【ミニ小説】本と老人と鏡(エッセイ#9)
僕は大学生の時、バイトしていた本屋で老人に出会った。
老人は、最初に本屋を訪れた際、僕が住む地区の地図を買っていった。近所に住む人には見えなかったが、旅行者であるようにも思えなかった。その違和感があったから最初の来店を覚えていた。その後も、地元文化に関するものや心理に関する書籍、小説などを気まぐれに購入していった。僕は暇を持て余していて殆どの平日でシフトに入っていたから、自然と僕は老人と顔なじみになった。
ある日、この辺りでボヤ騒ぎが発生していることを知った。次に老人が来店した際に、何気ない日常会話としてその話題を振ってみたところ、老人はなぜか曖昧な相槌をしながら、気まずそうにその場を後にした。僕は老人の気持ちが知りたかった。
後日、ボヤ騒ぎの犯人が捕まった。近所に住む別の若者だった。あの日以来、老人は本屋に来なくなっていた。
社会人になって二年が経ち、僕はふと、あの時の老人が買ったいくつかの本が、岡山出身の作家によって書かれたものであることに気づいた。旅行に行ってみても良いかもしれない。同僚との遊びの予定もない。恋人もいない。他に行くところもない。気楽な気持ちで旅行に出かけた。
旅行先で一瞬、あの時の老人を目撃することになる。思わず声を掛けそうになるが、なぜか出来なかった。横にいた妻と話している老人の雰囲気が、東京にいた時とかけ離れていたからだ。本屋で会っていた時と比べて、根本的な自信に溢れているようにも見えた。言い換えると、顔に浮かんだ印象に尊大さが感じられるようでもあった。
僕はその時、この人がボヤ騒ぎの犯人だったのかもしれないと直感した。しかし、それは僕の思い違いに他ならない。既に別の人が逮捕されている。客観的に言ってこの老人が犯人であるはずがない。
結局のところ、僕自身が、あいまいな世界で両義性を抱えた人間なのだと気づいた。本当のことは一つしかないはずなのに、場面や捉え方によって物事に対する印象が変わってくる。老人は、そんな僕の思考が反映された鏡だった。
それから更に五年が経った今も、僕の中では老人の残した謎が生き続けている。極めて個人的な謎だ。
僕はあれから、何かを決めるときはまず二つの両極端な選択肢を作り、そのちょうど中間の選択を取るようになった。
それは、複雑で多義的な世界の中で自分が唯一前に進む方法論であると同時に、何か思い切った決断ができないという足かせにもなった。まるで、物事の片方の側面しか見えにくくなった世界で日常生活を送る自分への戒めのようだった。
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