普遍論争
普遍論争という言葉を皆さんご存知だろうか? 知らない人も多いだろう。わたしはたまたま、ヨーロッパの哲学に興味があったから「唯名論」と「実念論」の対立のことなのだな、漠然と知っていた。
中世ヨーロッパ。キリスト教が他の何よりも優先された社会。そこでは、修道士たちが思弁を繰り広げた。現実になんの役に立つのか分からない、非常に細かな、現代人には理解できない、だが、真剣な議論がなされていたのである。
その思弁のことを、一般に「スコラ哲学」と呼ぶ。
スコラ哲学の議論は広範に渡っているが、その中で特に有名なのが普遍論争である。わたしは、この哲学について、次の二つの著書から学んだ。
山内志朗「普遍論争 近代の源流としての」
八木雄二「天使はなぜ堕落するのか」
この二つは、難解だが、読者を自分で考えることに誘うという点で、素晴らしい名著だと思う。
読後、わたしが考えた限りでの普遍論争について、ここに記す。
金属の代表として「金」がある。「金の延べ棒」の「金」である。「金」を得る手法としては「鉱山で採掘する」他に、「砂金を取る」などの方法がある。中世の人々は「全く異なる方法で、全く同じものが得られる」ことが不思議だった。
だから、彼らは考えた。別の方法で同じものが得られるということは、その背後に共通する設計図が存在するに違いない、と。設計図とは、もう少し学問的な言い方をすれば「性質」と言えるだろう。
人には人の、犬には犬の設計図が存在する。その、具体的な個物を超えた共通の設計図のことを「普遍者」と呼ぶ。
では、この「普遍者」は「実在」するのだろうか。それとも、人間の頭の中だけに存在するものなのだろうか。人間は、色々な実験や経験を積み重ねて「砂金」と「鉱石の中の金」が同じものだと知る。最初から同じだと知っているわけではない。それらが別なものである可能性はあり得たのだ。だから、「普遍者」とは人間が作り上げた概念に過ぎない、と考えることもできる。
だが、中世の人々は(時間と空間の中には決して存在しない)「普遍者」こそが、真に実在するものだと考えた。この世界は、「普遍者の世界」の劣化した姿に過ぎないのだ。これは、プラトンの「イデア」の考え方と似ている。
そして、設計図が実在する以上、それを作った何者かも実在する。それは、神をおいて他ない。彼ら(の一部)はそう考えた。
だが、ここでちょっとした矛盾が生じる。個別の「実際の人間」は「人間という性質(設計図)」に含まれるに過ぎないのだろうか。それとも、「実際の人間」に「性質(設計図)」が含まれるのだろうか。
個々の人間が「人間の性質」に含まれるのならば、全ての人間から個性は消え、「理想的な人間」だけになってしまう。
逆に、個々の人間の中に「人間としての性質」が含まれるのならば、それ以外の部分(目の色、体力など偶有的な部分)は人間ではないのだろうか。
これは、実際、真剣に考えるならば、中々答えようがないのではないだろうか。中世の人々にとってもそうだった。
全て同じに見える「金」にしても、存在している場所、表面のざらつきなど、個別の性質を持っている。したがって、上記のような問題が生じるのである。
中世の人々は非常に思弁的だった。まだ、数学を中心とした、世界の性質を記述する方法を持たなかったためだろう。だが、彼らの思弁が、やがて次の時代の科学の発達の基礎となっているのである。
普遍論争について、わたしがまとめられる限りでまとめてみた。だが、事はこんなに単純ではない。
皆さま、興味を持たれたならば、上記の著作を手にとってみてはいかがだろうか?