性虐待経験者だけど何か質問ある?
先日、心理学系の講義で性虐待の話があって、「こういう行動に出ることは多いんだけど、なぜだかはあまりわかっていないんだよね〜」という話がいくらか出ていたので、勝手に答えてみようと思い立ちました!多分、性虐待経験者が細かく自分の感覚を語るのって割としんどいんだろうね。
かなり詳細に自分の感覚を言語化してみたつもりではあります。
あくまで1つのケースとして、性虐待被害者に関わる可能性のある人に読んでみてもらえたら嬉しいです。生々しい話もまあまああるので、無理はせず。
0.前置き:私の略歴
回答の前提になるので軽く。今は24歳の身体女性です。
詳しく知りたい人はこちら↓
というわけで、講義中に観測した質問を一般化して、自分の経験で(勝手に)答えてみます。質問あればいつでも聞いてください。
1.ヒステリー/試し行動について
Q.自分の意見に反対された際にヒステリックになるケースがあるが、どういう風に感じているのか?
自分も何か申し出を断られた時、かなりパニックになったりヒステリックになったりといったことが多くて、なんでだろうと考えてみたのだけど……
おそらく、長いこと自分の身体を性的に消費される(上に、それを愛情だと形容される)ので、
・「人から大事にされないことへの憤り」
・「大切にされない自分というものに対する羞恥心」
が自分の根底にできあがってしまっている気がする。それゆえに、自分の行動を否定されるとその両方が刺激されるためパニックになるのだと思う。
とにかく私の中には「恥」という感覚が異常に強くて、それは
①そもそも社会において「性的なこと=恥ずかしいこと」というイメージがあり、虐待のせいでそのイメージが自分の身体と分かち難く結びついている
②自分の尊厳が傷つけられたことと①が結びつき、「劣等な存在だから大事にされなかったんだ」という罪悪感となる
③理性に負け、自分を性的に消費しようとした大人への失望が①②と結びつき、「こんなカスみたいなやつに性的消費されたんだ」という絶望を抱く
の3つの恥に分けられると思うのだけど。
相手の行動がこの3つのどこかにひっかかると、怒りと共に羞恥心みたいなものが湧き上がってきて、自分がすごくみじめに感じて、それで頭がいっぱいになってしまう。
怒りだけなら耐えられても、みじめさが加わるので、どうしていいかわからなくなって、抑えきれなくなるとヒステリックになる。みたいな。
しかも、その考えはもうかれこれ21年間も繰り返された(人生の7/8!)ので、もう癖になっちゃってるんだよね。間違った箸の持ち方を直すのがめっちゃ大変なのと似ている。
別に本当に自分のことを否定する意図がなかったとしても、ちょっとした負の感情を大きく受けとってしまい、なんか自分が恥に満ちた存在のような気になってしまう。パニックなんだよね。
で、自分でも「こんなことをしたら余計に嫌われる」ということは頭の奥でわかってはいるのだが、それでもどうにか憤りを伝えたくて、自分のプライドを回復させたくて、自傷とか暴力とかそういう行動を選んでしまう。
正直高校まではだいぶ周りもやりづらかったと思う。今もなるべくコントロールしてはいるけど、まあそういうきらいはあるかもしれない。
この感覚を大勢に通じるようにわかりやすく例えると、
「無様なことをして誰かに笑われたときに顔が真っ赤になって怒りが湧き上がってくる」
のと似た感覚なのではないかと思う。ただ、その程度が強すぎて(また、負の感覚が強すぎて)そして頻繁すぎて暴力的になってしまう、という感じ。
そう思うと、性被害の一番やばいところは「常に自分のことを嘲ってしまう精神性を被害者に植え付ける」というところなのかもしれない。
Q.どうして試し行動をするのか?
これはねえ、私は怖がりなので頻繁にはしないのだけども……
一つには、自分のことを「『愛している』と言いつつも性的に消費してくる」人によって長期間加害されていたので、根本的に人から愛されているということにとにかく自信がないというのが挙げられると思う。
愛してくれている人に消費されるのが本当に怖いので、何度も確かめたくなるし、どの程度「本物の愛」みたいなものなのかを知りたくなる気持ちはわかる(私は行きすぎた結果「本物の愛」ということをほぼ信じなくなってしまったので、あまりやらないけれど)。
もしそれ以外の要因を挙げるとするなら、
私個人の感覚としては、「試して愛情を確認しよう!」という気持ちがあるというより、「自分のことが好きならこれくらい受け止めてくれて当然で、受け止めてくれないような人は私の近くにはいらない」という感覚に近いのかも、と思う。
さっきの話とも重なるのだけど、自分の中で自分を常に責めて嘲ってって感じで負の感情のマグマが心の中にあるんだよね。
しかも不眠症とか悪夢とかで身体的にもかなりストレスフルなので、常にかなり追い詰められていて、その状態なのでどうしても誰かにイライラしちゃうことは多いと思う。それは側から見たら必ずしも正当ではないことも多い(と私は感じる)ので、それを相手にぶつけることの是非はさておいて、あくまで状況描写としてね。
たとえば超忙しくて徹夜明けのときにうっかり他人に舌打ちしちゃった、とかっていうことはみんな経験があるとは思うのだけど、それが365日ずっと続いている感じです(実際に私は13歳から19歳までほとんどベッドでゆっくり寝たことはなく、今も続けて眠れるのは3時間くらいです)。
しかも内心は(私は)ずっと病んでいるから、「徹夜明け+死にたい+大勢に笑われているように感じる」とかいう最悪メンタル状態が24時間365日……となると、まあ……うん。
そんな感じなのだけど基本的にはかなり我慢している。
でも近しい人相手だとちょっと出ちゃうことがあって、それを否定されるとパニックになってつらい、というのの合わせ技で試し行動に見えている部分も多いのではないかと思ったりする。
2.性化行動/虐待の連鎖について
Q.なぜ性虐待被害者が性的に奔放になるのか?
これねえ、「性の場では必要とされるから」みたいな説がまことしやかに流れているのですが、私はあんまりそういう感覚は(いまのところは)ないので、個人的に一番乖離を感じるポイントではある。
私の場合は、だけれども、「性的に接触したい」というよりは「当たり前のように性的接触が近くにある」「性的な視線のない関わりが想定されていない」という感覚が近い。
たとえば、オンラインで声を聞いた相手の顔を想像したり、普段仏頂面な誰かの笑顔を想像したりということはあると思うんだけど、その延長線上として性的接触をイメージしたりするという感じ……。
私の場合は3歳くらいから、しかも同性から性的な虐待に遭っており、小学校でも性的ないじめにも遭っていたので、
なんかもう性の情報を思い描かずに関係を構築したことがないんだよね。
しかも些細なスキンシップも性の文脈で捉えてしまうため、よりその感覚が強化されていく(たとえば、父親や先生に頭を撫でられるのも性的に捉えてしまって困惑していたときがある)。
別にだからといって誰でも彼でも性的な関わりを持ちたいとかそういうことではないのだけど、なんかあまりにも日常としてそこにあるので、まあ人よりはガードは緩めではあるのかなと思う。
もちろんそれで誰かを襲ったりとかっていうのはまた全然別の話。オンラインで知り合った人の顔が見たいからといって無理やり家を特定して押しかけたりはしないよね?そういうことです。
ただ、これに関してはもう性について知ったころには起きていたことなので、生まれつきの性質と判別がつかないんだよね。
もともと空想豊かなタイプであることも関係していると思うし。
あとは、多分これも性虐待に遭っていたせいではあるのだけど、よく夢で性的な夢を見ていた時期があり、そのときに勝手に周りの人が出てくるので、より強化されていた部分もあるかもしれない。
本当にここ1年くらいまではめちゃくちゃ気にしていて、自分が汚れているようですごく嫌だったのだけど、最近なんかいろんな男子から「でも男子はみんなのこと一度は性対象として見てるから……」という話を聞いたので(偏見全開ですみません)まあ一部の男子にそういう奴がいるなら自分もそういう感じでもいいかという気になって諦めた。
別に行動に移してはいないので許されたい。
Q.性虐待を受ける娘が母親に嫉妬されることがあるのはなぜ?
これね、なんかみんなが「摩訶不思議ですよね」的テンションでびっくりした。わからんのやな。わかった上で理性で表に出さないもんなんだと思っていた。
ヒステリーのところでも書いたけれども、私は基本的に自分のことを劣等な存在だと思っているため、ちょっとでも何かの基準で誰かが自分ではないものを選んでいるのを見ると瞬間的にめっちゃイラッとする。劣等感とか恥が刺激されるというか。
それは自分の意に沿わない基準であっても同じ。
ましてや人より性との距離がもともと近いので、性的な基準で自分が選ばれるか否かってことは正直人よりも気にしている節はあると思う。
ただ、別に表に出さないんですけどね……。
ましてや、自分の旦那が自分の娘に手を出したとなったら、反射的なイライラと旦那への失望とそんな旦那を選んだ自分への失望とで気がおかしくなると思うわ……。しかも「もしかして自分と結婚したのって娘目当て?」とかまで頭が回ってしまって苦しくなる。
その矛先に娘を選ぶのは理性が足りないとは思うけど、まあ、気持ちはわかる。わかった上で、私は被虐待児としてそれは許せないけど、でも、わかるとは思う。
それを「未熟」と評するのは、まあ、妥当ではあるとは思うけど……でもまるでわからん感覚として遮断はしないで欲しいとは思う……なんか、そういうふうに追い詰めることで余計に矛先が娘に向かっちゃうから…………。
周囲もその気持ちを理解しようと努めつつ、被虐待児のケアを最優先で行う環境であって欲しいね。と思います。
あと、たぶん、いつか被虐待児の方もきっと似たような気持ちになってしまう日がくるから(実体験)。そのときに、親のことを周りが理解しようとしていた姿ってだいぶ助けになるんじゃないかと。異常なものとして切り離さないで欲しいな。
Q.承認欲求のために性行動に走ることはあるか?
うーん、これは正直ある。あるっていうか、さっきの話と似ているけれども、それを含まない関係性のイメージが薄いという感覚が近い?
ちょっとわかりづらいので因果を整理すると、私の場合は
・性に奔放なのは承認欲求のためではなく別に原因があるが、
・承認欲求によって性行動が触発されることは実際にある(ただ、性に奔放な理由の中に承認欲求が占める割合は小さめ)
・ただ、両者の要因として共通する要素はある
という感じです。
あくまで私個人の感想としては、「愛に飢えていて、いけないと知っていたけどやってしまいました」という感じではなく、普通に誰かと友達になることの延長線上として全く想定されていないわけではない、みたいな感じの気持ちに近いかもしれん。
たとえば、友達と仲良くなったら「サシで飯食いに行って深い話してみたいな〜」って気持ちを抱く人は多いと思うんだけど、そんな感じで、仲良くなった先にそういう行動があることも別に想定の中にある。特に恋心がなくとも。(誰か恋人とかとお互いしない約束をしていればしないけど……)(というのはまた別の話とも関係してくるので、こちらもよければどうぞ↓)
それはそうと、やっぱり誰かに特別な感情を向けられるのってまあ嬉しかったりするわけだけど、その手段として性が普通の人よりも近くにある、という側面も否定できないかも。
おそらくだけど、「性虐待に遭うと急に承認欲求が強くなって急に性的な行動に走る」というよりも、
「人間、人に好かれることで嬉しくなることは少なからずある」
という前提が先にあって、それが以下の2側面で性行動という形で強化されやすいというイメージを持つ方が正確かもしれない↓
①性虐待に遭ったことにより、承認されないことへの不安感を抱えやすい
②その手段として性を扱うハードルが人より低い
まあ人によっては他者からの承認なんていらんぜっていう硬派な人もまあまあいるとは思うんだけど、多分ほとんどの人にとっても承認欲求とか異性から好かれたい欲求とかはあると思っていて(じゃなきゃ人々、モテるモテないをそんなに気にしたりしないよね)、それがちょっと強くてちょっと性へのハードルが低いとこういう感じになる、のかなあ。
問題はこれがどういう問題を引き起こすかっていうところで、ただ私はあんまりこのことを「倫理的に」問題だとは最近は思っていなくて。問題点は、私の場合は↓の3つに分解されると思う。
というわけで、私はこの、性行動への気軽さや承認欲求自体を修正しようとは思っていなくて、この3つにピンポイントに対応しようとしているかなあ。
具体的には、
①否定される恐怖には常に時間を置いて対処する
②性行動に伴うリスクを都度計算する
③性嫌悪自体を治す(これは割と治った)
という感じで、今はそんなに嫌な目に遭ってはいないし、過去にも別にここに漬け込まれたことは少なくとも私の認識上はあまりないけれど、まあそれは割と幸運な部類だとも思う。
あと、単純に私自身のスペックがあんまりこう「女性らしさ」全振りではないというか、昔から一重男顔で中身もまあまあ男っぽかったし、頭の良さを早くから自分の武器として理解していた節もあるので、あまり性行動によって承認されようという気持ちは強くならなくて、今思うとその点は恵まれていた気がする。
3.性虐待からの回復はどうする?
ひとしきり講義中に先生とか学生とかが言っていた感想に勝手に答えてみたので、あとは余談。
ろくに回復してないやつがこういうことを書くのもなんなんだけど、まあまあ改善したので自分のことを振り返って「ああ、これは役に立ったな〜」と思うことを挙げてみます。
こんな感じ。
①はわかりやすいと思う。時間は偉大。
②も本当にでかい。失われた自尊心をかなり回復してくれた。私が些細なことで凹んだり「それは嫌だったんだ」って言ったりしたときに友達が聞いてくれたことが本当に涙が出るほどありがたくて、心が少しずつ癒えた。本当にありがとうみんな……
③は最近大きいなって感じていて、別の記事でも書こうかと思ってる。
前述の通り、私は否定されるとかなりパニックになっちゃうことが多かったり、相手の言葉の裏を読んでとんでもないことになったりすることが多いんだけど。
いっそ清々しいまでに率直に自分の意見を伝えてくれる人、それでいて私をとても大切にしてくれる人が何人かいて、その人たちと関わる中で「人の意見を受け入れるってこうやるんやな」っていう気持ちになり、それを通じて間接的に自分の「NO」も肯定できるようになった気がする。
④についてはまあまあ意外な人もいるかもしれない。あくまで俺の場合はだけど、もうほんといろんな関係が適当に乱立していたことによって、自分の経験した関係性を相対化できたというのがありそう。
性的ではない関係を積み重ねていくのはもちろん大事なんだけど、個人的には「性的だが私のことを大切にしてくれる」関係というのもすごく大切ではあった。そこに好意や愛情があるときもないときもあったけど、「人として尊重されているなあ」と思うことがあるとほっとする。そのおかげでだいぶ性嫌悪が落ち着いた気もするし。
⑤はまあまあわかりやすいかも。私は自分のことが嫌いなので、自分のやっている行動を相手を通じて肯定することができたのが大きいかなあ。
っていう感じです。あとは単純に自分のストレスが軽くなったりするとその分だけよくなりはする。
といっても、まだまだ全然回復してなくて、ようやく人が後ろに立っても怯えなくなったくらいではあるんだけど、それでも昔のことを考えるとだいぶ良くなったなって思うから、本当に出会ってきたみんなに感謝しかないです。
あと、マジで性虐待はやめて。ほんとに。。。
鬱憤や寂しさを子供に向けざるを得なくなる前にどうにか解放できるクッションを社会に作っていきたいですね。
以上!長々とありがとうございました!
他にも質問などあれば(悪意のないものは)答えるので、気軽に聞いてください〜
Twitter→ @raccount0906
以下、最近恒例の、勝手に記事をおすすめするコーナーです↓
★「好き」がわかりすぎるという話
★性虐待に関するもっと生々しい体験録
★一歩ずつ前に進んでいく日々の話
★自殺ってやっぱり止めたいよねっていう話