている可能性もあります。
本記事のタイトルでは分かりやすく10分の1と表現しましたが、実はこれタイトル詐欺。実際にピーク時と現在の人口を比較すると、ほぼ12分の1にまで減少しています。
まとめ ー面河地区の人口推移ー
ここまで、各時代の人口と、その変遷に影響を与えた要因を見てきました。
今回の本文で使用したデータの他にも、いくつか人口が分かっているデータがありますが、それらをまとめて一覧表にしてみました。また2つ目の画像は、それをもとにグラフ化したものです。(※4)
これらを見ると、面河地区の人口がどのように変遷していったのかが、ある程度わかるかと思います。
流れを簡潔にまとめると、明治時代から人口が増え始め、大正時代に一度減少。その後昭和に入ってから急激に増加した後、昭和25年のピークを過ぎると一気に減少しています。
また、高度経済成長による流出が落ち着いてきた1980年頃以降は、およそ20年間隔で人口が半減していると言えるでしょう。
これにしたがって計算すると、2040年頃には220人、2060年頃には110人にまで減少しているという予測を立てることができます。(※5)
現状の地域の運営方法を維持しようとすれば、恐らくこのまま人口は減少していきます。また、仮に何かしらの策を投じ、その速度を落とすことができたとしても、増加に転じることは極めて難しいでしょう。
そのような状況の中で、今後私たちはどうしていくべきなのでしょうか?
このまま人が減っていくことを、自然なこととして受け入れるのか?
人口減少を緩やかにするために、地域外から人を呼び込むのか?
たとえ少ない人数だとしても、面河らしさを残せる方法を考えるのか?
はたまた、他の地域と協働しながら地域を維持できる方法を探すのか?
このように、切り口や考え方はいくらでもあるかと思います。
どれが正しいなんてことはありませんが、ぜひこのグラフをきっかけにして、面河の未来についても一緒に考えていただけると幸いです。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
【注釈一覧】
(※1) 後半で述べたように、戸籍をベースに算出されたものなので、実際に居住している人数はさらに少ないと予想される。
(※2) 原著の久万山手艦には「寛保前後の書記か?」と記されていたとある。厳密にはこの年でないと思われるが、面河村誌では便宜上寛保元年の両村の人口を1860人としている。
(※3) 昭和20年は、太平洋戦争の影響により国勢調査が実施できず、昭和22年まで延期されている。
(※4)一覧表およびグラフに使用しているデータは、国勢調査以外のものも含んでいる。そのため、実際の動きとは異なる部分がある。あくまでも、全体の流れをつかむものとしてご理解いただきたい。
(※5)同じ速度感で減少した場合の数字となる。面河地区の高齢化率(59.1%)を加味すると、さらに少なくなっている可能性も大きい。
【参考文献】
・面河村誌(1980年・面河村)
・広報おもご縮刷版 昭和50年~平成4年(2004年・面河村)
・広報おもご縮刷版 平成5年~平成16年(2004年・面河村)
・広報「久万高原」No.18(2005年・久万高原町)
・行政区別世帯人口調べ(2022年、2023年・久万高原町)
・統計局ホームページ/平成22年国勢調査 (stat.go.jp)
・統計局ホームページ/平成27年国勢調査 (stat.go.jp)
・統計局ホームページ/令和2年国勢調査 (stat.go.jp)
・図録▽人口の超長期推移(縄文時代から2100年代まで) (honkawa2.sakura.ne.jp)