No.5 面河はいつから面河なのか?
皆さまこんにちは。面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回までの2回は、「敬身小学校」にまつわる少しマニアックな話題でしたので、今回はまた概要的なお話に戻りたいと思います。
さて、敬身小学校についてお話する中で、「面河村」「杣野村」「大味川村」「杣川村」「北番村」など多くの村の名前が出てきました。少し混乱された方も多かったのではないでしょうか?(それをわかっておきながら後に回した理由は、No.3でお話した通りです。)
これらは全て、かつて面河地区に存在していた村の名前なのですが、時期により名前や範囲が異なっています。
今回は、それぞれの村がどのような経緯で誕生したのか?そして面河という名前はいつ登場したのか?時系列を追ってお話ししていきたいと思います。
一番古い村は?
先に挙げた5つの村のうち、最も古いものは「北番村(きたばんむら)」になります。明確な誕生年はわかりませんが、少なくとも安土桃山時代の末期には存在していたようです。北番村の範囲は、現在の面河地区に、旧久万町の「直瀬(なおせ)地区」を加えたものとなります。
北番村は慶長12年(1607年)頃までありました。この時期に庄屋である“次左衛門”という人物が亡くなったことによって、3つの村に分かれたそうです。それぞれの名前は「直瀬村」「杣野(そまの)村」「大味川(おおみかわ)村」。このうち杣野村と大味川村が、現在の面河地区となります。
なお、直瀬については現在も自治体名として残っており、杣野・大味川も行政区としては残っていませんが、呼称自体は現在も使われています。
ここからは余談となりますが、北番村についても、どうやら慶長12年までに限定した呼び名では無いようです。
No.3~No.4で登場した、明治初期の小学校一覧では、”杣野村”に当たる部分が”北番村”表記になっています。また、「久万町誌」や「美川二十年誌」では、石鉄県(愛媛県の前身のひとつ)時代=明治5年の書物に、北番村の”直瀬分・杣野分・大味川分”と表記されている旨が記載されていました。
これらが便宜上なのか、行政区としてなのか定かではありませんし、この2例だけでも北番村の示す範囲は異なっています。ですが、最低でも明治初期頃までは使われていた名称ではある、と考えるのが自然かもしれませんね。
「おもご」の登場
「おもご」という名前が確認できる一番古い文書は、面河地区が杣野村・大味川村だった、江戸時代中期に書かれました。「面河村誌」によれば天明3年(1783年)、「大成の自然と人文」によれば天明9年(1789年)とされていますが、天明時代に書かれたことは間違いなさそうです。(※1)
当時の松山藩で山林奉行をしていた「加藤勘介」という人物が、面子山踏査を実施し、山中詩吟を残したものがこの文書にあたります。なお、この頃は「面河」という表記ではなく、「面子」という表記だったようです。(もちろん”メンツ”ではありません。”オモゴ”です。)
ここで注意すべきことが一つ。この「面子」が示す範囲は、現在の面河地区全体ではなく、「面河渓」およびその周辺の「面河山」のみとなります。
実は、「面河」は初めから集落のことを指していなかったということは、面河の歴史を見ていく上で、とても重要なポイントです。
当然ではありますが、加藤勘介が残した山中詩吟は、面河渓に関する文書としても最も古いものです。ですので、観光史上でも極めて重要な文書となっています。
明治の大合併 ~杣川村の誕生~
江戸時代初期から明治時代中期にかけて約280年間、杣野村・大味川村として続いてきたわけですが、明治23年に転機が訪れます。
この前年の明治22年4月1日、江戸時代から残っていた集落等を整理する目的で、全国に市制町村制が施行されました。それを受け、約300~500戸を目安に大規模な合併が行われました。
杣野村、大味川村もこの影響を受ける形となり、明治23年1月に両村は合併することとなりました。こうして誕生したのが「杣川村(そまかわむら)」。杣野の「杣」と、大味川の「川」の字が取られたこの村が、現在の面河地区の原形となります。
この時から役場が渋草に置かれ、戸長に代わり大組長が各大字の代表となりました。
杣川村の歴史は、その後44年間続くこととなります。
観光地としての発展 ~面河村の誕生~
杣川村となって10数年経った頃、またしても大きなターニングポイントがありました。
この村に、小学校教師として「石丸富太郎」氏が赴任してきたのです。彼はのちの面河に多大な影響を与えることとなります。
石丸氏は当時、秘境ともいえる場所だった面河渓の景色を、世間に広めたいと考えていました。そこで、「小波(さざなみ)」のペンネームで海南新聞(現在の愛媛新聞)へ投稿し、面河渓の紹介を試みたのです。
また、海南新聞の編集長・田中蛙堂(けいどう、一部資料ではあどう)のもとを度々訪ね、面河渓の素晴らしさを訴えかけました。田中氏は石丸氏の熱心さに押され、明治42年に総勢9名で訪れることとなったのです。
この「面河探勝団」が面河渓を訪れたことによって、面河渓は観光地として世に広まっていきました。(探勝団については、またゆっくりお話ししたいと思います。)
村内にはいくつかの旅館が誕生し、絵ハガキや案内書なども多数発行。面河渓のふもとにあった杣川村は、観光によって発展していくこととなりました。
面河渓自体も、昭和2年に石鎚山と共に日本百景に入選、昭和8年には国の名勝地に指定されます。
そんな折、昭和8年当時の村長であった「重見丈太郎」氏は、次のような議案書を提出しました。(厳密には「丈」の右上に「`」が付きます。)
杣川村という名前は、明治22年の町村制によって、杣野と大味川から名前を取っただけのものにすぎない。それよりも、年々探勝者が増えており、昭和8年には名勝地として認められた「面河」の名をとる方が、地域に由来のあるものとなるし、村全体の発展のためになる。といったようなことがつづられております。
要は、「面河渓を通して村を発展させていくために、名前を杣川村から面河村に変えようぜ!」ということです。
この議案は可決され、昭和9年1月1日に、杣川村は「面河村」と改称することになったのです。現在も面河地区と呼ばれているこの場所は、この時から面河と呼ばれるようになりました。
平成の大合併から現在まで
重見村長の思惑どおり、昭和期は面河渓観光のピークとなりました。戦後には国民宿舎や林道、数多くの旅館や民宿などが整備され、村全体の発展にも繋がりました。
しかし、盛者必衰とはよく言ったもので、昭和後期には観光客が減り始め、村の人口もどんどん減少していくこととなりました。(※2)
特産品開発センターや面河山岳博物館などの新しい施設を設置し、行政的にもさまざまな手を打ちました。しかし平成10年代には、ついに人口が1000人を下回るまでに。
この頃は全国的にも大きな動きがあり、平成7年以降には合併に関するさまざまな法律が改定されました。それを受け、多くの市町村で大規模な合併が行われました。(いわゆる”平成の大合併”がこれに当たります。)
面河村を含む上浮穴郡でも、数年の協議を重ねた結果、旧小田町を除いた4町村の合併が平成15年に決定。その年の12月14日、合併協定書に調印されることとなりました。
そして翌年の平成16年8月1日に4町村は合併、久万高原町が誕生しました。杣川村時代から続いた面河の村政は、114年の歴史に幕を下ろしたのです。
現在も旧村単位で役場支所を設置しており、便宜上「面河地区」と呼ばれるようになりましたが、”面河”の名は多くの地図上から姿を消しました。
面河はいつから面河なのか?
ここまでお読みいただいてわかる通り、今回のタイトルである「面河はいつから面河なのか?」という問いの答えは、いくつかのパターンがあります。
まず「面河という名前が登場した時」であれば、天明3年頃の加藤勘介の詩が詠まれた時期以前となります。
次に「面河地区が今の区域で定まった時」であれば、明治23年の杣川村が誕生した時となります。
そして「行政区としての面河が誕生した時」であれば、昭和9年に面河村へ改称した時となります。
まだ答え方はあるかと思いますが、本記事ではこちらの3つを結論とさせていただきます。(現時点で把握しているものでも「大面河」というくくりがありますが、これについては示す範囲が大きく異なりますので、今回は割愛させていただきます。)
まとめ
皆さまが日常生活を送る上で「面河はいつから面河なの?」と問われることは、あまりないかと思います。(ほぼ絶対にないと思いますが、万が一あれば私が喜ぶのでコメントで教えてください。)
ただ、この記事を読んでくださった皆さまが、「面河地区の名前にはこんな歴史があるんだ!」と思いを馳せてくだされば幸いです。
そしてぜひ皆さまも、お住まいの地域についていつから今の地域になったのか調べてみてはいかがでしょうか。案外楽しいかもしれませんよ?
【注釈一覧】
(※1)多くの資料では、年数を表示する際は前者の天明3年に統一されている。「天明年間」と年数を明示してないパターンもある。
(※2)人数で考えると、面河地区人口のピークは昭和25年頃(約4900人)、観光客数のピークは昭和42年頃(約42万人)と、厳密には20年弱の開きがある。
ただし、昭和40年代中頃から観光客の減少が始まったことと、昭和49年に「過疎地域振興計画」が出されていることから、本文では「昭和後期から」と記している。
【参考文献】
・面河村誌(1980年・面河村)
・閉村記念誌 刻を超えて(2004年・面河村)
・久万町誌(1989年・久万町)
・美川二十年誌(1975年・美川村)
・大成の自然と人文(1992年・長岡悟)
・総務省|市町村合併資料集|市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴 (soumu.go.jp)
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