TOKYO 2021 慰霊のエンジニアリング展を観て
東京駅から約5分ほど歩いたところにある戸田ビルディングで行われているTOKYO 2021の美術展である「慰霊のエンジニアリング」を観に行った。
芸術や文化に触れることが自分の人生を豊かにしてくれると信じているので、食指が動いたものは観に行くようにしているのだが、仕事やハッカソン、イベント運営や参加など、多忙な中、なかなか行動に移す時間がないのは、単に言い訳である。
やっと身体が空いた日曜日。
東京に暮らしてもう十数年経つ。その中で、自分は何をみて、何を感じ、どう生きてきたんだろうか。
例えば、2011年3月に起こった、東日本大震災。その時、会社の机の下に隠れ、余震に怯えながらも、その日行くはずだったライブのチケットは払い戻しされるのだろうか、などと呑気なことを最初は考えていたが、テレビで報道される信じられない光景に息を呑み、こんなことが現実に起こるなんてと、絶句した。
その光景を目の当たりにし、何かを感じ取ったアーティストたちは行動を起こし、様々な芸術作品を残した。
今の自分だったら、どうするだろうか。
自分の専門分野であるVUIを使って、何かを作るだろうか。
この展示のキュレーターである黒瀬陽平氏は、「開催にあたって」で、こう述べている。
災害と祝祭を繰り返すこの国に置いて「慰霊」は避けて通ることのできないテーマである。(中略)オリンピックという来るべき祝祭を目前にして、東京のど真ん中の、解体されるゼネコンの本社のビルで、そのような展覧会を開催する意義は大きいはずである。・・・・・・と考えていた。もちろんその思いは変わらない。しかし、展覧会の準備を進めているうちに元号が変わり、大きな、痛ましい事件が立て続けに起きてしまった。慰霊について考えるのであれば、それらの事件について、そこでなされた暴力について、考えないわけにはいかなかった。(中略)結果として、日本現代美術を通覧する、という当初のプランを大きく逸脱し、現在の混乱のなかを、手探りで歩むようなキュレーションになった。けれど、災害と祝祭の歴史が今なお繰り返され、私たちはまさに、そのただ中に生きているのだとすれば、もとより「歴史を通覧する」揺るぎない視座に立つことなど、不可能だったのかもしれない。
この言葉に、ハッとした。
これまで自分が学んできたことは、すべて歴史の積み重ねであるし、「歴史を通覧する」ことによって、勉強した気になっていたのかもしれない。
しかし、大事なことは今、自分が生きているこの国で、何が起こっているのかを知ろうとすることなのではないか。そして、知った暁には、自分のできることでいいから、行動に移すことなのではないか。それが、ここで生きるということなのではないか。
この展示に向き合ったアーティストは、葛藤しながら作品を作り上げたに違いない。
自分のできることをと思い、まずこの記事を書いた。
10月20日まで。是非足を運んでみてはいかがだろう。
(※作品は撮影可能)