「関係」のなかに、私を閉じ込めないで
昔から、人との関係を枠にはめることが苦手だった。
「友達」が「親友」や「恋人」のような、特別な関係に色付けされた瞬間に、もとの関係とは違う何か別のものへと変質していく。その変化のスピードに私はいつもついていけなくて、何かが変わってしまうことが恐ろしくて、いろいろなことを曖昧なままにしてきた。
世間から見れば、名前のある関係の方が圧倒的に正しいのだろう。揺るぎない立場が保証されていて、まわりがみんな肯定的に認めてくれるような。
でも、たとえ形式上は自分の居場所が確保されていたとしても、その関係を維持するために少しずつ自分自身の「こうでなければならない」に雁字搦めにされ、身動きがとれなくなっていくのだとしたら。私たちは、何のためにその居場所を守ろうとしているのだろう。
映画「流浪の月」を観たあとに考えたのは、「幸福な関係とはなんだろう」ということだった。
原作を読んだときは、「真実と事実は違う」が読了後に考えたテーマのひとつだった。
でも映画版は、登場人物の佇まいや表情といった言語化できない情報が盛り込まれているからこそ、「関係」についてより深く考えさせられたような気がする。
特に主人公である更紗の表情や醸し出す雰囲気は、この映画の肝となっていたように思う。
「かわいそうだから守ってあげなければならない」「守られる代わりに、従順でなければならない」といった規範を無言の圧力で押し付けてくる恋人の前では、微かな違和感を抱きつつもその理想に素直に従ってしまう。
おかしいとは思っても、「恋人」という立場に守られ、生活も共にしているからこそ、違和感に気づかないふりをして我慢すれば、表面上は平和な暮らしが維持できる。
「私たちみたいに頼れる身寄りがない人間はさ、保証人として恋人が必要じゃん」と、更紗の職場の友人が諭す。現実問題として、この関係の枠に閉じ込められることでしか、今の平和な暮らしは維持できない。
けれど、自分を誘拐した犯人として捕まった佐伯文との再会によって、更紗は自分自身を抑圧してきたことに気付かされる。
文と一緒に過ごしたあの頃、私はもっと自由だった。
そう気づき、これまで見過ごしてきた恋人との関係における小さな違和感を、看過できなくなっていく更紗。
恋人の前で見せる表情と、文の前に立ったときの空気感。決して大袈裟すぎず、けれどその違いがはっきりと観客にもわかる、絶妙な広瀬すずの演技が、この物語における「関係性」というひとつのテーマを浮き上がらせていた。
更紗と文の関係は、世間一般では名前のつけられない、本人たちにしかわからない特殊なものだ。
お互いに異性として惹かれているわけではない。でも、ただ側にいたいと思う。
身体的につながることはなくても、しっかりと力強く手をつなぎつづけていたいと思う。
しかも世間的に見れば二人は「元被害女児」と「元誘拐犯」であって、どこをとっても二人の関係は「間違っている」。更紗も文も、再会さえしなければそれぞれの恋人と普通の、世間的に正しい関係のままでいられたのかもしれない。
けれど、世間的に「正しい」関係は、二人にとっては違和感に耐え、自分を抑圧することでしか続けられないものだった。どんなに間違っていても、二人でいることの方が自然で、心地いい。
二人の間でだけは、「かわいそうな子」「変な人」「気持ち悪い/理解できない」といったレッテルは存在せず、ただの更紗と文でいられる。
普通でない部分ばかりが取り上げられ、あたかもその部分こそが自分かのような扱いを受けてきたからこそ、ただ自分自身でいられる場所に二人とも飢えていたのだろう。
更紗が文と過ごすことで本来の自由でのびのびとしたキャラクターを取り戻すごとに、前半で恋人と暮らしていた頃のどんよりと沈んだ空気感を思い出して胸が締め付けられる。
私たちは社会で生きていくなかで、多かれ少なかれ周りに求められる「理想のわたし」を演じてしまう部分がある。それは決して押し付けられているわけではなく、私たち自身が先回りして相手の理想を汲み取り、その理想をかなえようと思うあまりに、勝手に自分自身に縛られていく。
その閉塞感が極まると、序盤の頃の更紗のように、本来の自分がどうだったかすらわからなくなり、ただ何かに耐えるだけの日々になってしまう。
ただの「私とあなた」でいる。それだけのことが、こんなにも難しい。
関係の枠ができると、その役割に求められる理想も、演じようとしてしまうから。
「私」を、記号やレッテルに、そして世間一般の関係性のなかに、閉じ込めてしまわないで。
更紗がときおり見せるまっすぐな視線が、そう叫んでいるように見えた。