Youtubeお宝動画コレクション 竹内まりや その3
竹内まりやがデビューした1979年。
日本の音楽シーンには
地殻変動とも言えるパラダイムシフトが起こる。
ロック、ポップス勢の台頭だ。
1977年にデビューした
サザンオールスターズ。
当初はイロモノバンドと揶揄された彼らだが、
♬いとしのエリーで大ブレイク。
この年、紅白歌合戦に初出場する。
その時の模様だ。
竹内まりやと同じ日にデビューしたのが
シャネルズ(のちのラッツアンドスター)。
ドゥーワップ
(1950年代から60年代にかけて
アフリカ系アメリカ人らで歌われた音楽)という、
一部のマニアだけに親しまれたジャンルで勝負する
デビューシングル ♬ランナウエイが
大ヒット。
そして、山下達郎。
まりや、シャネルズが注目を浴びた
同じ頃。
達郎のJAL沖縄キャンペーンソング
♬愛を描いて がこれまた大ヒット。
一躍メジャーに躍りでる。
余談だが。
デビュー前のシャネルズ。
彼らは、日本有数のドゥーワップマニアでも有る
山下達郎、
そして達郎の盟友大瀧詠一のもとで修行を積んだ。
「マニアックな俺たちが曲を創れば
シャネルズはブレイクしない。」と
達郎、大瀧は
昭和のヒットメーカー
井上大輔(忠夫)
(フィンガー5の
♬恋のダイアル6700などを手掛ける)に
デビュー曲の作曲を依頼する。
そうして出来たのが ♬ランナウエイだ。
これまた余談。
シャネルズが大瀧詠一のもとで修行を積んだのは、
音楽だけではない。
なんと、お笑い芸人としての修行もだ。
大瀧が心酔するクレージーキャッツ。
彼らのコントまでもシャネルズは研究していた。
次々とヒット曲を連発した彼ら。
満を持してコント番組をリリースする。
これが貴重な映像。
コントグループ名「大森笑劇研究会」は
彼らのホームタウン東京都大森が由来。
話を戻す。
竹内まりやは新人賞レースに参戦する一方で、
アーティスト志向の強い
高品質な楽曲を歌い続ける。
ロスアンジェルスでのレコーディング、
しかも、それはアメリカの名だたるミュージシャンを数多く起用。
ジャケットの写真1枚をもゆるがせにしない。
こうした、現在の楽曲制作では常識な
アートワーク志向の作品作りは
まりやのシングルやアルバムで一般的なものに
なる。
それは、
当時RCAレコードでまりやを担当した
宮田茂樹氏(のちに、大貫妙子や小野リサらを
プロデュース。故人)や
まりやの所属事務所側プロデューサー
牧村憲一氏
(のちにフリッパーズギターらのプロデュース)を
はじめとする
【チーム竹内まりや】ともいうべき
制作陣が
都会的なハイセンスを惜しみなく
注ぎこんだ【こだわりの逸品】。
このこだわりこそが、
今日
ジャパニーズシティポップスブームで
世界がうなる
大きな要因だ。
日本のロック、ポップスが
世界水準となった
パラダイムシフトの年こそが
1979年で有り
その端的なアイコンが
まりやだった。
同年夏に発表された
セカンドアルバム「ユニバーシティストリート」。
大ヒットシングル♬ドリームオブユーは
シングルバージョンとは全く別の曲にまで聴こえるほどにリアレンジされる。
現在ではごく普通に見られる
別バージョンなるものも
このアルバムから広まった。
実験作とまで言いうる大胆なアレンジをした人物が
山下達郎。
まりやと達郎が
今日まで
公私ともどもでパートナーシップを持つ
きっかけ。
それがこの作品だ。
新人賞レースこそ
苦杯をなめることの多かったまりやだが、
歌手と制作スタッフらによる
ハイエッジなアーティストワークは
日本の音楽シーンそのものを一変させ
従来型昭和歌謡の歌手たちを圧倒する。
そんなまりやの本領は
いよいよデビュー2年目で発揮される。
その模様は次回に!
(続く)
(敬称略)
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