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美術史③初期キリスト教美術

※勝手に美術史の通史を纏めたものです。
※主に宗教画と絵画タッチに重きを置いて話しています。
※大学の講義で出したレポートを再編集しているので、情報の偏りと全体の大雑把さが見られます。
※また、参考文献等を省いております。ご了承ください。

 大きな流れとして捉えた美術史ということで、補足情報的に役に立てると幸いです。



 古代ローマ帝国の衰退は4世紀ごろから始まりましま(東西分裂)。それからは宗教的な側面でも文化的な側面でも東西での独自の発展を遂げていきます。5世紀以降の混沌とした時代を、後世の人々が“中世”と呼びました。前回までの古代の世界と、さらにその後であるルネサンスの間に挟まれた諸時代をこう言いました。後の時代の人々から見ると、いまいち“イケてない”時代としての認識が強いのが、中世です。
 しかし、時代の転換点としてはとても大きな境界線であると言えるでしょう。この中世の時代から、西洋美術の中核を担うものがキリスト教的世界観へと変わっていくことになるのです。

 キリスト教は皆さんも知っての通り、一神教です。この点から見ても、ローマ・ギリシャの時代の美術とは根本から異なってくることが分かるかと思います。そこに、当然時代を経た技術力なども上乗せされますが、彼らが美術的観点において何よりも大切にしている考えは“聖書(=聖典)”であるということを頭に入れておきたいところです。

 さて、今回のテーマである初期キリスト教美術について語るにあたって、やはりこの時分は“迫害の時代”であったことに言及すべきでしょう。
 ざっくりと説明いたしますと、現イスラエルのエルサレムではユダヤ教の勢いが強く、西ヨーロッパではローマ帝国──すなわち、未だギリシャやローマ神話的な世界が台頭していました。よって、まだ今日のように大きな宗教勢力になってはいなかったキリスト教は、迫害対象でありました。
 この後3世紀には勢いよく急速に普及していったものの、彼らキリスト教が正式に許容されるのは、世界史でも触れられた通り、4世紀初頭・コンスタンティヌス一世によるミラノ勅令発布のときです。

 宗教の多くは死生観に大いに関わっています。そのため、多くの宗教は独自の儀式や埋葬法などを確率しています。
 さて、上記のようにキリスト教が公認されていなかった頃、信徒の死後の埋葬方法は今と異なっていました。
 ローマを拠点とするキリスト教集団は特に、ローマの街道から少し離れた場所──石灰質の地質が広がる場所に道を通して地下通路として活用し、この中に“カタコンベ”という墓所を利用したであろうことが伝わっています(ただし、“カタコンベ”を使っていたのは、正確にはキリスト教のみではないとも言われています)。
 迫害から身を守るための地下施設を存分に活用し、こうした迷路のような地下通路に壁画(後の時代でいえば、“宗教画”でしょう)を描いていったのです。

 キリスト教の信仰に関係のある事物は、万が一に備えて象徴的表現の多用で迫害を免れていました。
 例えば、平和=オリーブを加えた鳩。錨、鋤=十字架というようにです。また、壁面などの絵画には、初期キリスト教の信徒の祈り方である、手を広げて掲げた状態の女性などがよく描かれました。これを“オランス”と呼びます。
 先ほど触れた象徴的表現によって、下記のように『イエス・キリスト』も表しました。

図の単語の頭文字を取るとギリシャ語で“魚”という意味になり、
初期キリスト教美術ではイエスを“魚”で表現しました。

 こうした象徴的な描き方を初期に行なっていたことは、後のルネサンス時代などにも影響を及ぼしているのではないかと推察できます。またシリーズの今後に出てきますが、キリスト教の宗教画には有名な十二使徒を動物に例えて描くなど、象徴的な描画が見られます。

 ちなみに、ルネサンス期頃に見つけられたこの初期キリスト教時代の遺跡は、ローマという街が丘のようになっていたため、発見当初は土砂で半分ほど埋まっていることが大半でした。また、初期キリスト教時代の壁画は先述した“オランス”のような人物画よりかは、象徴的なディテールが詰め込まれたものが多くありました。
 このような壁画は、発見された状態に因み、“洞窟風”という意味合いをもった“グロテスク模様”と呼ばれるようになりました。

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 さて、時代は移り変わって4世紀──キリスト教が公認された頃の話です。カタコンベなどに亡くなった信徒を埋葬する必要も無くなった彼らは、石棺を使用するようになりました。この石棺には側面に細かい彫像が彫られており、聖書の内容をモティーフにしていました。特徴としては、ローマの美術よりも人物の全体的な等身が少し小さく彫られているところが面白い点といえるでしょう(おそらく、石棺という限定的な素材の側面に収めるために彫られていたからだと考えられます)。

 4世紀末、ローマにて国教に指定されたキリスト教は次第に聖堂の制作も行うようになりました。このキリスト教の聖堂はローマ時代の神殿と異なった造りと考えのもと建てられていくことになります。
 ローマ時代の神殿は、あくまで崇められる対象である神々のためであるので、人々はあまり深くまで立ち入ることはできず、立ち入る必要のない造りとなっていました。
 一方、キリスト教の聖堂は、信徒である人々が信仰と祈りのために集うことを主としたので、人々が多く立ち入って集いやすい、いわば集会所のような建築様式を意識して造られました。

 ローマの中心地には現在と同様、カトリック教会の総本山・ヴァチカンがありました。ヴァチカンといえば、サン・ピエトロ大聖堂が有名でしょう。ルネサンス期に及んでも美術史において重要な役割を担う場所の、大聖堂が初めて建てられたのは、まさにこの時代です。

 “バシリカ式”と呼ばれる建築様式は、先述したように人々がたくさん入ることができる長方形の形のものでした。バシリカ式の建物は、内部空間が柱で三つか五つに分けられています。柱で分けたときの中央の空間を身廊(しんろう)、その他の空間を側廊(そくろう)と呼びます。
 また、建物の奥に進むと、中央に半円型の突出部があります。ここは、この建物の中で最も神聖な場所と位置され、祭壇などが安置されました(この場所は、“後陣”と呼びました)。

 バシリカ式の建築様式は主に、都市の中心部でよく見られます。
 この他に、“集中式”という円堂も建築されていました。これは、主に洗礼用や埋葬などに使われた様式でした。また、壁面も質素で土の茶が残っていたり、全体的に統一された漆喰であったりします。窓もバシリカ式と比べると、あまり多用されていないといえるでしょう。

 初期のバシリカ式や集中式の聖堂は、一見すると格別飾り立てられているわけではありません。しかし、一度中に入ると、窓部分などにガラスの欠片などを敷き詰めて光を透過させた“モザイク装飾”が施されています。 
 こうした装飾は、時代を経るごとにさらに細かく、輝かしいものに変化していきました。
 そもそもこの装飾は集まった信徒の人々を意識して作られています。ガラスの欠片は太陽光などによって、室内に神秘的な光を満ち溢れさせます。
 この空間に人々が置かれることによって、神の神秘をさらに間近に感じるのです。
 このような手段を用いて、信仰の意識を深くさせるという、一種の戦略的要素から装飾がより華美なものになっていったのだろうと推察できます。


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