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何者、変半身。

 自分はロックバンドは大好きなのに、アイドルとかLDHとかに代表される、J-popがイマイチ好きになれない。自分なりにもなんで?って10数年悩んでいる。
 
 中学の頃は「バンドがコアだから」これに尽きる。得意だった勉強と同じで、「普通なら知らない」素晴らしい物があることを知っていることが好きだった。当時は10年前にRADWIMPSを知る人は学年に5人もいなかった。「なにそれ」とうそぶく同級生を尻目に、「いいよ、こんな(素敵な)もん知らんくて」をずっと抱いていた。今は、小学生でもRADを避けては通れないかもしれない。

 高校に入り、創造力が物をいうと考えた。真似は創造に勝てない。「真似るから学ぶ」へ、「学ぶから作る」へ。今年、ハライチの岩井さんが「ネタ受取師」と「漫才師」という表現をした。自分は楽曲にも同じことが言える気がした。誰かの作ったものを売るのはコンピュータみたいだ。「コンピュータは1を100にも1,000にもできるけど、0から1を作れるのは人間だけ」と真摯に捉えていた。自分は洋楽も聞く。「ジャスティン・ビーバーだって作曲は自分ではしない。でも何ですんなり聞けるのだろう。他の人は聞かないから?英語で意味がとれなくても聞けるから?」洋楽を聞き始めてそんなことも考えた。「自分は好きなものを正当化してるだけじゃん」と気づく。表現してる本人たちって何も悪くない。それなら手に取るだろう。だが結局、自分から手に取るようなことはなかった。

 努力している人間に対する胡散臭さやダサさとの関係に気を巡らした。「リーダー論」や「主体性」みたいな週刊少年ジャンプの主人公にだけ許された特性。それを語るサークルや団体ってどこか胡散臭く聞こえる。しかし、芥川賞作家、元日本代表、秋元康監修、というラベリングが付けば、そこで努力する人たちに説得力が湧出しやすい。前者のような「意識高い系」という胡散臭い中で頑張る人をダサいと思いがちだ。自分はこれまでそういう物に手を出してきた。自分は全くの赤の他人に騒がれるよりも、半径5mにいる人間に騒がれたい魂胆であった。高校では、全国で500人しか選ばれない文科省の留学支援制度を使って留学もした。大学1年でIT系のインターンで働いた。でもそれで何かが変わることはなかった。それよりも、自分がよーく考えて考えて、実行したことのほうが自分を変えられている。

 「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかってるから、痛くてかっこ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名詞作ったりするんだよ」
 「今の自分がいかにダサくてカッコ悪いかなんて知ってる。海外ボランティアをバカにする大学生や大人が多いことも、学生のくせに名刺なんか持って、って今まで会った大人たちが心の中できっと笑ってることも、わかってる。あんたが鬼の首とったように心の中で指摘してることなんて、指摘される側はとっくの昔にわかってるんだよ」
 「自分が笑われることだってわかってるのに名刺作ったりしてるのは何でだと思う? ー それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」
                        『 何 者 』 朝井リョウ

 何かに熱中、もしくは熱狂してる人は、ダサくても、見てて気持ちがいいのはその人たちが主人公だからだ。甲子園球児でも、アイドルでも、ロックバンドでも。

 去年の12月にONE OK ROCKのツアーに赴いた。ワンオクのライブはもう7回目。「僕らは、アイドルグループでも、ボーイズグループでもありません。忘れないでください。ロックバンドです」という発言。当のバンドマンたちは、ロックバンドを強く意識している。

  では、ファンとは一体何なのか。本人たちと知り合いになりたい人たちなのか、投資した金額や物量で示威する人なのか、彼らが創造した作品を彼らなりの表現で楽しむ人たちだろうか。いつしかアンコール後に寄せ書きの横断幕を渡すことが恒例になっていた。完全感覚Dreamerで、えにもいわれぬ昂奮に体中が包まれていた自分の中に、横断幕に対してなんか違うんじゃないかとどこかで冷めている自分がいた。


 「ファンのあり方ってなんだ。」ってずっと考えている。

 「ラジオのノリを外に出すな」は、その戒めの一例である。そうなれば、出てくるワードは須らく「民度」となるわけだ。関連する商品やサービスを買うのは当然。みたいなのは、今回もトレンド一位を取れた!ってツイートに似ている。結果と目的が逆転している気がする。

 一方でファン嫌いの問題だろう。ここ半年の間に、アイコンを応援してる人にすることのデメリットについて述べている文章を見て、感心した。これ以上、この人の主張を見聞きしたくない人は存在する。それは嫉妬だったり、本当に自分から遠ざけたいと思っていたりすることが礎にある。そんな中で、私の価値観を爆破させたものが以下である。

「何かを信じることは何も考えないということだ。だけど今の私は何もかも疑って暮らしてる。」
「『無』を信じたいんだよ。その理由を探し回ってるだけ。それも一種の信仰じゃない?」
「既存が壊れて新規が始まるその瞬間にだけ無は存在する」
                       『 変半身 』村田沙耶香

 人間の価値基準は当人が触れてきた外部、あるいはそれで得られた経験によってできている。その基準が良いと思う物事に対して、その度に穿った見方はしない。「〇〇にならないでほしい」って言うのは今のままでいてという、その極致だ。無を信じることは、社会規範と相容れない。

 個人が存在する。したがって、その人の思慮、野望、欲が存在する。考え方の方向は違えど、同様にそれらを持っている他人がいる。社会は、彼らが互いに信用することで初めて成り立つ。その上で「無」とは反証の余地がない否定である。

 ファンと信者の境界線は霞んでちっとも見えない。応援と推しのそれもまた見えない。洗脳と教育の分け目とは。VARのように明確化した判定をつける、そのことが必要なのか。信仰心よろしく、きっと濃淡ある渾沌としたものなのだろう、興奮と気分で凝縮されたり、撹拌されたりするんじゃないか。

 1年の春、同じ学科の友達と「正しさってなんだろうね」って話したことを回想すれば、無いと結論に至った自分たちがいた。チョモランマ。エベレスト。サガルマータみたいに、言葉だけが違うのか。善悪と真偽という2つのマトリックスの中で生きる中で、その時々でどっちの軸を使うのか?交差する原点Oは「わからない」という主張の集合体だ。

 何かを蔑むこと、それって難しい。比べられないものばかりで、みんなが納得する枠組みの中で決めるからだ。それも多くは、特性として、無差別さの暴虐極まりない「娯楽」の中での話である。そこで指針となるのは、なにかのラジオで聞いた「3人目のダンサー」という話の教訓である。

ある一人がダンスを始める。大抵は周りから気味悪がられる。冷やかしにしろ、なんにしろ、2人目が来たとする。しかし多くが、周りの目は変わらない。そこに3人目が入ると、周りの目が変わってくる、というものだ。

 なぜ3人目が大切なのか?3人目になる人は、2人の枠の中に参加することへのためらいよりも自分の興味のほうが大きい人間だ。かつ、それは(先にいる人間が1人という境界線がない)2人目よりもずっとそのためらう気持ちは大きい。

 自分の世界で没頭している1人目。共感で楽しんでいる2人目。ここまではLINEと同じだ。その小さい枠の中での内輪ノリとそれを見ている周りの目を分かった上で楽しんでいる3人目。法や、ルール化されてないものは、結局、その3人目が現れるかどうかでいくらでも変わるはずだ。
 
 現実として、はたから見れば、ダサくてキモい自分がいる。出来ちゃうカッコいい自分を、自分の頭で作り上げる。できないかもしれないという不安や心配の原因は、その期待の裏返しだ。その「カッコいい」も、結局他人の評価で作り上げられるものだ。そして、まさに今のダサい自分には、他人はなりえない。その上で、自戒していることが2つある。自分の快感や名声は他人を蹴落として得てはいけない。功績を上げた本人に称賛を送る。

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