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多芸は無芸というけれど、たぶん時には役に立つ
みなさまこんにちは。オリヴィエ・ラシーヌです。
新年最初の一週間がすぎましたが、良い滑り出しとなりましたでしょうか。
私にとってこの一週間は、内省の週でした。
といいますのも、次作小説の執筆が止まってしまい、その間に知った手作り石鹸なるものに気を取られ、挙句には物欲に釣られて現実逃避を図る始末でして。はたと気付いてみれば、年明けからもう4日も経っているではありませんか。
これではいかんなぁと思い、ようやくスケッチブックを開きました。
そうして次作の主人公だとか、その周辺人物だとかを描いていたのですが、これがどうも構想段階の人物像ではなくなってきているのです。
初期構想から時間も経っているし当然かと思いつつ、しかしふと、今日このスケッチブックに現れた人物は、はたして小説の中で行うような言動をするだろうかという疑問が湧いてきます。
私にとってこういうことはよくあります。そのために絵に描き起こすと言ってもいいほどに。
ですが実のところ、今までは「なぜ自分で書いた人物と描いた人物にずれを感じるのか」ということはよくわかっていませんでした。
それが今回、少しわかったような気がするのです。
去年読んだ小説にピエール・ルメートル作『その女アレックス』というものがあります。
その中で、かつて美術学校を目指していたことのある主人公カミーユは、高名な画家であった母の教えを思いおこします。
「母はいつも、上達への唯一の道は自画像だと言っていた。自画像だけが〝距離のとり方〟を教えてくれるからだと。(中略)母の指摘はもっともで、カミーユはいまだに〝距離のとり方〟を会得していない。いつも近すぎるか、あるいは遠すぎる。あるときは深入りしすぎてまわりが見えなくなり、そこで悪戦苦闘するうちにわれを失う。またあるときは慎重に構えて身を引きすぎ、結局なにもわからずに終わってしまう。」
スケッチブックを眺めながらこの言葉を思い出した私は、ここでいう『自画像』というのが、私にとっての小説に対するイラストに相当するのかもしれないと考えたのです。
小説の構想を練る時、確かに私は主人公に対して近すぎるふしがあります。まるで主人公という皮の中に自分が収まってしまったかのようにかれらの心情を想像し、行動を決め、プロットを作ってきたように思います。そこで悪戦苦闘しているうちに、物語の本質である『テーマ』を置き去りにしてしまい、結果として筆が進みにくくなっているように思ったことは今までにもありました。私にとって物語の『テーマ』というのは小説を書く動機そのものであることが多いので、それが薄れると減速しがちなのです。
思えば今までも、そういうふうに筆が進まなくなった時、イラストを描いていたような気がします。
主人公をイラストに描くというのはある意味、主人公という皮の中にいた状態をやめ、外に出てかれらを客観視することといえるでしょう。
つまり、プロットの段階で陥っていた『近すぎる』状態が、イラストに描き起こすことによって改善され、その結果、過度な自己投影によって発生した主人公の人生観とは乖離したプロットというのがよく見えるようになるのではないか。
そう気付くことができたというわけです。
「その女アレックス」は、多角的な視点を駆使することによって、立体的で複雑な事件あるいは主人公カミーユその人を照らし出した作者の高い描写力を感じる作品と思っていましたが、技巧だけではなくこういう教えをも見つけることができるとなると、やっぱりプロの作品は面白いと感じるのと同時に、そういった作品に出合えるのはしあわせなことだと感じます。
私ももっと、そういう得るもののある作品を生み出せるようになりたいですね。そのためにはやはり、〝距離のとり方〟を学ばなくてはならないのでしょう。つまり作品に対しても自分に対しても、客観的な内省の継続が必要なのだなと、改めて感じた一週間でした。
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