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第84回 『ユリシーズ』第6話『ハデス』その4

「これから葬式だぜ。少し厳粛に行こうじゃないか」カニンガム氏が皆をたしなめた。
「なぁ〜に、あいつなら許してくれるさ」「ほんとあんないいやつ、いなかった」

 ディグナムは酒の飲み過ぎで亡くなった。

「突然死さ、かわいそうに」
「一番いい死に方ですよ」
ブルームがポツリと言った。

「⁉︎」
 その一言に他の三人がサッと引いた。

「苦しみのなく、一瞬にして全てが終わる」ブルームはさらに続ける。

カトリック教徒には「終油の秘蹟」という習わしがある。臨終がまじかに予想される人や重病者には秘蹟のオリーブ油を塗って神の恵みとする儀式を行う。従って突然死を良しとしない。

 「…」沈黙。

「かわいそうに、あれはまだ子供だよきっと」

 隣の馬車も霊柩車だった。棺は小さかった。

”小人の顔、死んだ息子そっくり(見ずに想像して)。パテみたいに脆いものが、棺に収められて。互助会が費用を払う。週1ペニー。うちのちいさな餓鬼は何の意味もなかった。自然の過失。
健康なのは母親のおかげ。不幸なのは父のせい。今度生まれてくるときは、どうぞお幸せに”

「しかし一番悪いのは、自ら命をを絶つことだ」パワー氏が言った。
「家族にとっても最大の不名誉だし」
「一時的な狂気のせいだよ。同情的に考えるべきだ」カニンガムが言った。
「でも自殺ってのは臆病者のすることだぜ」
「いや誰にも裁く権利はないはず」カニンガムはまた反論した。

 ブルームは黙って聞いていた。マーティ・カニンガムは目を逸らしていた。

”優しい男なのさ(カニンガムのこと)。同情心を持っている。アイルランド(カトリック教徒)は自殺に厳しい。信者としての埋葬を拒否される。昔は墓に入る前に心臓に杭を打ち込んだらしい(無念から起き出さないように)。でも手遅れになって後悔する者もいると聞くからなあ(誰に聞いたのだろう?)
今俺の顔を見た
(カニンガムが)。あんな飲んだくれの女房を抱えて、家具一式買い揃えても、次の日は質に入れちまう”

 マーティ・カニンガムのモデルはジョイスの父の友人だったマット・ケイン。故パディ・ディグナム氏のモデルもマット・ケイン。やはり妻がアル中だった。

 ”また俺を見た。知ってるんだ”

 何を? カニンガムだけが知っている。ブルームの父親の死因が自分の手によるものだと。

”あの午後の検死。ホテルの一室。小瓶がテーブルに乗ってて。暑い日だった。監視官のあいつの耳に毛が生えてて、日差しにあたってたっけ。
(ホテルマンの証言)初めは寝てるのかと思いました。
検死結果。薬の飲み過ぎ。過失死。
我が子レオポルドへ。”


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 馬車がガタガタ揺れた。
「飛ばしてるね」「客をおっことす気か」「まったく」

 角を曲がってバークリー通りに入った時、手回しオルガンの陽気な音楽が聞こえた。
♪かぁーれってひどいのよ、あたしを一人にするなんてぇ。

 エクルズ通りを過ぎる
”あ俺んち。
(で、角には)慈悲の病院。ミセス・リオーダンがあそこで死んだ(『若い芸術家の肖像』にも出ていたスティーブンの家庭教師。ダンテ・リオーダンのこと。ディダラス家の友人と、政治or宗教で激論の末家を飛び出す。ブルームとも知り合いらしい)”

また停まった。「今度は何?」
 牛の行列が進路を遮っていた。
”イギリスに送るんだろう。あいつらローストビーフが好きだから”


「電車の線路、河岸まで伸ばせば牛も馬も船に乗せるのが楽なのに。市は何やってんだか」「道も塞がないし」「でしょ? それに葬式電車も。霊柩車も会葬者もみんな揃えて、そうすりゃ楽でしょ」
 いつも控えめのブルームが珍しく持論を唱えた。
 
 1904年、ダブリン市民の死亡率は高かった(らしい)。毎年一千人に三十人。原因は貧困と公衆衛生(どの国もでしょうけど)。道路には馬糞がゴロゴロ(馬車)。共同住宅は病原体の温床(共同トイレや室内トイレ)。殺菌していない水や牛乳の摂取。
 街では、毎日のように霊柩車が道路を行き来していた。

「霊柩車が棺をおっことすこともないし」「あぁ、あれは酷かった。しかも死体が道に転がるとは」

”そんな時もし死体に傷ができたら、そこから血は出るのかな? 場所にもよるな。血液の循環は止まっているけど、多少は出るだろう。埋葬するときは赤い屍衣に包んだらいい。血が目立たない”
ブルームのどうでもいい独白。

 馬車はロイヤル運河に架かるクロスガンズ橋に入った。
小舟が泊まっていた。船の上には泥炭と男が一人。
”アイルランドをぐるっと横断。娘ミリーがいるマリンガーにも行ってきたんだろう。いいな。俺も徒歩旅行で行ってみるか。自転車でもいいな。こないだ競売に出てたっけ? でもママチャリだった。
発展する水路。ジェイムズ・マッキャン
(ロイヤル運河を作った人)の道楽は渡し場の漕ぎ手になって俺を渡すことだよ。安上がりの輸送。ゆっくり野営しながら。水路で天国へ”

 途中から何のこっちゃ。上の独白に出てくる「俺」とはブルームのことじゃなく、故ディグナムの霊が自分に憑依したのを想像している。
つまり運河よ死んだ俺を天国まで輸送しろと。

 そして小舟の男はこちら(霊柩車)に気づくと、帽子を取り敬礼した(この男はのちに再登場するらしい)。


 その後、「誰かフォーガティの所在知らない?」「さあ」「金貸してんだけど」「ふ〜ん」
 
 次、(実際に)殺人事件が起きたらしい家の前を通り、パワー氏が「あ、あそこあそこ、チャイルズ殺人事件の家」。

殺人犯の敷地。借りてもなく、見捨てられた家。雑草だらけの庭。陰惨な光景。殺される間際、犯人の顔が瞼に焼き付く(いかにも昔の人が考えそうな迷信)。真犯人はまだ捕まっていない。でも急に行ったらあいつ怒るかも? 一生恨まれるぜ。難しい年頃さ”
殺人事件のこと考えてる途中で、娘の下宿先へのアポ無し旅行を思いついたブルームのぼんやり意識。


「弟が兄を殺したんだ。噂ではそうなってる。シーマー・ブッシュ(実在した弁護士)が無罪にしたけど(ジョイスはこの裁判の傍聴席にいた)」「検察側に証拠がないとなると」

「一人を無罪の罪で処刑するより、九十九人の犯人を無罪にする方がいい」
 とカニンガム氏。
今の日本にも通づる問題に言及してみたり。

 ついに馬車は墓地に着いた。


続く。




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