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自分の機嫌を自分だけで取らなくてもいい、たぶん

機嫌を自分で取る、すごくすごく難しくないですか!??

いやなんかみんなそうしなきゃいけないのは漠然と知ってるとは思うんだけど、それはどこか理想の話というか、「そうはいってもできねえよな~」「そういう奴は元から元気だからだろ」みたいな、どこか無抵抗な諦めに結局落とし込まれることが多い感覚がある。かつそして、自分の機嫌を自分でちゃんと(:自らの思い通りに)取れないことを卑屈に捉えて、さらに落ち込むことが多い、たぶん。

なんかそれって、「自分で取る」という部分を「自分だけで取る」という捉えに変換しているせいじゃね?って思う。自分の頑張りとか、意識とか、意思とか、そこに全期待を賭けているしなおかつ毎回メチャクチャに裏切られるから、やっぱりこんなことで凹んでるのは自分が悪いしダメなせいだ…っていう終点に至るわけだけど、これってなんか…私という一人の人間が損をしている上に誰も得してない気がして。もうなんか、自分に期待しないということをいい感じに捉えられないのかなと考えて、自分なりにまとまったのでこれを書く。


自分の機嫌は自分以外のせいで変わりまくる

「自由意志」っていう言葉はかなり昔からあるけど、私はその意思の存在の確かさがよくわからない。少なくとも一時的な気持ち・感情みたいなものって、自由意志以外に左右されることばっかりだなーと感じる。例えば今日だったら、寒いから外に出たくない。低気圧で頭が痛いし動きたくない。睡眠不足で判断力が鈍っていて、物事に集中できなくてイライラする。生物(あるいは人間)としての習性や本能や、脳に染み付いた習慣に踊らされていることだらけだ。能動的に生きていけるのが人間が人間であることなんだみたいに語られることは多いけど、他の個体と関わり合って生きているのは人間以外の生物一般と何ら変わりない。人間はいつでも受動的である、ということ(≠自分の意思なんて存在しない)は忘れていいことじゃない。私が私だと思っている感覚みたいなところか、気持ちとか、思考とか、そりゃ自分は自分なんだから私だけが唯一左右できる意識が自分じゃん、と感じているかもしれないけど、そうできる部分があるにしてもそうできない部分の方がずっと多くて深いと思う(個人の感想)。氷山を舐めるな。


だとしたら私がするべき選択は

私たちがやるのは、とにかく漠然と「頑張らなきゃ…!」と自分自身に集中線を向けまくることではない。むしろ自分自身から意識をフェードアウトして、「以外」にもっと期待を投げる。私はいつだって受け身だ。その受け身に何を与えるか、誰をぶつけたらいいかということに悩んだ方がいい。例えば明かりですら、眩しいかほの暗いか、寒色系か暖色系か、室内光か太陽光か、いろいろオプションがある。まあ自分が気持ちよく感じる方を選べばいい。ただ、誰をぶつけたらいいかということは結構難しい部分だとは思うんですよ、自分の暗いところを他人に話すのって怖い、馬鹿にされたらどうしよう、って思う気持ちはどうしてもあるから。私も実際、自分の悩みを他者が全然真剣に受け取ってくれなかったこともあったので。だとしても、それでも、探していくしかないと思うんですよ、あなたにいつまでも付き合ってくれる狂った変人を。不必要に傷つくのも、悲しみを得るのも、そりゃもちろん私だって嫌だ。でも、私ひとりじゃ、人生一周分のストレスなんか耐えられないから。

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