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「冷静でいられない話題」の無効化方法を探す話

「日本語はハイコンテキストな言語だ」という言説に、日本人は多くの場合誇りを覚える。ハイコンテキストであることは繊細で、高度なことだという感覚が強いことは、もはや語るに及ばないように思う。

勿論、ハイコンテキストな語彙・表現は会話内容の高度化を助け、文脈による繊細な表現を可能にする側面があることは間違いない。しかしながら、一般にハイコンテキストな会話は相互の暗黙の了解によって成立すると考えられているが、実際にはその場において優越性を持った(多くの場合支配的な)文脈を持つ理解が優先されるという構造的な事実はあまり考慮されていない。この違いは大抵の場合において大きな意味を持たないが、こと社会的な立場の強弱がある場合、ハイコンテキスト性は無意識の圧力となる。さらに言えば、コミュニケーションにおいてそのすべてを担保するのは相互了解であり、それ以上ではないという体感的な理解こそがこれらの問題を微細なものに仕立て上げていたというのも、あながち過大な認識ではないだろう。

こういった問題を相互バイアスから救い出すことには相当のハードルがある。誰もが当事者であるゆえに「冷静でいられない話題」なのだ。この「冷静でいられない話題」というのは存外、というかむしろ不可避的に日常に溢れていて、SNSでは日夜激しい言論が交わされている。当然これは私にも当てはまるわけだが、冷静でいられないならないなりに多少なりとも見通しを立てられる方法論なんかは欲しいところだ。
これに関する一つの手段として考えられるのが、「当該問題が部分的に無効化される環境要素を仮定してみる」ことである。設定環境によって当該問題に仮想の基準を設けることができ、論展開を明瞭にできる可能性がある。今回は、自然言語がローコンテキスト性を獲得し得る環境を、特にテクノロジーによる要素として挙げてみる。

まず一つはグローバルな、あるいは多言語文化的な環境であろう。インターネットなどは多くその条件を満たすと言える。
任意の弱小コミュニティにおいて「女子に表立って優しくされるのはリアルじゃない」という真正性が共有されていたとき、場においてハイコンテキストなニュアンスとしての「ツンデレ」が生まれるとする。
これは当該コミュニティの近辺でライトノベルが「キモオタ」以外からも読まれるようになり、必ずしも共通感覚でなくなってからも、記号的な消費としてその地位を保つ。これはコミュニティ近辺において「キモオタ」の価値観が優越的地位を持っていることを示す。
しかし、インターネットによりツンデレが世に開かれると、「なんにでも噛み付いてくる女子はヤバい」といったよりプリミティブな価値観が卓越する。これがローコンテキスト化である。
つまり、当該コミュニティの単一性によって担保されていたハイコンテキストな理解文脈が、グローバル化によって希釈され、部分的に無効化されるということである。創作で言えば、SFの「ファーストコンタクト」モノはそれに当たるだろうか。

もう一つ考えられるのは、AIの技術的発展による相互規定である。
AIコンテンツの発展は自然言語による命令を可能にした。人はAIに「自然言語」というラングを与えたが、結果として得られる「AIコミュニケーション」というパロールはやはり、「自然言語」それ自体を再定義するのだ。
まさしくソシュールの指すところの「相互規定性」がある現象だと言えるだろう。

これらを念頭において、自然言語のローコンテキスト化、特に日本語でのそれは何を生むか。例えばジェンダーの文脈ではどうだろうか。合意に関するグレーゾーンは解消されていくだろうか。ハイコンテキスト圧力が減じることは短期的・直接的には女性に有利だが、今後もそうとは限らない。
別例として、日常的、あるいは慣用的な言い回しなどはどうだろう。ニュアンス別の言葉の分化によって「粋な言い回し」は無くなっていく可能性もあるが、香炉峰の雪的な論理(「マジカルバナナ」〜参照のこと)で、寧ろ価値は高まるかもしれない。もしそうであれば、本質的にハイコンテキストを尊ぶ文化は寧ろ強まると言えるし、「ハイコンテキストであることそれ自体」がかなり強く有意味化する可能性はある。その場合、コンテキスト相による意味の分別は、よりロジカルで形式的になっていくことが予想される。そういえば、我々は既に敬語で似たようなことを経験していないだろうか。まあ、この話題も「冷静でいられない話題」なのだが…


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