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#297 チームラボボーダレス@麻布台の感想 Wonder, explorer and discover 25/2/16

こんにちは。
今日は、アート鑑賞の感想を記してみます。

先日、2024年2月に麻布台ヒルズにできたチームラボボーダレスのアート鑑賞をしました。
本展示は、
「境界なく連続する1つの世界の中で、さまよい、探索し、発見する」がパンチラインとしてテーマ設定されています。公式サイトより引用すると、*********
チームラボボーダレスは、アートコレクティブ・チームラボの境界のないアート群による「地図のないミュージアム」。
アートは、部屋から出て移動し、他の作品と関係し影響を受け合い、他の作品との境界線がなく、時には混ざり合う。そのような作品群による境界なく連続する1つの世界。
境界のないアートに身体ごと没入し、さまよい、意思のある身体で探索し、他者と共に世界を創り、発見していく。
*********
です。
感想もほぼこれに集約されてしまいますね。

イマーシブ型のアートミュージアムと類型化される形態は、正直なところ、楽しくて面白いけど、アトラクション的な体験が強く、あまり得意ではありませんでした。ですが、その感覚が良い意味で解きほぐされました。

展示の終わり、出口には「何かを見たということは、何かを見ることができなかった」「連続していること、続いていることが尊い」、そんなニュアンスのメッセージが訴えられています(正確なメッセージは記録していないためあしからず)。

このメッセージが、わたしには響きました。何が響いたか、です。
たとえば、人事部門としての人の発達や育成を捉える1つに、「分かった」ときが人が成長したときと考えています。「分かった」は自分自身の価値規範たるマインドセット、たとえるならOSがアップデートされた瞬間と考えています。OSが変わるとは、今までの自分から「変わる」ことです。その分かった瞬間には、新たな問いが生まれてることが同時並行的に発生します。その考え方と、「何かを見たとは、何かを見ることができなかった」にドンピシャで一致したな、と感じたのが響いた点です。

「続いていること」も同様の一致を見ました。自社の、その企業の歴史的な積み重ねによって「今・イマ」がある、と考えています。たとえば、人事に関していえば、自社の人材に対する観が現在どうなのか、それはどんな仕組みや営みに反映されているのか、です。従業員に対して手厚く、その人の成長支援やキャリア開発支援を重視しているカルチャーは、今の課長をはじめミドルマネージャーたちがそうした姿勢を持っているから形成されている、のではなく、これまでの歴代ミドルマネージャーや経営、人事が積み重ねてきた取り組みの試行錯誤によって、形成され続けている、と捉えています。

メジャーリーグの大谷選手が今の活躍があるのは、当人の人並外れた努力もさることながら、これまでの先人たちがメジャーリーグに挑戦してきた中で得た成功・失敗の経験や信頼の積み重ねによって生まれている部分が大きいと考えます。メジャーリーグのシーズンを過ごすにはどのような体制やトレーニング、コンディショニングが必要なのか、契約のあり方は日本とどのように違うのか、重視される成績やチームプレーはどのようなものなのか、最初の一人から、二人目、三人目と実践から習得してきた積み重ねによって、発射台が高まったことによってスタートラインがまったく変わってきます。ですから、今この瞬間の大谷選手が優秀な選手だから、だけではなく、過去の先人たちの挑戦とその結果から地続きになっていると考えます。

これらのことと、出口のメッセージとが、とても強く共感するに至りました。

さて、展示の中身の感想です。
まず、いかに日常では限られた知覚のみに頼って生活しているのだな、です。五感をフルに使って感じることを実感させられる作品の中に没入しました。それはフィジカル的な五感と、メンタル的な五感、心身をまさにフルコンタクトに活用して感じるアートでした。

一瞬たりとも、同じ状態の展示はなく、常にアート作品が動いています。それを展示部屋に閉じずシームレスに、ボーダレスに、会場全体をアート作品が動きながら、あるいはそこにいる鑑賞者のわたしたちとの動きと連動しながら作品が生まれるようにインスタレーションされています。

作品の1つに、自分がクレヨンで描いた海の生き物を、展示される海の中にクリエーションする体験があります。これは、大人でいえば童心に返って絵を描くことに没頭する純粋さに立ち返る創作体験や、その作品がインスタレーションの1つに加わるときの貢献的な体験、その喜びを感じることができました。

鏡を用いた、視界の広がり、世界の広がりも特徴の1つだったように感じます。左右上下、暗闇の中で、しっかりと目や体を見開きながら、作品を探索していくときに、鏡の効果によって、普段は見えない・視点を持たないところに目を置き、「こんな見え方にもなるのか、こんな捉え方もできるのか」と揺さぶられます。中でも、鏡と狭い感覚で何本物ポールが等間隔に展示されている作品がありました。この先は鏡で行き止まりなのか、続いているのか、手探り、目探りしながら、そのインスタレーションの中を進んでいく、ちょっと不安ながらもワクワクしながら歩みを進めていく、子供心の探検の面白さも思い起こされる楽しさがありました。

一休みできるカフェもあります。ここでも、五感と毛穴を開かせてくれます。お茶が提供されると、その液体の表面に花のつぼみが生まれます。やがて花を開き、そして散っていく様までが、お茶の中からテーブル・壁に展開されていきます。デジタルアートなわけですが、これもまたお茶の美味しさを一層高めてくれたようです。味覚だけで感じるよりも、ほかの感覚器官を使うと、その味や多幸感が増していくようでした。

会場全体は順路はなく。縦横無尽に行ったり来たり、時に小部屋があったり、トイレや給水点もあり、この空間をまさに探索します。空間認識力の高い人は、地図的なものを頭に描けるのでしょうが、わたしには難しく、一生懸命論理的に、ここでこの展示があって、こっちに行くとこれがあって、と認識するのが精一杯でした。

もう1つ最後に衝撃を受けた作品が、天井地面、左右の壁面、上下左右の展示された映像がそれぞれ異なる方向に動く作品です。正確にはおそらく上は不動と思いますが、その中に身を投げて没入します。これが、三半規管を狂わし、地面が揺れているわけではないのに、ものすごく体と頭が揺さぶられ、一方その揺らぎに慣れてくると心地よさも感じるような、とっても不思議な体験をさせられます。

ちなみに、鑑賞客の65%くらいが外国人だそうです。たしかに外国人のほうが圧倒的に多かったな、と思います。これもまた、いろいろな世界の人とつながる、地続きであることの作品の一部なのかも、と考えました。

イマーシブの本質は何か、いかに五感を使って生活していないか、に気づくこと。もっといえば、人間は、五感を使うと、もっともっとポテンシャルが広げることができる、このことに気づくことができました。日常が常に自然と、あるいは規範的に内なるポテンシャルに閉じて、限られた知覚を使い、刹那的に効率よく生きようとしているのか、を感じました。人のココロを動かすのは何か、この自分なりの探求テーマを思い起こされました。

作品の中に身を投じることで、身体的揺さぶりをかけられ、揺らぎを感じ、精神的な揺さぶりはドキドキとワクワクを触発し、純粋な興味や好奇心に触れる、気づく機会を提供されました。常に自然は揺らいでいる、揺らぎの中にいること、状況が自分の存在を規定していると言えることにたどり着きました。
まさに、Wonder,explorer and discover を体感させてもらえるすばらしいアートでした。

それでは、また。

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